4 捕虜問題と日本人――フィールド調査より
4.1 バターン・コレヒドール防衛兵の会
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2012年の参加者は元捕虜13名、家族119名、その他(研究者や友人など)14名であった
81。開催場所は毎年かわるが、2011年はペンシルベニア州ピッツバーグ(6月22日から25 日)、2012年はニューメキシコ州アルバカーキ(5月2日から6日)であった。
資料2 第1回ADBCリユニオン 1946年4月9日
2012年はフィリピンにおけるアメリカ軍降伏70周年を記念する年である。この年の開 催場所がニューメキシコ州であるのには特別な理由がある。ニューメキシコ州からフィリ ピンに送られた兵士の数は約1800人であるが、約30人が戦死、799人が日本軍の捕虜収 容所や日本への移送途中に死亡した82。また、戦後帰国した兵士の半数が帰国から1年以内 に死亡している83。州の人口が少ないため、日本軍捕虜がニューメキシコ州にあたえたイン パクトは大きかった。一説には、ニューメキシコ州の日本軍捕虜(と捕虜の死亡者)数は 人口比で全米最大とも言われており、アルバカーキは70周年の記念大会にふさわしい開催
81 配布されたパンフレットにある参加者名簿を集計した。実際には欠席者や急な参加者も いるため、厳密な数字ではない。
82 http://www.angelfire.com/nm/bcmfofnm/bmc/sfbmc.html(2012年4月21日)。ニュー メキシコ州バターン・コレヒドール・メモリアル基金(Bataan Corregidor Memorial Foundation of New Mexico, Inc.)のウェブサイトを参照。
83 http://www.cabq.gov/veterans/history/worldwarii(2012年4月21日)。アルバカーキ 市のウェブサイトを参照。
62 地なのである。
ADBCは比較的オープンな会であるが、元捕虜の会合に日本人が参加するときにはやは り抵抗を受ける場合がある。抵抗の度合いは、年代や参加者、また、団体の性格によって も異なると思われるが、要因を特定することは難しい。日英和解の促進を活動目的とする
「アガペ」の主宰者である恵子・ホームズは、1991年にはじめてイギリスの全国捕虜大会 に参加しようと試みたとき、冷たくあしらわれ、入場チケットを手に入れられなかったと いう(ホームズ 2003)84。筆者も、調査をはじめたばかりの2009年に、日本の大学院生 という身分を明かしてイギリスの捕虜団体に会合の参加の可否についてメールで問い合わ せてみたが、返事はなかった。
イギリスよりアメリカの方がオープンであると言えるかもしれないが、ADBCの大会へ は知人の紹介をとおして参加したのでわからない。ただ、当然、日本人の参加をよく思わ ない元アメリカ兵捕虜はいるのであるが、ADBCは日本人であるという理由で参加を拒否 することはないようである。日本で捕虜の歴史研究をおこなっている「POW研究会」(後 述)の会員である笹本妙子の著書には、祖父が収容所の所長であったという女性が大会に 参加するいきさつが書かれている。笹本が、すでにADBCの多くの元捕虜と親しい関係に ある日本人女性に所長の孫である女性が参加を希望している旨を伝えると、その女性から ADBCの幹部に許可を取るようにアドバイスされた。笹本がメールで問い合わせると、そ の幹部(現在は次世代が幹部をつとめるが当時は元捕虜であった)の返事は次のようなも のであったという。
サトコが大会に参加するのは自由だ。しかし、彼女が君たちと同じようにわれわれの 友人として受け入れてもらえるまでは、祖父が収容所長だったとか戦犯だったという ことは伏せておいた方がいい。メンバーのなかには今も強い憎しみを持っている人も いるので。
(笹本 2004: 162)
元収容所長の孫という身分を隠すようにアドバイスはされているが、そのことが参加拒 否の理由にはなっていないことがわかる。
日本人に対する感情や態度には個人差があるが、そのほかにも日本人に対する否定的な 感情に対する感覚にも個人差があることがわかった。ADBCの大会は4日間にわたって開 催され、元捕虜によるパネルディスカッション、作家や研究者によるレクチャー、未亡人 や遺族によるパネルディスカッション、歴史教育のワークショップなどが1時間単位で予 定されている。2010年に日本政府による招聘プログラムが開始されてからは、翌年の大会 でプログラム参加者の報告がおこなわれるようになった。ほかにも博物館へのフィールド
84 大会当日、ホームズはチケットを持たないまま直接会場へ行き、友好的な元捕虜の力を 借りてチケットを手に入れている。
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トリップや、メモリアルサービス、著名なゲストスピーカーを招いての夕食会が催される。
昼間は一日中予定がつまっているが、夕食会のある一日を除いて夜は自由時間である。椅 子とテーブル、バーを備えたホテルの1室が用意されており、参加者は自由に出入りして 交流を深めることができるようになっている。
夜、ひとりで交流室に行くと、いろいろな人が話しかけてくれる。2011年の調査のとき、
はじめて話しかけてくれたのは車いすに乗った元捕虜で、あとからわかったのであるが、
H・サイズの『ゴースト・ソルジャーズ』(2003)でも写真入りで紹介されるなど、元捕虜
のなかでも有名な人であった。非常にユニークな人柄で、残念ながら出会った年の2011年 に亡くなってしまったのだが、2012年のフィリピンツアー(後述)でも、参加者の話題に あがるほど存在感のある人であった。彼が、はじめに言ってくれたのが「なかには冷たい 態度を取る人がいるかもしれないけど、理解して、気にしないように」というアドバイス であった。実際に、筆者が日本人であるからそっけない態度なのだろうと感じたことは調 査をとおして1、2回しかなく、それも、もしかしたらと微かに疑うくらいのものである。
そして、そう感じたのは元捕虜ではなく一緒にいた娘さんに対してであった。それでも、
そのように言ってもらったことで「やはり、そのような人がいるのだ」と注意することが できたし、そのことを気にかけてくれる人もいるのだと思った。
反対に、日本人の特殊性を気にしていない人もいる。フィリピンツアーに参加していた とき、ADBCの幹部である女性(元捕虜の娘DAさん)にイギリスの捕虜の大会はADBC と違って参加するのは難しいと思うかと尋ねると、質問の意図がわからないというような 表情で、即座に「もし、イギリスの団体を調査したいのなら紹介してあげる」と言ってく れた。また、2012年の夜の交流会で、元捕虜にインタビューしないのかと尋ねてくる女性 がいたので、「もしかしたら話しかけられたくない元捕虜の人もいるかもしれないから」と 言うと、「このADBCに?」という感じで信じられないという表情をしていた。
こちらから話しかけた人も含めて、ADBCに参加している人たちに話すのを拒否された ことはないし、逆に、日本人であることで、本当にいろいろな人たちに話しかけられた。
拒絶とは反対に作用する日本人性である。ある元捕虜は、笑顔で近づいてくるとそのまま フィリピンの戦闘の様子を話しはじめ、筆者が持っていたノートに地図まで書いて説明し てくれた(資料3)。
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資料3 元捕虜が書いたマニラ湾の地図
憎しみによる冷たい態度や捕虜体験のナラティヴに日本人として応答することは、簡単 ではないが予想していたことである。しかし、予想外に難しい場面もあった。たとえば、
日本に関係したユーモアである。とても社交的で明るいご夫人と穏やかで口数の少ない元 捕虜のご主人の夫妻と話す機会があった。どこの国かは忘れてしまったが、英語が母国語 ではないヨーロッパ出身の、ご主人とは年の離れた若いご夫人で、ご主人との出会いから 結婚までのいきさつを話してくれたのだが、そのなかにひとつの失敗談があった。ご主人 が日本軍の捕虜であったことを知らなかった彼女は、最初のデートで日本食を食べたいと 言ってしまったというのである。ご主人は何も言わずに要望を受け入れてくれたけれど、
と笑いながら話してくれた。このような、直接の捕虜体験ではないが捕虜という要素を抜 きにしては成り立たないナラティヴは、日本人であることを意識しなければ、楽しんだり、
感動したり、感心したり、驚いたりできるかもしれない。想定外に難しかったのは、筆者 の日本人性を意識していないわけではないが、加害者である日本人とは別の属性として日 本人性を捉えている話し手に、共感や意見を求められたときの応答であった。
ADBCで記憶に残っている出会いは多いが、特に印象的であったひとりの女性がいる。
幹部である次世代の人たちはひとりで参加していることが多いが、ほとんどの次世代の人 たちは家族と一緒に参加している。そのなかで、その女性はひとりで参加しており、さま ざまなイベントに出席しているが、あまりほかの人たちと交わらずに、控えめな感じであ った。筆者は2011年と12年に連続でADBCの大会に参加したが、その女性が話しかけて きたのは2012年の2回目の調査のときである。招聘プログラムの報告がおこなわれる部屋