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捕虜問題の歴史的変遷

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 38-42)

3 招聘プログラムの背景――文献調査より

3.1 捕虜問題の歴史的変遷

第二次世界大戦中の日本軍捕虜数は30万人を超える。このうち白人兵捕虜は終戦時の生 存者数が約13万人、死亡者は約31,000であったといわれる19。アメリカ兵捕虜についてい えば、その数は33,587人、死亡率は37.3%である(内海 2005)。この死亡率の高さをもた らした原因として次の点に言及されることが多い。捕虜収容所の生活環境の劣悪さ、過酷 な強制労働、「地獄船(Hellships)」とよばれる船による捕虜の移送などである。さらにア メリカ兵捕虜問題に特徴的なのが「バターン死の行進」である。内海ら(2012)の研究に よると、1942年4月9日、バターン半島で戦闘に従事していた米比軍は降伏にともない日 本軍捕虜となった。米軍が約12,000人、比軍は約64,000人であった。降伏後、これらの 捕虜は収容所まで、一部の貨車での移送をのぞいて、徒歩で移動させられた。徒歩での移 動は100キロ以上あった。米比軍は戦闘中から深刻な食糧不足に苦しんでおり、多くの兵 士が降伏時にすでに栄養失調から壊血病、脚気、マラリアなどを患っていたが、移動中、

日本軍からは医療はもちろん食糧や水もあたえられず、捕虜に対する暴力や殺害が頻発し た。収容所に到着するまでに約17,000人の捕虜が死亡したとされており、そのうち米軍捕 虜は1,200人である。

日本軍は1941年12月23日に「俘虜収容所令20」を公布施行して捕虜に関する対策を講

19 ここでアジア人兵捕虜と白人兵捕虜を区別しているのは、日本軍はアジア人兵捕虜を一 度解放したあとふたたび労務者として使役する政策をとったため、「捕虜か労務者か」とい う問題が議論されているからである。捕虜の定義の仕方によって、捕虜数も異なってくる。

ここでの捕虜数、死亡捕虜数については内海愛子『日本軍の捕虜政策』(2005)にもとづく。

内海は俘虜情報局の「俘虜月報」および『俘虜取扱の記録』に依拠して算出している。

20 捕虜収容所の管理、運営に関する勅令。1941年12月23日の勅令の内容は以下のもので あった。

一、捕虜収容所は、陸軍が管轄する捕虜を収容するところである。

一、設置位置、開閉は、陸軍大臣が定める。

一、管理は、軍司令官または衛戍司令官がおこない、陸軍大臣がこれを統括する。

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じていたが、12月25日のイギリス軍の降伏で香港が陥落したことにより、俘虜情報局21も 設置されていないうちに日本軍は1万人を超える捕虜を抱えることになった。さらに1942 年の2月にシンガポール、3月にジャワが陥落し、捕虜の数はおよそ25万人にまで増加す る。3月に急きょ、陸軍省軍務局に俘虜管理部が設置され現地軍の捕虜を取り扱うことにな ったが、予算、人員、権限はきわめて限定されており、捕虜政策は後手にまわっていた(内 海 2005)。

戦時下で深刻な労働力不足の問題を抱えていた日本軍は1942年5月、捕虜を労働力とし て利用する方針をかためる。はじめは軍内部の排外主義もあり、捕虜は日本へ移送されて いなかったが1942年6月に企画院22や厚生省などの軍部以外から捕虜を使用したいという 希望が出され、軍部は方針を転換する。同年8月、陸軍省の捕虜を国内「動員実施計画産 業」に従事させるという決定を受けて、「俘虜の内地移入竝労働使役に関する会議」が開催 された23。この会議で、捕虜を鉱業、荷役業、国防土木建築業に使役すること、受け入れ先 は地方長官によって指定されること、受け入れを希望する事業関係者は申請書を(場合に よっては地方長官をとおして)厚生省に提出すること、などが決定された。9月には陸軍大 臣の命にもとづく捕虜収容所が大阪と東京に開設され、10月以降、捕虜の日本への移送が 組織的にはじまった24(内海 2005)。

日本における捕虜収容所の組織体制は1942年から敗戦までのあいだに何回もかわってい る。大まかには、企業に管理が「丸投げ」されていた初期、その後の軍部の統制下にある 捕虜収容所による本格的な管理のはじまりと分所や分遣所の開設、軍部の負担を少なくす るための分所の派遣所への改変、そして本土決戦にそなえた派遣所の分所への再改編とい う流れである(内海 2005)。いかに軍部の負担を少なくしながら捕虜を労務に動員できる かという軍部の意向や、戦況、労務の需要の変化によって、政府、軍部、企業のあいだで 管理と責任の分掌がたえず変更されていた(内海 2005)。

賃金や食事など、捕虜の処遇に関する規定はあったが、実際の処遇は収容所ごとに大き く異なっていた。また、捕虜に対する私的制裁は禁止されていたが、そのような制裁が罰 せられた例はあるものの、通牒で禁止したぐらいで止められるものではなかったとされて

一、収容所長は、軍司令官または衛戍司令官に隷し、収容所の業務を掌理する。

(内海 2005: 169)

21 「陸戦の法規慣例に関する条約」(いわゆるハーグ条約。1899年に締結、1907年に改訂 されている)」付属の「ハーグ規則」が、捕虜を取り扱った最初の多数国間条約である(藤 田 2003)。この規則において、交戦国は俘虜情報局の設置が義務づけられている。俘虜情 報局の任務は、捕虜に関する状況を調査し、その結果を赤十字国際委員会や敵国の利益代 表を通して本国に通報することである。日本は1912年に批准、公布している(内海 2005)。

22 戦時経済の企画・調整・推進にあたった内閣直属の官庁。昭和12年(1937)企画庁と 資源局とを合併して設立。同18年(1943)軍需省に吸収された(デジタル大辞泉)。

23 この会議の主催が、企画院であるか俘虜情報局であるかについては議論がなされている

(内海 2005)。

24 それ以前にも、1942年1月に善通寺俘虜収容所が開設され、グアム島で捕虜になったア メリカ人(341人)を中心に、374人が収容されていた(内海 2005)。

36 いる(内海 2005)。

連合国は開戦直後から捕虜の取り扱いについて日本に抗議文書を送っていたが、日本政 府は抗議を無視するケースが多かった(内海・宇田川・カプリオ編 2012)。日本軍による 捕虜虐待は戦時中から世界に宣伝されており、連合国は戦後に厳しい処罰をおこなう強い 意志をポツダム宣言第10項25でも示している(内海・宇田川・カプリオ編 2012)。そして 宣言どおり、極東国際軍事裁判(東京裁判)では捕虜関係事件の立証に重きがおかれた26

捕虜問題を含む犯罪行為については判決文第8章「通例の戦争犯罪(残虐行為)」で判定 が下されているが、そこでは捕虜関係の項目が圧倒的多数を占めている。捕虜に食糧や医 療を供給する指導者の責任も追及され、個人として有罪とされた被告人もいる。また、横 浜や旧大東亜共栄圏各地における、いわゆるBC級戦争裁判でも捕虜問題が厳しく追及され た。全起訴件数の約16%、起訴された人員の17%、有罪者の27%、死刑判決の11%が捕 虜収容所関係者である27(内海・宇田川・カプリオ編 2012)。

捕虜への賠償の支払いは、1951年のサンフランシスコ講和条約において規定された。第 14条a項で、日本の経済力が十分ではないことを承認したうえでという条件付きではある が、日本の賠償が義務付けられ、第16条の補償条項では個人への賠償が条文化されている

28。連合国は日本への賠償請求を原則として放棄しているが、捕虜には日本の在外資産を売 却した資金から個人補償がなされた。捕虜への賠償には、中立国と旧敵国、およびタイに ある日本の在外資産が割り当てられた。資産の処分金は赤十字国際委員会に引き渡され、

赤十字がこれを1956年と61年の2回にわたり14か国の元捕虜に支給している。約59億 円を20万人29以上の元捕虜に支給することになり、1人当たりの金額は約16,688円であっ た30(内海 2005)。この14か国にアメリカは含まれていない。

25 ポツダム宣言の第10項には「我等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として 滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、我等の俘虜を虐待せる者を含む一切 の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へられるべし、[後略]」とある。

26 小菅(1994)は東京裁判最終論告をもとに、イギリス、オランダ、アメリカ、オースト ラリア、ニュージーランド、カナダの6か国の捕虜数を132,134人、そのうち死亡者は35,756 人と数えている。しかし捕虜総数や死亡者数を正確に把握することは著しく困難である。

その要因は、不明瞭な人種を基準にアジア人捕虜と白人捕虜を区別してアジア人捕虜は労 務者として使役した政策や管轄にもとづく「軍令の捕虜」と「軍政の捕虜」の区別、捕虜 に民間人抑留者が含まれている場合があることなどである。もっとも狭義の捕虜は軍政の 白人捕虜であり、俘虜情報局に「俘虜銘銘票用紙(銘銘票)」が提出された正式捕虜である

(内海・宇田川・カプリオ編 2012)。ちなみに内海・宇田川・カプリオ編(2012)では、

収容された白人捕虜は終戦時で159,276人、そのうち死亡者は30,813人とされている。

27 特に横浜裁判では、全331件の起訴うち242件が捕虜に関係している(内海・宇田川・

カプリオ編 2012)。

28 ただし、金銭による賠償は「連合国」捕虜に限られている。その他の国に対する賠償は、

金銭ではなく「役務、生産物供与、加工賠償」による賠償のみが認められた(内海 2005)。

29 赤十字国際委員会が支給の対象とした元捕虜数は203,599人で、国別でみるとイギリス に次いで、フィリピンが多く、パキスタンも2万人近くを数える(内海 2005)。

30 小菅(1994)によると14か国203,599人の元捕虜にひとり平均約28,000円が分配され

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 38-42)