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非対称性をめぐる困難

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 140-145)

7 承認と生の感知

7.2 非対称性をめぐる困難

JCさんの抵抗感は、過ちを告白することへの抵抗感ではない。JCさんは「悪かった、

悪かった、悪かった」という「史悪観」は「なんか嫌なんですよね」というが、日本が国 際法を順守しなかったことは認めている。つまり、捕虜の歴史が日本の過ちであり、加害 の歴史であることを否定しているわけではないのである。前項では、謝罪という承認の条 件をくり返し満たすことが日本に要請される可能性を指摘したが、JCさんの抵抗感は、元 捕虜がくり返し謝罪を請求することによって日本政府からの疑いのない承認を得ようとし ていることに対して向けられているのでもない。靖国神社についてのナラティヴからは、

JCさん自身も日本政府(上の人)の過ちを追及し、日本兵の被害の承認を得ようとしてい ることがわかる。本項では、元捕虜による日本の加害の承認の追求を、直接的な否定だけ でなく、ガバーが提示したようないかなる意味においても否定することなく、それでいな がら確認されるJCさんの抵抗感の要因を非対称性の視点から考察してみたい。

被害者と加害者のあいだの非対称性を絶対的なものとするリクールは、戦後和解を、等 価性にもとづく正義と片務的で一方的に与えられるアガペーの領域を往復することによっ て生じる空間と捉えていた。そのような空間を生み出すのは正義の道徳化を逃れた祝祭的 な身振りであり、ショアーの犠牲者の慰霊碑の前でゆるしを請うブラント首相の身振りは そのようなもののひとつとされている。ゆるしを請う身振りは、被害者と加害者の非対称 性を解消することなく相互性に組み込む戦後和解のひとつのあり方である。

ゆるしは戦後和解の鍵概念のひとつであり、元捕虜にとっても重要なものであった。し かし「ゆるすが忘れない」というナラティヴに象徴されるゆるしの戦後和解の実践には、

リクールの論考では言及されていない困難が見られる。リクールの問題関心は、被害者に 不正がおこなわれ、その是正が「比較不可能なものの間に存在するような正義」でしかな いとき、つまり正義による不正の是正が不可能であるとき、ゆるしはいかにして可能かと いうところにある。ゆるしの戦後和解において、被害者と加害者の関係、つまり、ゆるす 者とゆるされる者であるという関係の非対称性は解消されてはならないのであり、和解の 前提である。一方、元捕虜のゆるしの戦後和解も捕虜の歴史の承認を前提としている点で、

被害者である元捕虜と加害者である日本人のあいだの非対称性を必要としている。ゆるす が、自分たちが不正をはたらかれた被害者であるという歴史は忘れないのである。ここま ではリクールの和解と一致する。しかし元捕虜は、ゆるす者とゆるされる者という関係を 乗り越えて友情のパートナーという関係を築こうとしていた。そこにはゆるしの非対称な 関係から友情の対称的な関係への跳躍が見られた。

ロングらは、戦後和解のプロセスを経て、政治的に認定されてこなかった不正を承認す ることで加害者と政治的に対等な地位に被害者を押し上げ、被害者と加害者にかわる共通 のアイデンティティにもとづく友好的な関係を構築できるとしている。政治学者であるロ ングらは政治的地位を念頭においており、また、国内問題と国際問題を区別したうえで、

このような戦後和解は国内政治について適当であるとしている。しかし、同様の議論は被

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害者の人権や社会的地位の向上を問題とした国際的な戦後和解でもなされており、ロング らの議論の限定は、少なくとも捕虜問題においては重要ではない。そして、本研究の分析 から明らかになったのは、被害者と加害者の関係からそれらにかわるアイデンティティに もとづく関係に移行するには跳躍が必要であるということである。跳躍が必要であるとい うことは、ゆるしの関係から友情の関係への移行に必然性はないということである。しか し、跳躍がなされるためにはゆるしの関係が前提とされていなければならない。ゆるしの 戦後和解において、友情の対称性は偶然であるがゆるしの非対称性は必然なのである。

元捕虜はゆるしと友情を語りながらも、そこでは対称的な友情よりも非対称的なゆるし の関係が決定的な意味を持っている。力学が生じるのは被害者と加害者のナラティヴのあ いだではなく対称的な友情と非対称的なゆるしのナラティヴのあいだであり、より力があ るのはゆるしのナラティヴである。そして、ゆるしのナラティヴにおける被害者と加害者 の関係の非対称性は、被害者が劣位におかれる非対称ではなく、加害者が劣位におかれる 非対称である。なぜなら、ゆるしの条件には被害の歴史の承認があり、その承認は、道徳 的正当性や優越性を含んだ「真なるものとして見なすこと」の派生観念だからである。承 認される「真理は暗黙のうちに、その優越性というのが単に道徳的であるような価値に対 して立てられている」のである。ここで、被害者が人権、政治的意味で劣位におかれてい る非対称性が、道徳的優位に立つ非対称性へと転換している。リクールが絶対的であり解 消されるべきではないとする非対称性は、被害者が受けた不正を不正と承認する道徳の正 当性と優位性にもとづく後者の非対称性である。

戦後和解の最終的な目的地がゆるしの空間であるなら、リクールの論考で十分である。

しかし、この不正を不正と認めるための道徳的優越性がもたらす日米のあいだの非対称は やはり困難である。ガバーは、承認を求める被害者が、加害者には道徳的勝利を得て自分 たちが「勝ち組(top dog)」となる非対称な関係を構築しているように見えるかもしれない 可能性を、加害者が加害の歴史を否定する動機として推測している。ガバーの推測に反し て、JCさんは日本が道徳的劣位におかれることに対して強い抵抗感を示しているが、それ は決してJCさんにとって加害の歴史を否定する動機とはならない。JCさんは加害の歴史 は否定しないが、日本が道徳的劣位におかれることには抵抗を感じるのである。日本の美 徳を証明するために書かれた『手紙』の記事は、日本人と元捕虜のあいだにある道徳的非 対称性を少しでも覆そうとするJCさんの試みである。ゆるしの条件として承認が求められ る捕虜の歴史は、「あんたのおじいさん、あんたのひいおじいさんがこんなことした、あん なことした」歴史にならざるを得ない。JCさんはその歴史を決して否定しないが、「日本 は悪いこともしたかもしれないけど、こういうところもあった」というのを言いたくて『手 紙』を書いた。「なんでもかんでも日本で可哀想」というのは加害の歴史のなかで道徳的劣 位に立たされる日本兵に対するJCさんの同情のあらわれであろう。日本の加害ばかりが強 調される歴史観を「偏っている」とし、「もう少し誇りを持つようなことを教えてやっても いいんじゃないか」というJCさんのナラティヴからは、捕虜の歴史によって傷つけられた

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日本の道徳的地位を不満とし、その回復を望んでいる様子が読み取れる。

ゆるしにおいて加害者を道徳的劣位に位置づけてしまう非対称性は、日本人だけでなく 優位に立つ元捕虜にとっても困難である。捕虜体験を語りながら、テニーさんは「すべて の日本人が悪い人であったわけではなく、悪いことをしたわけでは」ないことをはっきり させたいと言っている。ガバーは、このようなナラティヴをスケープゴートによる加害の 否定として問題としているが、ここでは被害者である元捕虜がスケープゴートを生み出す ことによって日本人の道徳的劣位を緩和しようとしているのである。PAさんは捕虜にも敬 意を払ったという礼儀正しい日本人について語り、PBさんは女性たちが食糧をわけてくれ たエピソードを披露している。そのうえで、対称的な関係である友情のパートナーとして 日本人がさらに求められているのである。

ゆるしから友情への跳躍は、元捕虜にとってもゆるしの非対称な関係にとどまることが 困難であることを示している。元捕虜の「友情」の戦後和解、友情のパートナーとしての 日本人の位置づけは、道徳的非対称性を解消しようとする志向と考えられる。しかし、ゆ るしにもとづく友情である限り、友情の対称性は不完全にしか達成されない。ゆるすため には捕虜の歴史の承認という条件が満たされる必要があるからであり、捕虜の歴史の「承 認」において、道徳的非対称性が生じてしまうことは避けられないからである。たとえ友 情のナラティヴで対称的な関係の構築が目指されたとしても、非対称性を生み出すゆるし のナラティヴとの関係では、ゆるしのナラティヴの方が強い力を持っているため、困難は 残る。

また、捕虜の歴史の承認における非対称性にはレガシーをめぐる非対称性もある。交流 会や記者会見で、DAさんは父親たちのレガシーを受け継ぐ必要性を訴えていた。DAさん は世代交代したADBCが元捕虜のレガシーをまもる理由として、謝罪を求める声を絶やさ ないためであるとしていた。元捕虜のレガシーを受け継ぐことは正義の追求である。しか し、歴史がレガシーとされるとき、歴史の承認には、「~に対して感謝の念を抱く、感謝の 気持ちを証明する」という意味が含まれないだろうか。正義の追求と捕虜への感謝が混合 しているナラティヴの様態は、アメリカ議会のナラティヴに確認できる。補償法案提出の 理由として、補償は元捕虜の犠牲への「感謝」と「敬意」をあらわす手段とされていた。

日本が補償を支払わないのであれば、アメリカ政府が支払うべきであるというナラティヴ において、正義を追求する手段である補償は、感謝を証明する手段でもある。過ちの承認 を求める決議案提出の理由にも、元捕虜の「犠牲」の承認が確認できる。過ちの承認は正 義であるとともに、彼らの犠牲を認め、元捕虜を感謝を受け取る人として認める確証なの である。

しかし、日本人にとって捕虜の歴史を受け継ぐことは不正を受け継ぐことであり、決し て積極的に語りたい歴史ではない117。JCさんが捕虜の歴史を裏のアントールド・ストーリ

117 1945年にアメリカで公開されたジョン・ウェイン主演の映画『バターンを奪回せよ

(Back to Bataan)』の最後には、「日本人の感情を刺激し、占領軍の政策上好ましくない」

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 140-145)