4 捕虜問題と日本人――フィールド調査より
4.2 バターン降伏 70 周年フィリピンツアー
「バターン・地獄船のゴーストソルジャーズ フィリピンメモリアルツアー(Ghost Soldiers of Bataan & Hellships Memorial Tour to the Philippines)」は、フィリピンにお けるアメリカ軍降伏70周年を記念して、サンフランシスコの旅行会社ベイラーツアーズ
(Valor Tours85)が企画したツアーである。2012年4月3日から13日(アメリカ時間)
85 http://www.valortours.com/(2015年3月14日)。第二次世界大戦後アメリカに移住し た元イギリス兵R・レイノルズが1977年に設立した旅行会社で、太平洋とヨーロッパの戦
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の11日間の日程であるが、実質フィリピンへ滞在するのは4月5日の早朝から13日夜(フ ィリピン時間)までであった。筆者は5日の夕食から合流し、11日の午後までの約7日間 をグループとともに過ごした。招聘プログラムに参加したことのある元捕虜や家族、ADBC の会員もツアーに参加していた。
このツアーはベイラーツアーズとフィリピンの旅行会社ラジャーツアーズ(Rajah Tours)
の提携で実施されており、それぞれの旅行会社からツアーガイドが同行していた。つまり、
1台のバスにベイラーから2名、ラジャーから1名のツアーガイドが同乗し、交代でガイド をおこなうことになる。ベイラーのガイドは父親が元日本軍捕虜であったアメリカ人男性 で『名誉・勇気・信義』の著者であるスティーヴさんとその夫人、ラジャーのガイドはフ ィリピン人であった。参加者は36名で、筆者ともうひとりの日本人であるJDさんを除い て全員がアメリカ市民であった(表8)。
表8 フィリピンツアー参加者
日本軍捕虜となった元アメリカ兵(フィリピン防衛軍) 5
元アメリカ兵(フィリピン解放軍) 2
元捕虜の子ども 4
日本軍捕虜となった元フィリピン兵の子どもとその夫(ともにアメリカ市民) 2 元市民抑留者(コレヒドール島で生まれるが現在はアメリカ市民) 1
戦史愛好家 3
大学生 15
大学生の引率者 2
日本人(筆者をふくむ) 2
大学生グループについては説明が必要であろう。ミズーリ州オザークスにあるオザーク ス大学(College of the Ozarks)は学生数1500人の小さな私立大学である。全学生が大学 の仕事をするかわりに授業料を免除されるユニークな大学で、今回の学生の旅行費用も大 学の資金から拠出されていた。さらに、7名の元アメリカ兵も大学の招待であった。引率者 のひとりは副学長、もうひとりは看護師の女性である。元アメリカ兵ひとりにつきふたり の学生が担当となり、さまざまなケアをおこなっていた。1人は専属カメラマンとして同行 している学生であった。
ほぼ毎日ホテルを移動しながらマニラ市と近郊の戦地跡や収容所跡地を巡り、夜もミー ティングが企画されているなど、忙しいスケジュールが組まれていた。バターン死の行進 のルートや収容所跡地も訪問したが、ツアーのハイライトはサマット山でのバターン陥落 70周年記念式典とコレヒドール島訪問である。フィリピンではバターンが陥落した4月9 跡をめぐるツアーを専門にしている。
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日は国民の休日となっており、サマット山の式典にはフィリピン大統領、アメリカ大使、
日本大使が出席し、報道陣も多数訪れていた。コレヒドール島は廃墟や兵器の保存状態が よく、記念碑や博物館もあり、島全体が歴史的記念物になっている。
前章の文献調査で述べたように、ベイラーのツアーガイドは父親が元捕虜で、『名誉・勇 気・信義』の著者であるスティーヴさんご夫妻であった。スティーヴさんの本はスティー ヴさんの父親のナラティヴ(スティーヴさんたちがビデオに録画した)を中心に、文献と スティーヴさん自身がフィリピン(顧客としてベイラーツアーに参加)やADBCで見聞し たことを絡めて父親の体験を再構成したものである。手記や歴史書に元捕虜の日本に対す る否定的な感情が書かれていることは珍しくないが、スティーヴさんの本に特徴的である のは、次世代が元捕虜のそのような感情を推測している点である。
スティーヴさんの父親は日本に対する痛烈な批判をおこなう人であった。たとえば、日 本車は「ヒロヒトの復讐」であると言ったり、日系アメリカ人の第二次世界大戦での兵士 としての貢献には敬意を表しながらも、西海岸の収容者への補償に対しては反対し、新聞 に意見書を送ったりしている。日系アメリカ人収容者への補償反対の理由は、日本軍アメ リカ兵捕虜に比べて日系人収容者は(フィリピンの日系人のように日本のために破壊工作 をおこなう可能性があったにもかかわらず)飢えたり、殴られたり、辱められたりしてい ないからである。スティーヴさんは、日本が39か月のあいだ父親にしたこと、日本から一 度の謝罪も補償もないことを考えれば、父親の日本に対する否定的な感情は理解できると している。
そのようなスティーヴさんの元捕虜の感情への理解と配慮は、自身がガイドをしていた 70周年ツアーのときにも見られた。コレヒドール島はあちこちに砲台や宿舎の跡地、記念 館、記念碑があり、グループは2台のバス(横の壁がなく屋根だけ付いたもの)に分乗し て島一周を巡った。その一画に日本人の慰霊碑が集まっている場所があった86。そこを訪れ たさい、スティーヴさんは参加者の本音を探ろうとして日本兵のための慰霊碑に気分を害 される人がいるかどうかということを質問している。参加者の全員が慰霊碑を見るために バスを降りたわけではないが、少なくとも、スティーヴさんのバスに乗っていた参加者の なかに、スティーヴさんの問いかけに手をあげて答える人はいなかった。
『名誉・勇気・信義』には次のような一節がある。
86 捕虜の歴史ではコレヒドール島の陥落が語られることがほとんどであるが、1945年の島 の奪還の際には多くの日本兵が戦死している。平和記念展示資料館ウェブページに掲載さ れている手記「コレヒドール島玉砕記」によれば、玉砕した防衛兵は5000人を超える。
http://militaryhistory.about.com/od/WWIIPacific/p/World-War-Ii-Battle-Of-Corregidor-1 945.htm(2016年3月20日)。アメリカの通説では6000人以上が戦死、そのうち19人だ けが投降して捕虜になったとされている。スティーヴさんのガイドでは戦死者数に対して 捕虜数の少なさ強調される説明があり、日本軍が捕虜を軽蔑し、捕虜になることを拒んだ ことの証左とされていた。
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私たちのツアー87には2名の日本人女性がいた。[中略]
ジェリーが日本人による捕虜への残虐行為について朗読しているバスにはユカが 乗っていた。朗読の途中、私は何度か彼女の様子を伺ったけれども、ほかの乗客と何 も変わらなかった。彼女は明らかに死の行進や捕虜収容所での出来事をよく知ってい た。[中略]
戦後、父さんは日本人がそばにいると決して落ち着けなかった。[中略]私たちの ツアーグループのなかにキヌエやユカに対する憎しみはまったく感じられなかった が、不快感を隠していた元捕虜がいたのではないかと疑わないわけにはいかない。
(Kwiecinski 2012: 99)
元捕虜の経験と日本人に対する感情を考えたとき、日本人は彼らの心の平穏を乱してし まう存在である。それだけでなく、目の前にいる日本人が残虐行為をおこなった日本人と 同一視できないとき、日本人は、残虐な日本人というナラティヴに不調和を生じさせるノ イズとなる。ADBCの調査でもそのような存在としての日本人性は確認された。しかし、
フィリピンツアーでは、別の意味で日本人性がノイズとなる場面があった。
ツアーも中盤を過ぎ、リゾート地のホテルに滞在したときである。リゾート地の開放的 な雰囲気もあって、グループは少しくつろいだ感じであった。ADBCのメンバーを中心に、
親しい人たちが一部屋に集まって夕食までお酒を飲もうということになった。外では大学 生がビーチバレーをしていた。そのとき、スティーヴさんの妻マーシャさんが、夕食後の 夜のミーティングで筆者とJDさんの話を聞くことを提案したのである。それまでのミーテ ィングでは、元捕虜の体験談や遺族としての経験、オザークス大学の歴史教育への取り組 みなどが話されていた。筆者の問題関心は直接、歴史を知ることに関係していない。この ことは、日本人であること以外に、筆者がADBCやPOW研究会(後述)も含めたフィー ルドになじめない要因でもあり、つねに筆者をフィールドで出会った人たちに隠しごとを しているような気持にさせていた。特に、マーシャさんは筆者が調査目的を明確に説明で きないにもかかわらず、ツアーのあいだ中、筆者が必要な情報を手に入れることができて いるかどうかを気にかけてくれていたのである。
夕食のために食堂に向かう途中で筆者はマーシャさんに、人前で話すのは得意ではない し、特に英語で話す自信がないと遠まわしに辞退を試みた。しかし、マーシャさんは、日 本人の話を聞くことは学生たちにとってよい経験になるし、学生の教育のためにも話して 欲しいと熱心にいう。それを聞いて、アメリカの人たちに理解してもらえなかったり、最 悪の場合、反感を抱かせてしまったりするかもしれないが、それも学生にとってはひとつ の刺激に違いないと思って覚悟を決めた。
オザークス大学副学長の「参加者の活動を知るよい機会である」という紹介でミーティ ングがはじめられた。覚悟は決めたが、それでも、さすがに戦後和解の視点から歴史認識
87 このツアーは、スティーヴさんがガイドではなく顧客として参加した時のものである。