5 日米間対話の齟齬
5.2 すれ違う戦後和解のナラティヴ――日米間対話の齟齬とその要因
5.2.1 戦後和解の多様性――問題関心と条件の力学
テニーさんにとっての戦後和解とは何であろうか。大学の講演会でテニーさんは、共感 と相互理解について自分の持ち時間を使うつもりであるが、その前に知っておいて欲しい こととして自分の捕虜体験を語っている。ここに端的にテニーさんにとっての戦後和解と 問題関心が示されている。テニーさんの戦後和解の理念は「共感と相互理解」である。し かし、そのためには捕虜の歴史が承認されていなければならない。戦後和解のために、ま ずは捕虜の歴史が承認されること、これがテニーさんの問題関心である。そのため、テニ
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ーさんのナラティヴでは捕虜の歴史と戦後和解のナラティヴが混然一体となってあらわれ ている。スピーチでは、冒頭でバターン死の行進の体験を語り、共感と相互理解について 言及したあとで日本人による激しい暴力とひどい怪我の状態を語るというように、捕虜の 歴史と戦後和解への言及が交互にあらわれている。「完全な過去の真実をみなさんに知って いただきたいのです。私は日本のすべての人びととの平和の道を見つけたいと思っていま す」というテニーさんのナラティヴでは、和解と捕虜の歴史の承認が、その関係性を説明 する必要もないほど自然に連続している。捕虜の歴史が語られるのは、和解(共感、相互 理解、平和)のためなのであり、捕虜の歴史のナラティヴなしに和解のナラティヴが語ら れることはない。
テニーさんにはもうひとつ別の戦後和解の解釈がある。それは、日本への悪感情を克服 し、ゆるすことによる「ゆるし」の戦後和解である。ここでも問題関心は捕虜の歴史であ る。ゆるしは忘却を意味せず、歴史とゆるし(和解)のナラティヴは一体である。テニー さんのゆるしのナラティヴは、「ゆるすが忘れない」という元捕虜のあいだでたびたび語ら れるナラティヴと同類のものであるが、この戦後和解のナラティヴについてはあとで立ち 戻ることにする。
テニーさんの問題関心である捕虜の歴史の承認はどのようにして解決されるのであろう か。テニーさんのナラティヴから確認できる条件は3つある。ひとつは日本企業からの補 償、ふたつめは日本政府および捕虜を使役した企業からの謝罪、そして、三つめは日本人 による歴史研究である。
補償裁判の原告であったテニーさんは2006年5月20日、ADBCの大会の基調講演で次 のような演説をおこなっている。
アレクサンダー会長、元捕虜仲間の皆さん、来賓の皆さま、そして今は亡き友人た ちのご家族の皆さん、私は、私たちの正義への戦いに関する私の思いを、皆さんと 分かち合うよう依頼を受け、光栄です。過ぎ越した年月の中で、私たち全員は、バ ターンとコレヒドールで私たちに起こったこと或いは日本軍捕虜収容所で過ごした 期間について、なんらかの形で議論を交わしてきました。
どうにかこうにかこれらの議論は、「愛と理解」といった言葉や、慈悲・許しを強調 する言い回し、果ては励ましや友情を語れるところまで、来るようになりました。
でも私は今夕、「責任」に関する言葉と価値を皆さんと分かち合おうと思います。そ れらは自分の行動に責任を持つということであります。物事がうまく行かなくなっ たときでも責任を受け入れる、そして自分の能力の許す限り責任を果たしたのだ、
その時点で正しいことをしたのだ、という認識と共に生きることを進んで受け入れ る、といったことです。
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私はこれまで、訳知り顔の連中が、私の訴訟はお金が目的で、ホロコースト被害者 の真似をしたのさ、と言うのを何度も耳にしました。その件について、ここではっ きりさせて貰います。自分を奴隷にして虐待した日本企業からどのように未払い賃 金を回収できるのか、私が初めて国務省に尋ねた手紙は、1946年11月7日付けで した。そうです。1946年です。1、2週間のうちに、1946年11月18日付けの国務 省からの返事を受け取りました。そこには、私の正義への戦いにおいて私の利益を 代理する弁護士も他の組織も必要ない、国務省が私になり代わって対処する。追っ て連絡する、と書かれていました。
さて、2006年5月20日の今日現在、私はその連絡を貰っていないのです。
60年前に日本は降伏し、やっと平和が戻ってきました。しかし、私たちのある者は 今でも、かつての敵が責任を取ることを待っています。私たちの側は責任を受け入 れたからです。私たち元捕虜は、野蛮で残虐な敵に降伏した時に私たちを待ち受け ていた運命を受け入れるという責任を取り、その後の年月で、そのような責任ある 陸軍・海軍・海兵隊兵士であったことのつけを払ってきて、現にいまもそのつけに 悩まされている者も多いのです。[後略]103
講演の冒頭で、和解の解釈がはじめから「愛と理解」や「慈悲・許し」「励ましや友情」
であったのではなく、長年の変遷を経てそうなったことがわかる。しかし、その直後にテ ニーさんは「でも」と言いながら日本の責任を追及している。ここで、日本が責任を果た す条件とされているのが捕虜の労働への対価(補償)の支払いである。しかし、この基調 講演の時点で、テニーさんたちの補償裁判の請求は棄却されていた。この結果を受けて、
テニーさんの和解の条件は、補償から謝罪へと移行する。講演の後半では「戦争は終わっ たが記憶は残ります」というフレーズが3回くり返されているが、2007年に書かれたジョ ン・トーマス・シーファー駐日大使(当時)への手紙では、日本に対する謝罪が明確に要 求されている。捕虜の歴史の記憶(承認)という問題関心の条件が補償から謝罪へと変化 していることがわかる。
親愛なるシーファー大使
サン・ディエゴにお越しになると伺い、元日本軍捕虜の団体である「American Defenders of Bataan and Corregidor」の来年度会長となる私は、私たち元捕虜が 抱いております問題・不満・価値観について、たとえ短い時間であっても聞いて戴
103 http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm(2016年3月28日)。「捕虜 日 米の対話」ウェブページより引用。
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きたいと思ったのですが、お忙しいスケジュールでそれは叶わないとのお返事、残 念です。
人生のこの時期に来ますと、私たちが必要なものは少ないのですが、実現したいこ とは多々あります。何より、私たちはかつての敵からの尊敬を欲し、必要としてい ます。私たちは、日本兵からの不必要な残虐行為で苦しんだ私たち捕虜に対して、
日本の指導者が直接謝罪することを欲し、必要としているのです。[後略]104
その後、テニーさんは招聘プログラム実現を目指すようになる。2009年2月にはクリン トン国務長官(当時)とオバマ大統領に日本政府に招聘を要請するように手紙を書いてい る105。2010年に招聘が実施されたことにより、政府による謝罪という条件は満たされた。
しかし、企業の謝罪という条件が残されている。招聘プログラムが実施され満足している のに「今もまだ望んでいること」は企業の謝罪であり、その条件が満たされない限り「傷 はまだ開いたまま」なのである。
承認の条件が補償から謝罪へ移行し、招聘プログラムによって政府による謝罪の条件は 満たされたが、企業からの謝罪が課題として残されているというのは、アメリカ議会のナ ラティヴの調査から得られた戦後和解の問題の変遷と一致する。しかし、招聘プログラム の戦後和解のコミュニケーションは、このようなナラティヴに尽きるものではない。交流 会や記者会見では、政府や企業の代表ではない日本人との対話がおこなわれるからである。
テニーさんはそのような日本人に何を求めているのであろうか。
テニーさんが日本国民に捕虜の歴史の承認を求めていることは明白である。政府が過ち を認めない限り「日本国民のみなさんがこの問題に興味を持たれないのではないか」と疑 い、無関心な傍観者になることを非難している。それでは、日本人が傍観者であることを やめ、捕虜の歴史を承認したとテニーさんが認めるための条件は何であろうか。招聘プロ グラムのナラティヴから確認できるのは、捕虜の歴史とアメリカ文化(思考や価値観)を 知ることである。テニーさんは外相の謝罪が報道されたことを評価し、外務省の厚遇とな らべてPOW研究会の活動への感謝を表明している。謝罪は政府がするべきことであるが、
その報道は国民がするべきことであり、問題を知ろうとする姿勢のあらわれである。そし て、捕虜の歴史を研究するPOW研究会の活動は、評価を超えて感謝の対象にまでなってい る。
アメリカの文化を知ろうとする姿勢が条件であることは、42年前にテニーさんが自宅に 滞在させた日本人留学生田坂徹さんとのナラティヴから確認できる。当時、「まだ心に憎し
104 http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm(2015年9月28日)。「捕虜 日 米の対話」ウェブページより引用。
105 http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm(2015年9月28日)。「捕虜 日 米の対話」ウェブページを参照。