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JB さん――POW 研究会事務局長

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 82-87)

4 捕虜問題と日本人――フィールド調査より

4.3 POW 研究会――日本人活動家へのインタビュー

4.3.2 JB さん――POW 研究会事務局長

日本政府による招聘プログラムの情報が得られないため招聘の現場を調査することは半 分諦めていたが、JAさんとのインタビューが思いがけない結果となった。インタビュー当 日、JAさんは「捕虜 日米の対話」のスタッフであるJDさんと打ち合わせの予定があっ た。インタビューの途中でJDさんとアンソニー君が合流するかたちになり、JAさんから ふたりを紹介していただいた。その後、JDさんからは機会があるごとに声をかけていただ き、調査が一気にすすんだ。はじめてお会いして数日後にアンソニー君が福岡県大牟田市 を訪問することになっているので同行してくれないかと打診されたときは戸惑ったが、捕 虜が使役されていた三池炭鉱跡地や捕虜収容所跡地を訪れることは有意義であると考えて 引き受けた。現地では、アンソニー君がある男性にインタビューすることになった。その 男性は中国からフィリピンへ送られた元日本兵で、バターン死の行進を目撃していた。復 員後、三池炭鉱の事故に遭遇し、一酸化炭素中毒の後遺症を患っているということであっ た。アンソニー君のインタビューではあったが、結果的に大変貴重な話を聞くことができ た。

JDさんには、保土ヶ谷の英連邦墓地でおこなわれる追悼礼拝や、直接捕虜問題とは関係 ないが、シベリア抑留者支援・記録センターの催しなどに誘っていただき、さまざまな人 たちに紹介していただいた。特定の問題に限らず活動に参加されている人たちが多く、複 数の催しで会ううちに顔見知りとなり、その後、インタビューをお願いした方もいる。ア メリカの元捕虜の大会や、元捕虜の人たちと一緒にフィリピンツアーに参加して調査でき たのもJDさんが誘ってくださったからである。

2010年の招聘初年度、JDさんから招聘者との交流会の情報をいただいた。メールに添 付されていた交流会のちらしには、招聘の日程がのせられていた。そこに「国際基督教大 講演会」とあったのでJDさんに聞くと、JDさんは講演会について、まだ知らないので逆 に情報を教えて欲しいということであった。交流会は「捕虜 日米の対話」「POW研究会」

「元捕虜・家族と交流する会」の共催で、申し込み先はPOW研究会であった。交流会に申 し込むときに講演会について聞いてみたが、POW研究会でもまだ把握していないとのこと であった。その後、結局、JDさんから講演会の時間を教えてもらうことができた。

この元捕虜との交流会参加申し込みを通じてPOW研究会にはじめて接触した。当日、早 めに会場に行くと、POW研究会のメンバーが会場の設営をしていた。何か手伝うことはな いかと聞いてみると、「アメリカ元捕虜&家族との交流会」と大きく印刷されたものを正面 の壁に貼るのを手伝うように言われた。日本政府の招聘プログラムの一環にしては「手作 り」な印象を受けた。

交流会の司会はPOW研究会のJBさんであった。交流会申し込みのとき、大学の講演会

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についてたずねると「外務省に問い合わせてみる」と親切な返事をくれた人である。JBさ んの紹介で研究会共同代表の男性が挨拶をはじめた93。挨拶の内容は、日本が国際法を無視 した非人道的な捕虜の扱いをしたこと、元アメリカ兵捕虜が長年、日本の政府と企業から の謝罪と補償を要求していること、藤崎駐米大使(当時)と岡田外相(当時)が謝罪した が、それで補償問題が解決したわけではく、交流会は元捕虜の体験を聞くとともに、自分 たちに何ができるのかを考えるよい機会であるというものであった。

捕虜問題に関する活動を調査するなかでPOW研究会の存在については知っていたが、歴 史研究が主要な活動であり、本研究とあまり関連がないと考え、連絡を取らないでいた。

交流会の途中で元捕虜や日本人参加者が研究会の歴史調査活動に対する賛辞を述べていた ことから、研究会が熱心に活動し、元捕虜からも認められていることがわかった。

交流会のあとPOW研究会とは関係が途絶えていたが、捕虜問題の文献を調べるなかでメ ンバーの著作に自然と触れることになった。そのなかにJBさんの著作もあった。JBさん にメールを出したのは交流会から約1年後のことである。元捕虜と日本人の市民レベルで の交流を調査するなかで、ひとりの女性の存在が気になるようになった。たびたび名前を 目にするその女性がPOW研究会のメンバーであることがわかったので、JBさんに、イン タビューのためにその女性を紹介してもらえないかとお願いするメールを送ったのである。

さすがに1年ぶりのメールでそのようなお願いをする勇気はなかったが、その前に英連邦 墓地の記念式典でJBさんにお会いし、交通の便の悪い墓地からの帰り、JBさんの運転す る車に同乗させていただいた縁もあったのでお願いしてみることにした。JBさんのおかげ で、その女性にインタビューすることができた。

その後、JBさんに誘われてPOW研究会のメンバーになった。2年目の招聘プログラム の交流会にはメンバーとして参加し、記録などを手伝うことになった。そのとき、JBさん から元捕虜の地方訪問へ同行しないかと声をかけていただいた。その年の招聘メンバーの なかには、JDさんに誘われて参加したアメリカの元捕虜の会で、JAさんの紹介でインタ ビューさせてもらった元捕虜PAさんがいた。PAさんは自身が収容されていた富山県高岡 市を訪問することになっており、「一緒に行けるといいね」と話していたが、情報を得にく い招聘プログラムの地方訪問にどのようにしたら同行できるのかわからず、まさか実現で きるとは思わなかった。同行には特に外務省の許可が必要というわけではないが、JBさん が外務省に紹介してくださり、おかげでPOW研究会のメンバーとして安心して同行するこ とができた。

JBさんにインタビューをお願いしたのは、それから4か月後のことである。POW研究 会のことがまだよくわからなかったし、非常に熱心に活動するJBさんについても知りたい と思った。POW研究会の発足当時の様子について、JBさんは次のように述べている。

それぞれ孤独にやってきた人たちだったのよね。本当にそれまで、なんていうか、

93 もうひとりの共同代表は、内海愛子恵泉女学園大学名誉教授である。

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孤立無援でこつこつと自分でやってきた人たちだったから、ようやく仲間に巡り合 えたっていうような感じでものすごく盛り上がって。すぐにメーリングリストをつ くって。〔中略〕もう毎日のようにいろいろなテーマで議論というか、情報提供した り、意見を言ったりして。もう、すっごい量のメールが行き交って、盛り上がった のよ。

JBさんも1997年からPOW研究会発足の2002年まで、ひとりでこつこつと捕虜の歴史 を調べていたひとりである。JBさんが捕虜の歴史を本格的に調べはじめたきっかけは横浜 市保土ヶ谷にある英連邦戦死者墓地での戦没捕虜追悼礼拝を報じる新聞記事であった。

1970年代に保土ヶ谷に引っ越してきたJBさんは、すぐに墓地の存在を知るようになっ た。ある日、墓地の門が開いていたので入ってみるとたくさんの碑が並んでいた。ほとん どの没年が1942年から45年であった。英連邦の墓地であることからイギリス人の墓であ ろうことはわかったが、なぜこれほどの数のイギリス人が日本で戦死しているのか理解で きなかったという。放送作家として地元のテレビ局の仕事をしていたJBさんは地域の情報 として墓地についての番組をつくれないかと考え、図書館などで調べたが何もわからなか った。近所の人たちに聞いてもエリザベス女王やダイアナ妃が墓地を訪れているというこ と以上の情報は得られなかった。

それから約20年後の1997年、JBさんは上述の記事をみつける。そこではじめて「捕虜」

ということばに出会い、多くのイギリス兵が捕虜として日本で戦死していたことがわかっ た。JBさんは追悼礼拝の呼びかけ人のひとりである青山学院大学教授の雨宮剛に連絡をと り面会した。そのとき永瀬隆94のドキュメンタリー番組を2本見せてもらった。泰麺鉄道建 設の最大の難所とされているヘルファイヤー・パスでの、永瀬隆と元捕虜の緊迫した場面 を見たJBさんはショックを受けたという。

〔元捕虜の人たちが〕にらむというよりも、ものすごく冷たい、憎悪に満ちた目で永 瀬さんたちを見たのよね。その目を私はとても忘れられなくて。こんなに日本人が憎 悪されるようなこと、何があったのだろうっていうような、それほどひどいことがあ ったのか(と思いました)。〔中略〕これだけの人が犠牲になったのかっていうのがも のすごくショックで…。私たち、イギリスなんかとも仲良くしていると思っていたの だけれども。皇室同士も仲がいいし。あんなふうにイギリス人のなかに日本人を憎悪 している人たちがいるのか(と思いました)。それで、一体何をしたのだろうってい うふうな(疑問を感じて)、そういうことから、とにかく知らなくてはいけないんじ ゃないかっていうふうな気持ちにかられて…〔後略〕。

94 陸軍通訳として捕虜の拷問に立ち会った永瀬隆は、戦後、100回以上タイを訪れ、死亡 した捕虜の慰霊や日本人と元捕虜との和解に尽力した。

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 82-87)