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ナラティヴ・アプローチの利点と限界

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 35-38)

2 ナラティヴ・アプローチ

2.3 ナラティヴ・アプローチの利点と限界

フーコーの言説分析の特徴から本研究のナラティヴの解釈を明らかにできたと思われる。

ナラティヴをこのように捉えることで、おそらく本研究の分析方法に対して提示されると 思われる3つの疑問に答えることができる。3つの疑問とは、代表性に対する疑問、元捕虜 の本音に対する疑問、そして、歴史の真実に対する疑問である。同時に、このようなナラ ティヴの解釈は本研究の限界も設定するものである。以下、3つの疑問に答えながら、ナラ ティヴ・アプローチの利点と限界について述べる。

まず、ナラティヴの代表性についてである。本研究ではおもに招聘プログラムでのナラ ティヴを分析するが、確かに、招聘プログラムで語られているナラティヴがすべての元捕 虜のナラティヴを代表しているものであるとは言えない。実際のところ、日本との和解自 体が元捕虜の高い関心事とは言えないのである。ある元アメリカ兵捕虜団体17の大会では毎 年、招聘プログラムに参加した元捕虜による報告会がおこなわれているが、元捕虜が捕虜 体験を語る時間帯に比べると聴衆の数は少ない。招聘プログラムに参加する意欲を積極的 に示す元捕虜はさらに少なくなる。筆者の聞いたところによると、招聘プログラムへの参 加希望者は実際に招聘される人数を上回っているが、彼らはどちらかといえば少数派であ る。筆者がインタビューした元捕虜たちは、日本への関心がないわけではないものの招聘 プログラムへの参加については躊躇を示したり、「フィリピンや日本はもう十分に経験した」

と発言したりしている18

元捕虜の実態に照らし合わせれば、招聘プログラムに参加する元捕虜が元捕虜全体を代 表しているとは言えない。和解に関心のない人たち、そもそも日本に関心のない人たちも いるだろうし、そのような元捕虜のほうが多数派であるかもしれない。しかし、このこと が招聘プログラムのナラティヴを分析することの妥当性を損なうことにはならないだろう。

戦後和解に関心のある元捕虜の人数が関心のない元捕虜よりも少数派であるという理由で 招聘プログラムのナラティヴが元捕虜を代表していないと言うのは、戦後和解が元捕虜全 体の最大の関心事でないという理由で招聘プログラムのナラティヴの代表性を疑問視する ということである。本研究のテーマが戦後和解である以上、対象となるナラティヴは戦後 和解のナラティヴなのであり、招聘プログラムでのナラティヴが戦後和解に関心のある少 数派の元捕虜のものでしかないという理由で元捕虜を代表するものでないとする見方は、

母数の捉え方の違いによるものである。

招聘プログラムに参加しない元捕虜のなかには、日本との和解に対して否定的な感情を 抱く人たちや、戦後和解には前向きであっても、さまざまな理由で招聘プログラムへの参 加ができない、あるいは参加を拒否する人たちもいるであろう。招聘プログラムのナラテ ィヴはそれらの人たちの声を救い上げることができないという理由で招聘プログラムのナ ラティヴの代表性に疑問が付されるのであれば、それは、その通りである。招聘プログラ

17 この団体の詳細については第4章を参照。

18 元捕虜の会のフィールド調査(2010年)より。フィールド調査については第4章を参照。

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ムのナラティヴが元捕虜の戦後和解のナラティヴのすべてではないし、元捕虜の戦後和解 への思いや意見を示す代表的なものであるわけでもない。招聘プログラムのナラティヴを 対象とすることで戦後和解に対するさまざまなナラティヴ、特に日本との和解や招聘プロ グラムに否定的なナラティヴを無視したり抑圧したりすることになるのではないかという 疑問は非常に重く受け止めている。

それでも筆者は、戦後和解に関するすべての声を拾い上げることができないという事実 によって、招聘プログラムのナラティヴを分析する重要性が失われるものではないと考え ている。明らかにしたいのは、どのようなナラティヴが元捕虜の声を代表しているか、彼 らの支持を受けているかということではなく、たとえ少数派の意見であってもそのナラテ ィヴが戦後和解のコミュニケーションにおいて持つ作用であり、言葉の力である。日本と は二度とかかわりたくない、日本との和解など不可能である、招聘プログラムなど日本政 府の懐柔策に過ぎない、というのも日本へ向けられたメッセージに違いない。それをどう 受け止めるのかというところにも日米のコミュニケーションの問題は発生する。それはと ても重要な問題であるし、そのようなコミュニケーションの方が戦後和解の問題としては これまで注目されてきてもいる。一方、招聘プログラムはある意味、日本への拒絶をすで に乗り越えた元捕虜たちのナラティヴである。それは確かに特殊なナラティヴであるかも しれない。しかし、代表性を備えていないからといって、それが、ほかでもない、そのナ ラティヴがそのような様態でそこに存在することの意義を損ねるものではないだろう。フ ーコーの言説分析や希少性の考え方が示しているのは、そこに存在するナラティヴをほか のナラティヴの抑圧とは別の仕方で一元的に分析することの意義であった。

同じことは、日本人を前にして元捕虜が本音を語ることができるのかという疑問につい ても言える。元捕虜の体験は言葉で伝え切れるものではないし、心理的負担から話せない ということもある。さらに、日本人に対する憎しみや怒りの感情も持つと考えられる元捕 虜が日本人を前にして語れることは限られてくるだろう。しかし、本音を語ることが必ず しも戦後和解に必要なわけではないし、戦後和解の場にふさわしいと考えられているわけ でもない。たとえば、日本人との交流会で日本に対する怒りや憎しみを率直にあらわす元 捕虜がいた。そのとき、同席していたほかの元捕虜たちが気まずそうな態度を示し、交流 会の主催者である日本人に、彼はあのような発言をするべきではなかったと言ってきたこ とがあるという。まったく同じではないが、似たような経験は筆者も何度かしている。日 本人を前にして言えない本音は多くの元捕虜が持っていると思われるが、日本人を前に言 われたことは偽りであり、隠された本音こそが彼らの真意であると考えるのは、おそらく 限られた妥当性しか持たないであろう。また、ある元捕虜の自伝を購入したときに元捕虜 がサインとともに書いてくれたあたたかいメッセージと、あとで読んだ本の内容の落差に 驚いたことがある。日本人の前で本音を言えないであろうことは理解できるが、それでも、

その落差の大きさはいまだに信じられないほどである。日本人が元捕虜の発言を抑制して しまうという問題も重要である。しかし、戦後和解にとってより重要であると思われるの

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は、その落差であり、元捕虜の心情や思考の複雑さであり、日本人を前にしたときの彼ら の態度や言葉の繊細さや重さである。招聘プログラムで語られる元捕虜のナラティヴは彼 らの本音ではないかもしれないが、だからといって、その重さが減るわけではない。

最後に、記憶とナラティヴの関係についてである。フーコーの論考において記憶と忘却 については言表が再帰的にあらわれる現象との関係で述べられている(Foucault

1969=2013)。フーコーの考古学的分析では独創性や起源をもつ言表を特定しない。言表は

先行する諸言表からなるある領野との関係において出現するが、新たな諸関係に従ってそ の領野を再組織化する。言表は出現するとき、自身に先行するもののうちに自身の系統を 見いだし、自身と両立しないものを排除しながら自らの過去をつくるのである。そうして 作成された言表的過去は真理、形態、素材、対象などとして措定される。フーコーは言表 の再帰的性質の法則をこのように説明し、記憶と忘却は根源的な法則ではなくその法則か ら生じる形象であると帰結する。つまり、過去や記憶は言説のなかで形成されるものであ り、真実や真理も言葉の空間で措定され、そこに見出すことができるのである。

このことは、戦後和解における承認の考え方と矛盾しない。記憶はコミュニケーション のなかで真実であると確認されていく。戦後和解においてそれはacknowledgmentとして の歴史の承認であるが、フーコーの言葉の再帰性の考え方はreconnaissanceとしての承認 とも一致する。この点において、記憶にもとづく歴史のナラティヴの真実という問題は克 服されると思われる。しかし、この問題が本研究においては中心的な位置にないことも、

もう一度確認しておきたい。本研究の問題関心は、権威的なナラティヴがいかにつくられ ていくのか、または、ドミナント・ストーリーがいかにオルタナティヴ・ストーリーに置 き換えられていくのかというところにはないし、いかなる真実も真理も追究するものでは ない。もし、記憶やその信憑性が問題となるとしたら、記憶にもとづく歴史のナラティヴ やその信憑性を問うナラティヴがほかのナラティヴとの関係のなかでどのような力を持ち、

戦後和解のコミュニケーションのなかでどのように作用するのかという限りにおいてであ る。

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 35-38)