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もうひとつの戦後和解

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 129-135)

6 コミュニケーションの好転

6.2 もうひとつの戦後和解

これら4つの場面ではどのようなコミュニケーションがおこなわれているのであろうか。

記者会見で日本人質問者が語っている、日米には双方にいろいろあったが「戦争というも の」を「絶対にしては」いけないというナラティヴは、平和を問題関心とし、自他ともに 戦争の被害者とみなしている。たとえ平和が問題関心であっても、捕虜の歴史の承認を条 件とするアメリカのナラティヴとは齟齬を生じさせやすい代表的な日本の戦後和解のナラ ティヴである。「質問とかそういうことではないのですけれども」と言ってはじめられたの は、名古屋の空襲被害の語りである。それは、捕虜の歴史や承認に関する問題に言及して いないだけでなく、日本の被害の歴史がナラティヴの中心となっている。

瑞龍寺の男性のナラティヴも同様である。男性は、はじめに元捕虜に高岡に収容されて いた期間を聞くことによって捕虜の歴史への関心を示している。しかし、それ以上の質問 を元捕虜にすることはなく、自分の話を詳細に語りはじめる。男性のナラティヴの中心は 捕虜の歴史にはない。それは3人の子どもを残して死ななければならなかった日本人男性 の悲劇であり、夫を戦争で亡くした妻の苦労のナラティヴである。さらに、海軍では海で の戦死と上陸後の戦死では意味が異なるが父親がどのように亡くなったのかが不明なため 意味づけが困難だというのは、日本軍に特有な事情に起因するこの男性の苦悩である。日 米を戦争の被害者として対称的な関係におき、日本の被害のナラティヴを語り、平和を訴 えるというナラティヴは、日本人に求められる捕虜の歴史の承認を積極的におこなうこと ができない。これらのナラティヴでは被害者と加害者という非対称な関係を保証すること なく、対称的な関係を前提としてしまっている。

それにもかかわらず、元捕虜はそこで語られる平和という問題関心だけでなく、戦争の 被害者としての対称的な関係までも受け入れている。記者会見で「まさにそういう友情の ために、私たちは今回来ているのです」と言いながら男性の平和への訴えに応じたリーダ ーは、同じ会見で「原爆についてどう思うか」「オバマ大統領の謝罪についてどう思うか」

という質問には原爆について語り合うために来日したのではないと応じた元捕虜と同一人 物である。謝罪への回答でも「友情」が語られ、空襲の回答での「友情」とは自分が求め ている「まさにそのような友情」であるとして両者は同一視されているが、実際は、空襲 のナラティヴに対しては日本人看守とのあいだの「ゆるすが忘れない」とは別の戦後和解 が実践されている。捕虜の歴史を承認し、ゆるされる立場に日本人を位置づけていないの である。同じく2011年に招聘プログラムに参加したPAさんは、記者会見では男性の空襲 のナラティヴをリーダーと一緒に拍手で受け入れ、瑞龍寺の男性には「理解できる」とい う共感を示したあと握手まで求めている。PAさんの戦後和解も、日本人による自己の戦争 被害者としての位置づけへの応答において、前章で見たどの戦後和解とも異なっている。

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高岡の民間企業所長の戦後和解はどのようなものであろうか。所長のナラティヴからは ふたつの問題関心が読み取れる。ひとつは正義の追求、もうひとつは平和の追求である。

所長は父親のシベリア抑留について語っている。そのとき、父親と元捕虜が同じ年代であ ることに言及し、晩年に父親が体験を語ろうとしなかったエピソードを語ることで父親の 体験の苦しさと元捕虜の体験の苦しさを推し量っている。つまり、学徒兵という若い兵士 でシベリア抑留者であった父親と元捕虜を戦争によって犠牲となった若者として対称に位 置づけ、戦争によって失われた平和を問題としている。

正義の追求は、捕虜を使役した民間企業の所長として捕虜の歴史を、消極的にではある が、承認することによっておこなわれている。実は、所長は明確に謝罪の言葉を述べてい るわけではない。しかし、自分たちの先輩が捕虜に暴力をふるったことを認め、元捕虜の

「悪い思い出」を積極的に理解しようとし、自分たちが過去を否定して戦後、変化を遂げ てきたこと、これからも過去を忘れずに「新しい時代に向けて歩いていきたい」という姿 勢を示している。消極的であるというのは、所長は捕虜への暴力は否定しないが、「不幸な 歴史を自分の記憶にどう留めるのか」という歴史の解釈への含みを持たせており、厳密に 謝罪をおこなっているわけではないからである。しかし元捕虜は、所長の言葉や態度から 捕虜の歴史が承認され、謝罪がおこなわれたと受け取っている。PBさんとDBさんは帰国 後のADBCの大会で以下のような報告をおこなっている。(PAさんは体調を崩して大会を 欠席していた。)

PB:PAさんと私は、所長の謝罪を受け入れました。戦時中そこにいたのは彼の世

代ではありませんが、私たちは彼の素晴らしいホスピタリティと偽りのない誠 実さに感謝しました。彼の存在が私の尊厳を回復し、長い間求めていた人間の 心のやすらぎをもたらしました。

PBさんと一緒に招聘プログラムの報告をおこなっていたDBさんも所長の謝罪が誠実だ ったと請け合い、この面会によって父親の憎しみがとけたとしている。さらにDBさんは 涙に声をつまらせながら次のように言っている。

DB:私は一番下の子どもで、たったひとりの娘です。彼が私のお父さんで、

彼らは私のお父さんたちです。彼らに同行し、彼らの表情、感謝、かつて 虐待されたことのある国への愛を見ることができて、こんなに名誉に思っ たことはありません。彼らのかつての敵国への愛がどんなに慈愛に満ちて いるものか、信じられないほどです。

PAさんも所長が責任を取ろうとしていると認識したうえで、「過去の過ちを自分たちの 責任にするべきではない」という意見を述べている。

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しかし、所長の捕虜の歴史の承認が消極的であることは、所長の質問の仕方にもあらわ れている。所長は冒頭の挨拶を終えると、すぐに、誰も収容所がどこにあったのかわから ないので教えて欲しいというリクエストをした。これは、面会を引き受けた理由として社 史編纂のために捕虜の歴史を知ることをあげていた所長のナラティヴを裏づけるものであ る。事前に工場の敷地の地図(建設の設計図のような専門的なもの)や古い写真が用意さ れており、工場の歴史にもっとも詳しいと思われる作業服を着た男性も同席していた。元 捕虜たちは求めに応じて、自分たちが仕事内容やシフトによって班に分けられていたこと や、自分が所属していた班の番号、収容所から工場へどのように通ったのかを時間や距離、

道路の様子などを具体的にあげながら詳細に教えた。古い社員も、空襲によって収容所が 焼け落ちたり工場の場所が移動したりしたことや、建物は移動したけど道路の位置はかわ っていないなどの知識を元捕虜と共有し、時間をかけて収容所の場所を特定する努力がお こなわれた。面会のあと、実際にその道路に出てみたら元捕虜が何か思い出すかもしれな いということで社員が車で案内したが、結局、場所は特定できなかった。

収容所があった場所の特定は、確かに捕虜の歴史であることには違いない。しかし、そ れは謝罪や加害の承認と直接的に関係するわけではない。「収容所がその場所にあった」と いう歴史の解明を目指すコミュニケーションにおいては謝罪や加害の承認は要求されない。

実際に、場所の特定の試みが一段落すると、元捕虜は自分たちの経験について話しはじめ るのであるが、元捕虜にとっての捕虜の歴史とはそのような日本人による加害の歴史であ ろう。所長のナラティヴには確かに捕虜の歴史を知ろうとする自身の位置づけが確認でき るが、それは、元捕虜の経験について質問することで加害の歴史を具体的に明らかにし、

承認しようとするという主体の位置ではない。ところが、この収容所の場所の特定が大き な意義を持っているのである。所長との面会は記者を入れずにおこなわれ、面会のあとで 記者会見が開かれたのであるが、PAさんはそこで、面会には非常に満足しているとし、面 会を効率的なものにするために企業が事前準備に費やした努力をねぎらった。そして、ひ とつ残念だったのは自分がいた場所がわからなかったことだと言ったのである。この、収 容所の場所を特定することをめぐるコミュニケーションでおこなわれたのは、正義や平和 の戦後和解とは異なる戦後和解である。

その戦後和解では確かに、元捕虜は被害者に位置づけられ、日本人は加害者に位置づけ られている。収容所の場所という客観的な史実であっても捕虜の歴史であり、元捕虜にと ってそれは自分たちの体験とは切り離せないものである。そうである以上、たとえ客観的 な史実であっても日本人が確認することには、やはり加害者が被害の歴史を確認するとい う意味を完全に払しょくすることはできない。日米の関係は非対称である。そうでありな がら、日本人の位置は単に自らの加害の歴史を承認する加害者ではない。似たような関係 として、DAさんによる被害者と支援者という位置づけがあった。非対称でありながら、単 に加害者と被害者であることを乗り越えようとする関係である。しかし、PAさんの戦後和 解における日本人の位置づけはDAさんのものとも異なる。DAさんの戦後和解は捕虜の歴

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 129-135)