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関係の非対称性と主体の位置

ドキュメント内 ――元アメリカ兵捕虜問題を事例に―― (ページ 119-125)

5 日米間対話の齟齬

5.2 すれ違う戦後和解のナラティヴ――日米間対話の齟齬とその要因

5.2.2 関係の非対称性と主体の位置

ここまで日米間対話の齟齬を、戦後和解の解釈や問題関心、問題解決の条件から分析し てきた。次に、戦後和解における日米間関係の非対称性の視点から分析してみたい。まず は、日米それぞれのナラティヴで自己と他者がどのように位置づけられているのかを見た あと、それぞれの主体の関係のあり方を確認していく。

元捕虜のナラティヴにあらわれる自己は、補償や謝罪を請求し、日本の加害を追及する 被害者、日本の加害をゆるす人、日本を理解しようとする人、日本の友人の4つである。

彼らのナラティヴにおいて他者である日本人は、アメリカ人の主体に対応するように、補 償や謝罪をおこなう加害者、加害をゆるされる人、アメリカを理解しようとする人、友情 のパートナーというように位置づけられる。これに、DAさんのナラティヴに見られるよう に、日本の加害の追及を助ける人が加えられる。日本人はどこ位置づけられようとも、捕 虜の歴史の承認を求められることが共通している。一方、日本人のナラティヴにあらわれ る自己は、戦争の犠牲者、友情のパートナー、国家の加害責任や正義を追求する人、そし て、平和を追求する人である。日本人のナラティヴにおいて元捕虜は、これら4つの主体

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と対称に位置づけられるとともに、若者のナラティヴにおいては日本の加害の被害者、オ バマ大統領の謝罪に関しては自国の加害を承認する人に位置づけられている。

これらの主体の位置づけが日米間対話の齟齬を生じさせている。テニーさんと日本の若 者のあいだで元捕虜が日本の加害の被害者であることは一致している。元捕虜は捕虜の歴 史の承認を求める人であり、日本人が承認をするべき人に位置づけられている点でも一致 を見ている。齟齬が生じてしまうのは、日本人の若者が日本人を捕虜の歴史を承認する立 場においているにもかかわらず、自身がその場に立って捕虜の歴史について質問するとい うことをしていないからである。日本人は歴史を承認するべきというナラティヴにおいて 若者は、日本人の承認を問題とする元捕虜と同じ位置に自らをおいてしまっている。承認 をおこなう立場からずれてしまっているのである。一方、もうひとりの若者は、日本人が 知らない捕虜の歴史は何かと質問している。自分たちが承認しなければならない歴史の内 容をたずねることによって承認をおこなおうとする立場に自らを位置づけている。そして、

テニーさんはそこに位置づけられた日本人に向かって、日本人が知るべき捕虜の歴史を教 えるのである。

元日本兵は自らを戦争の犠牲者に位置づけ、捕虜も同様に位置づけている。日本兵も捕 虜も「いろいろな国の事情があって、たまたま国民は国の兵隊」となり、惨めな思いをし た。この位置づけは二重に元捕虜のナラティヴからはずれている。まず、元捕虜のナラテ ィヴにおいて日本人は戦争の犠牲者に位置づけられていない。そして、元捕虜は自己を日 本の加害の被害者に位置づけているが、戦争の犠牲者とは位置づけていないのである。元 日本兵のナラティヴにはもうひとつ別の主体の位置が確認できる。友情のパートナーとし ての日米両兵士である。この位置づけはひとりの元捕虜の日本人看守との友情のナラティ ヴで支持されているし、2011年のグループリーダーも日本人看守との友情を和解のナラテ ィヴとして語っている。しかし、元捕虜の友情は日本人による捕虜の歴史の承認と元捕虜 によるゆるしを経たうえで結ばれるものである。元日本兵のナラティヴに位置づけられた 日本人は、友情のパートナーであるけれども、捕虜によって語られる被害のナラティヴの 承認をおこない損ねている。元日本兵は自らバターン死の行進に言及しているにもかかわ らず、日本の若者と同じように、捕虜のナラティヴを承認する位置からずれてしまってい るのである。テニーさんが苛立ちを見せるのは、そのような日本人の自らの位置づけに対 してである。

記者会見でテニーさんに日本政府の態度の変化の要因をたずねた質問者と、はじめの質 疑応答の例で捕虜虐待を認め、謝罪しない各国政府の問題を提起した質問者のふたりは、

(第二次世界大戦における日本の捕虜虐待と現在の戦争までを含めた捕虜虐待という点で 問題関心の範囲の違いはあるが、)ナラティヴにおける日本人の主体の位置が捕虜虐待につ いて謝罪しない政府の態度を追及するという立場にある点では共通している。このような 日本人の主体に対してテニーさんともうひとりの元捕虜は、日本人を捕虜の歴史を承認す る当事者として位置づけ直し、質問者も含めた日本人の問題点を指摘している。テニーさ

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んは、政府が承認しない限り日本人は捕虜の被害に関心を持たないため、もうひとりの元 捕虜は日本人が自らを戦争の被害者に位置づけるために捕虜の歴史の承認が阻害されてい ると推測している。テニーさんは、政府を批判し、元捕虜と問題を共有する日本人という 主体を素晴らしい質問をする人として肯定的に捉えているが、質問への回答ではふたりと も日本人のナラティヴにおける日本人自らの位置づけをそのまま受け入れてはいない。

オバマ大統領の謝罪に関する質問は、やはり日本人を謝罪による正義を追求する主体に 位置づけている。そして他者である元捕虜は、これも上記のふたりの質問者と同じように 日本人と対称的な正義を追求する主体に位置づけられている。捕虜虐待に対する謝罪の追 及に関してテニーさんともうひとりの元捕虜は、正義を追求する主体という自分たちの位 置づけは受け入れながら、日本人の対称的な位置づけだけをずらしていた。一方、オバマ 大統領の謝罪について答えた元捕虜たちは、日本人が正義を追求する主体に自らを位置づ けることを受け入れている。それにもかかわらず質問者との対話に齟齬が生じてしまうの は、日本人質問者が被爆者を捕虜と対称的に位置づけているのに対して、元捕虜は被爆者 と自分たちを対称的に位置づけていないからである。被爆者と真珠湾攻撃の犠牲者は対称 である。しかし、元捕虜は、戦後和解から捕虜問題以外を(政治的であるとして)排除す ることによって自分たちを真珠湾攻撃に対する謝罪を求める主体に位置づけることを拒み、

結果的に自身と被爆者を対称関係におくことを回避するのである。

最後に、原爆の歴史を平和の観点から教育して欲しいというナラティヴでは、元捕虜は 戦争の犠牲者であるとともに、原爆によって救われた主体として位置づけられている。日 本人は元捕虜と同じ戦争の犠牲者であり、平和を追求する主体である。そのように自他を 位置づけたうえで質問者は、さらに日本人と対称的な平和を追求する主体としての元捕虜 を要求している。回答者のDAさんは、質問者による日本人と元捕虜の位置づけを受け入 れている。原爆は悲劇であり、平和の観点からの原爆の歴史教育にも賛成している。しか し元捕虜については、平和を追求する主体に加えて、正義を追求する主体としての位置づ けもおこない、後者の位置づけを優先させている。

このように、日米間対話の齟齬は、問題関心や戦後和解の理解の違いだけでなく、自己 と他者、双方の主体の位置づけ方の違いによってももたらされている。日米ともにそれぞ れのナラティヴのなかで自他の位置づけをおこなうとともに、相手による位置づけを受け 入れたり訂正したりしている。しかも、日米それぞれのナラティヴにおける自己の位置づ け方は複数あり、相手のナラティヴにおける問題関心や自身の位置づけられ方に応じて、

コミュニケーションのなかで自己の主体の位置を変化させてもいる。戦後和解のコミュニ ケーションのなかで日米の主体は流動的に、複雑に変化していく。しかし、そこにある傾 向が見られないわけではない。被害者と加害者という関係の非対称性に注目することで、3 つの傾向を捉えることが可能である。そして、この3つの傾向は関連している。

元捕虜の自他の位置づけによる日米関係は5つある。補償や謝罪を請求する被害者と請 求される加害者、ゆるす人とゆるされる人、相互理解をおこなうパートナー、友情のパー

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