第 4 章 危機解消と KEDO
第 2 節 枠組み合意への道のり
1. 高まる緊張
米朝の継続協議は 7月合意以後において進展がみられず、アメリカとIAEA との核査察 の要求が強まる一方であった。アメリカは、北朝鮮に対して IAEA による核査察の受け入 れを要求する一方で、北朝鮮の要求には応じようとしなかった。北朝鮮からすれば、核査 察とは米朝協議から生じてくる軽水炉提供や関係改善の引き換えの条件であったため、一 方的に核査察を受け入れることはできなかった。
1994年入ってからも、両者の意見は平行したままであった。アメリカはIAEAによる特 別査察の受け入れを要求し続けたが、北朝鮮はこれを拒否し続けた。北朝鮮は核問題をア メリカとの交渉の材料として考えていたため、簡単に IAEA の要求を受け入れることはな かった。むしろIAEAの要求にはアメリカの影響力があると非難した。1994年1月31日 の北朝鮮外交部による声明にはその本音が垣間見える。
289 Dianne E. Rennack, “North Korea: Economic Sanctions”, Congressional Research Service: Report for Congress, Updated January 24, 2003. University of North Texas Libraries(UNTL) ,
http://digital.library.unt.edu/govdocs/crs/permalink/meta-crs-5083:1(2008年9月)。なお、同報告書は 2003年の時点で提出されており、テロ支援国家の根拠となる部分が残されていた。
290 アメリカの敵対国家に対する正常化については、第1章の議論を参照されたい。
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(アメリカは)純粋に保障措置の連続性を保障するための査察を実施することで 合意した朝鮮側との約束を完全に覆し、逆に(IAEA)事務局の提起した全面査察 要求を受け入れることを公式に要求している(括弧筆者)291
この声明は、一見するとアメリカと IAEA に対する非難として受け取れるが、この「不 満げな」声明の裏側には、アメリカに対して 7 月の合意内容を履行してほしい、という催 促の意図が内包されていたといえる。その理由は、7月の合意には「IAEA保障措置内容を 協議」するだけではなく、「米朝協議を 2 ヵ月以内に再開」することも盛り込まれており、
北朝鮮からすれば査察と米朝協議は同時に進行する課題であった。北朝鮮が限定的ではあ りながら、IAEA に協力的な態度をとったことからも、その姿勢が窺える。例えば、1994 年2月21日に開かれる予定のIAEA定期理事会の前に、北朝鮮はIAEAの査察を受け入れ たことがあった。当時はまだ IAEA を通じて米朝が歩み寄ったり、対立を繰り返していた 時期であった。
一方、2月25日には米朝間の第3ラウンド協議に向けた実務者レベルの協議が行われた。
米朝は2 月の実務者協議を通じて、1.IAEA査察の受け入れ、2.南北協議の再開、3.チ ーム・スピリット中止、4.米朝間の第3ラウンド開催(3月21日)などを再度確認した292。 つまり行動様式としての「相互主義」が作動したといえよう。
しかし、第3ラウンド協議が開催されることはなく、2月に入ってからは、「米上院にお いて、拘束力はなかったものの、韓国に戦術核を再配置する内容の決議案が可決された」293 との記事が報じられるなど、情勢は険悪化の一路から抜け出すことができなかった。
さらに対北朝鮮への圧力は、アメリカだけはなくその同盟諸国によって一段と強まった。
2月18日に細川護熙首相(当時)は、北朝鮮とは対話を通じて核問題を解決するが、「安保 理で(制裁が)決定をされれば、我が国としては責任のある対応をとっていかなければな らないことは当然である」(括弧筆者)294と述べ、北朝鮮に対する制裁に協力する考えを示 した。特にこの時期の日本の対外政策は、安保理常任理事国入りを目標としてかかげてい たが、そのためにも大国の地位に相応しい対応が検討されていたとも考えられる295。
当時進められていた南北の実務者協議においても、対立の激化が浮き彫りになった。と りわけ3月19日に行われた南北間の実務協議で、北朝鮮側が「ソウル、火の海」と発言し たことによって、険悪ムードはさらに深まった。ただし、北朝鮮政府の対外向けの声明や
291 この声明には、「約束対約束」による行動原則が言及されている。声明文については、次の文献を参照 されたい。朝鮮問題研究所『月刊朝鮮資料』1994年3月号、24-26頁。
292 朝鮮問題研究所『月刊朝鮮資料』1994年5月号、19頁。
293 『東亜日報』1993年2月3日付。
294 参照、衆議院「予算委員会」1993年2月18日、国会記録検索システム, http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_logout.cgi?SESSION=16768(2007年6月)。
295 安全保障における国際貢献の強化構想は、国連安保理常任理事入りに関する積極的な動きともリンクさ れていた。特に1993-94年の核危機を通じて国内政治レベルでの論議も一層強まってきたといえる。参照、
拙稿「日本の朝鮮半島への関与アプローチ」依田憙家・王元編著『東北アジア研究叢書』(2006)白帝社、
79頁。
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発言は、時にはその言葉だけが大きく膨らみ膾炙される傾向が強く、その結果緊張がより 高まったことを否めない。神谷不二は『朝鮮半島論』(1994)において、「火の海」の前後 の発言を取り上げながら、「もちろんこれは大変な暴言だが(中略)…常識的に考えてみれ ば(中略)…四月六日からの最高人民会議開催や、四月十五日の絶対君主金日成の誕生日 など、北朝鮮の重要行事が目白押しに控えていて、戦争を仕掛けるのはもともと無理であ った」296と、当時の北朝鮮の状況について説明する。またブルース・カミングス(Bruce Cumings)は、この「ソウル、火の海」発言について、次のように事実関係を説明してい る。
この「ソウルは火の海」という発言は、実際の文脈から大きく外れて報道され てしまった。実際は、米国が北朝鮮を攻撃したらこうなるぞという意味だったの である。金日成は「火の海」発言について、自分の真意ではないと個人としても 公人としても否定し、この発言をした当局者をその後免職処分にしている。しか し米国メディアはこのような事実関係はまったく気にとめていない297
このように、北朝鮮の発言は、その意味合いについて当時の状況を考慮して理解する必 要がある。北朝鮮の限られたメディアを通じて発せられる対外向けの発言は、状況を十分 に考慮したうえでの政府や政党(時には個人)の十分に検討された表現であった。特に『労 働新聞』、『朝鮮中央通信』を通じた外交部の声明には、北朝鮮政府の明確な「意図」が示 されている。つまり、一般化されている北朝鮮の異質さの観点ではなく、客観的で関係性 をもって理解する必要があるといえる298。北朝鮮の「不満げな」、「挑発的な」発言は、対 決や緊張状態を高めるためではなく、自らがおかれている状況の不条理さに対する感情の 表出として受け止めるのが最も妥当であった。
しかし、北朝鮮に対する制裁の動きは、一層強まりつつあった。例えば、日本政府は、
安保理の対北朝鮮の制裁決定を前提に、交流制限、送金停止、海上封鎖といった独自の制 裁を検討していたことが明らかになった299。韓国政府もまた、米韓の合同軍事演習チーム・
スピリットの実施やパトリオット・ミサイルの国内配置をもって300、北朝鮮に圧力を強め た。
296 神谷不二『朝鮮半島論』PHP研究所(1994)、284-285頁。
297 ブルース・カミングス、杉田米行監、古谷和仁・豊田英子訳『北朝鮮とアメリカ 確執の半世紀』(20 04)明石書店、112頁。
298 スナイダーは前掲書で、「北朝鮮はブラック・ホールではない。その全体的社会像は不透明であっても、
メディアの分析を利用して、国内の政治的プロセスの輪郭を理解し得る」と指摘するが、その輪郭を理解 するためにも、認識の転換が必要であるといえる。Scott Snyder, op. cit., p48.
299 『朝日新聞』1994年3月23日付朝刊、同年3月27日付朝刊。
300 1994年4月20日に行われた韓国の李炳台国防部長官とアメリカのウィリアム・ペリー国防長官(以
上、当時)の会談では、北朝鮮がIAEAの査察を拒否し続ければ、同年11月にチーム・スピリット再開を 合意したと報じられた(『東亜日報』1994年4月21日付)。しかし、この年にはパトリオット・ミサイル は実戦配備されたが、チーム・スピリットが実施されることはなかった(『朝日新聞』1994年10月21日 付夕刊)。
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北朝鮮の対応もエスカレートしていき、1994年4月27日には、5メガワット級黒鉛炉か ら使用済みの核燃料棒を取り出すことをIAEAに通告した。これに対してIAEAは、使用済 み核燃料棒の放射線スペクトラム測定を要求し、査察官の派遣の受け入れを要請した。こ れに北朝鮮は立ち入りだけを許可したが、査察官が到着する前の1994年5月14日にはす でに燃料棒の取り出す作業を開始した301。IAEAはこの事実を安保理に報告したが、安保理 は5月30日に使用済み核燃料棒の今後の計測可能性保全を促す議長声明を採択した302。さ らにIAEAは6月10日に、年間56万ドルに相当する北朝鮮への技術援助を中断とする制裁 案を採択した303。
このような動きに対して北朝鮮は 6月13日にIAEAからの脱退を宣言し、これをアメリ カに通告した。この時期のクリントン政権は、ちょうど朝鮮半島情勢に対応するための米 軍を増員するか否かを判断するところであった304。また韓国では6月15日に、民間レベル における戦争時の避難訓練である「民防衛訓練」が実施された。緊張は高まる一方であっ た。