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フーコーの言説分析とコミュニケーション

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 30-35)

2 ナラティヴ・アプローチ

2.2 フーコーの言説分析とコミュニケーション

ここまで、ナラティヴが歴史の物語よりも広い概念であること、ナラティヴを語る主体 が物語を語る主体よりも流動的で1つの主体に特定されないことを見てきた。次に、フー コーの論考に依拠しながらナラティヴの概念をより積極的に意味づけていく。本研究にと

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ってフーコーが示唆的であるのは、フーコーの言説分析が徹底して記述レベルにとどまる こと、そして、言説の希少性の考え方による。

記述レベルにとどまるとは、次のようなことである。フーコーは『知の考古学』

(1969=2013)の序論で、時代や世紀といった大きな連続性から断絶している諸現象とい う非連続性へと歴史研究の関心が変化していると述べる。フーコーが批判するのは従来の 連続性を求める歴史研究である。そして従来の方法から脱却できていない思想史研究との 相違点をあげながら自身の考古学的研究を提唱していく。

フーコーは従来の歴史の連続性を支えているのは人間学的主体であるとし、それにもと づく言説分析のふたつの研究テーマを放棄すべきだとする。そのテーマとは、言説に関す るひとつの起源とその反復の探求、そして、「すでに語られたことであると同時に語られざ ることでもあるものの解釈ないし聴取」(Foucault 1969=2013: 51)である。人間学的主体 にもとづく歴史の連続性は、伝統、因果性の外観を示す影響、発達と進化、人間の心性や 精神などの観念によって多様化されている。フーコーはこれらすべての連続性を否定的に 捉え、解釈、目的、意味、認識、理念の問題として言説を分析するのではない道を模索す る。

フーコーはひとつの文がふたつの異なる意味作用を持つことや、誰にでも明白な意味が より繊細な解読や時間の経過とともに別の意味を隠し持つようになることを否定しない。

語られたことはそれ自身よりも多くのことを語るのである。人間学的主体にもとづく言説 分析は言説の二重化・二分化によってもたらされるもの、つまり可視的な言述の下にある 別の言述によってもたらされるものを問題とする。たとえば、解釈学は多義性を問題とし、

意味論は文によってもたらされた意味や隠された意味を問題とする。また、ひとつの言語 使用によるもうひとつの言語使用の禁圧、置換、干渉が問題とされる。しかし、これらの 問題はフーコーの言説分析とは無関係である。なぜなら、フーコーの分析は言説の次元に とどまるからである。フーコーは以下のように言明している。

問題は、テクストから思考へ、おしゃべりから沈黙へ、外部から内部へ、空間的分 散から束の間の純粋な内省へ、表面的多様多数性から深い統一性へと移行しようと することではなく、言説の次元にとどまることなのである。

(Foucault 1969=2013: 146)

それでは、言説の次元にとどまることで探求される問題とはなにか。それは言説の統一 性と規則性を、言説を形成する諸言表12のあいだの諸関係を把握することによって明らかに することである。いいかえると、諸言表の関係の分析を通じて言説形成の法則を打ちたて

12フーコーは、言表は、言表と言表されるものとの関係、言表と主体の関係、関連領野の存 在、物質性において特異な機能をもっており、言語体系(ラング)の構成要素としての諸 記号と混同されてはならないとする。

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ることである。言説形成の法則を打ちたてるといってもそれは言説が孕むふたつ以上の異 なる対象を収れんしたり矛盾を解消したりして言説形成を合理的、整合的に説明すること ではない。言説のなかで諸言表はある対象に関係してひとつの領域のなかに出現したり互 いに矛盾する関係として出現していたりする存在様態であり13、言説は「それが言表である 限りにおける諸記号の連なりによって、つまり、特殊な存在様態を指定することが可能な 諸記号の連なりによって構成されている」(Foucault 1969=2013: 203)。つまり言説とは「同 じ一つの形成システムに属する諸言表の集合」(Foucault 1969=2013: 203)なのであるが、

フーコーの言説分析はそのような言表のシステムを記述レベル(文法的レベル、論理学的 レベル、心理学的レベルではなく)で分析するところに特徴がある14

次に、希少性についてである。ナラティヴ・アプローチはフーコーの論考に大きな影響 を受けている。カウンセリングにおけるナラティヴ・アプローチの提唱者M・ホワイトと D・エプストンは、フーコーの「真実」の歴史的構築性や「抑圧された知」にかんする論考 をもとに「ドミナント・ストーリー/オルタナティヴ・ストーリー」という概念をうみだ した(Monk et al. 1997=2008; 野口 2001, 2009b)。

ドミナント・ストーリーはある状況において自明のこととして疑われることのないよう な物語である。そこではフーコーが描いた真実が、特権的例外としてのドミナント・スト ーリーのひとつとされる(野口 2001)。「ドミナント」という言葉が示すようにドミナント・

ストーリーはある状況における支配的な物語でほかの物語を抑圧しているとされる。ホワ イトはドミナント・ストーリーの自明性を疑い、より好ましいオルタナティヴ・ストーリ ーをうみだすために問題を「外在化」することを提唱している。問題について語るとき、

語り手は自分を責めたりお互いを批判しあったりすることによって問題を内側へ取り込も うとする。いいかえると、問題は自分や相手に内在しているものとして語られるのである

(Monk et al. 1997=2008)。それは、なんらかの事態について語ろうとするとき、それを 人間や人間関係の問題として語りやすく、事態そのものを語ることができないということ である(野口 2009c)。問題を外在化することによって、ドミナント・ストーリーに変化が もたらされ「ユニークな結果」がうまれる。より好ましい物語がうまれるためにはひとつ やふたつのユニークな結果では不十分であるが、それが集められることによってオルタナ ティヴ・ストーリーの筋書きを描くことが可能になる(Monk et al. 1997=2008)。

真実の自明性を疑い、ドミナント・ストーリーの抑圧から「いまだ語られていない物語」

13 言表は命題でも文でも言語行為(スピーチ・アクト)でもない独自の存在様態である。

言表において問題となるのはその独特の機能である。言表の機能については注11を参照の こと。

14 『知の考古学』においてフーコーは、対象の形成、主体的位置の形成、概念の形成、戦 略的選択という、言表機能が作動する4つの領域を詳述している。ひとつの言説形成の分 析には、言表機能が前提する4つの領域の連接の仕方の検討が求められるが、そのほかに も言表の記述、諸言表が担う機能の記述、言表機能が作動する条件の分析という作業が必 要である。

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(野口 2009c: 262)を解放しようとする傾向は歴史の物語論と共通する。国家の正史をド ミナント・ストーリー、そこには回収されない語りをユニークな結果、それらによってつ くりなおされる歴史をオルタナティヴ・ストーリーと考えてよいだろう15。ここでひとつ疑 問がわく。ホワイトが問題の外在化を経てオルタナティヴ・ストーリーを目指すのとは反 対に、歴史学では体験や記憶、想起にもとづいたオルタナティヴ・ストーリーが目指され るのである。実はこれはホワイトの外在化とユニークな結果というふたつの概念の不調和 をあらわしている。外在化とは問題を人間や人間関係から切り離し、問題を問題として語 ることであった。そこから得られる(可能性がある)のがユニークな結果であるが、ホワ イトはユニークな結果として「体験に近い出来事」(Monk et al. 1997=2008: 97)を選びだ すことの意義を強調しているのである。特定のクライアントを想定しているカウンセリン グの場合、この不調和は一義的な問題にならない。しかしナラティヴ・アプローチを一般 化して論じるときに、「ナラティヴ・アプローチは<いまだ語られていない物語>というア イデアを軸に展開」(野口 2009c: 262)しており、外在化やユニークな結果はそのきっかけ にすぎないとしてしまうことには問題がある。野口は「いまだ語られていない物語」を引 きだす効果が得られるのであれば、ドミナント・ストーリーとオルタナティヴ・ストーリ ーが個人の問題としての語り(内在化された語り)であっても個人から切り離された語り

(外在化された語り)であってもよいとするが16、歴史の物語では、内在化された語り(個 人の記憶にもとづく物語)と外在化された語り(国家の正史)の区別が重視され、対立的 な関係におかれているのである。

この問題を解決するために、もう一度フーコーの言説の次元を考えてみたい。フーコー の言説の次元における言葉の特徴として、言説の希少性がある。希少性というのは「決し てすべて、、、

が語られることはない」(Foucault 1969=2013: 225、傍点原文)という原理を前 提としている。言説分析において言表は、「他のあらゆる言表を排除してその言表を出現さ せる審級において検討される」(Foucault 1969=2013: 226)のであるが、フーコーは次の ように注意をうながす。

しかしながら、そうした「排除」が、一つの抑圧ないし禁圧に結びつけられるわけで はない。明白な言表の下で、何かが奥底に隠れたままになっているなどと想定されて いるわけではないということだ。

15 千田(2001)参照。

16 野口は次のように明確に述べている。「<外在化>それ自体をナラティヴ・アプローチの 基本テクニックのように扱うことは不適切である。大切なのは<いまだ語られていない物 語>を引き出すことであり、そのきっかけはそれが有効であれば、極端な話どんなもので もよい。ただ、現在、<内在化する言説>があまりに大きな影響力をもっており、その分、

弊害も大きいので、<外在化>が有効である場面が少なくないということにすぎない。逆 にいえば、<内在化する言説>の影響がそれほど強くないところでいくら<外在化>して みても効果は期待できない」(野口2009c: 262-63)。

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 30-35)