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賠償と経済協力による日本企業の海外進出の再開

ドキュメント内 博士論文 (ページ 44-49)

第三章 ASEAN 進出の再開と輸入代替政策への対応(戦後~1971 年)

3.2 賠償と経済協力による日本企業の海外進出の再開

上述のように、第二次世界大戦の敗戦により、日本の経済活動は連合軍の占領下 におかれ、輸出入も管理貿易によって行われた。また、その敗戦により、連合国の 当初の対日賠償の基本方針は、厳しかったが、東西対立が激化し、東アジアではア メリカが後退しつつ見えるような国際情勢の中で、アメリカの対日政策は転換され たのである。1951年9月にサンフランシスコで対日講和会議が開催された。

本節では、サンフランシスコ講和条約後、日本の戦後賠償がどのような経過を経 て実施され、その賠償を含む経済協力がASEAN諸国の経済発展にどのような貢献 をしてきたのか、それが日本経済、日本の経済外交及び企業の海外進出にいかなる 効果をもたらしたかを考察する。

敗戦により、連合国の当初の対日賠償政策の基本方針(ポーレー案)は、①日本の 非武装化のために、非軍事国が必要とする以上国内の資本設備及び施設を連合国に 引き渡すこと、②日本国民の最低生活水準と占領軍の支弁を防げない範囲内で現物 賠償を取り立てること、③日本の在外資産を連合国に引き渡すことであった。

このような方針に沿って、日本の産業施設の30%を4戦災国に賠償支払の前渡し として引き渡すことが決定され、1950 年 5 月までに鉄鋼、造船、火力発電、工作 機械、航空機工場、化学工場など、合計4万3,919台の機械設備が撤去された。取 引 国 別 の 評 価 額 の 割 合 は 、 中 華 民 国 54.1%、 オ ラ ン ダ(オ ラ ン ダ 領 イ ン ド ネ シ ア)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%で合計1 億6,516 万 円(1939年価格)であった。また、これは、平和条約による最終的な賠償ではないと いう意味で「中間賠償」と呼ばれた25。しかし、持ち込まれた機械設備はうまく機

24 大来佐武郎『東奔西走-私の履歴書-』(日本経済新聞社、1981年)参照。

25 永野慎一郎・近藤正巨『日本の戦後賠償 アジア経済協力の出発』(勁草書房、1999年)、

p.1。『昭和財政史-終戦から講和まで-』第1巻、p.316参照。

能しなかった。

このように、当初の対日賠償の基本方針は、非常に厳しかったが、日本の設備の アジアの途上国に持ち込んでも現地の生産に貢献しなかったこと、また賠償を請求 できる国々は現金を所望した。1946 年 3 月のチャーチル英国首相の「鉄のカーテ ン」演説、1947 年 3 月のトルーマン・ドクトリンの発表などを契機に冷戦体制が 決定的になり、米ソ対立が激化していく国際情勢の中で、アメリカの対日政策は転 換を余儀なくされたのである。日本の経済復興を早期実現させることが、アメリカ の負担の軽減となるだけでなく、自由主義陣営の強化に資するという考えから、賠 償緩和の方向へ政策を転換したのである。つまり、苛酷な賠償取り立てによって日 本経済を弱体化させることは、得策でないという判断であった26

1952年4月の講和条約発効後、戦後の日本で最初に国際会議が開催されたのは、

1953 年のことで、それが国際連合アジア極東経済委員会(ECAFE)27主催の鉱物資 源に関するものであった。この会議の招致に象徴されるように、原料資源の確保は 日本復興の要と見られていただけでなく、戦後の国際協力の出発点となる重点分野 として期待されていた。

占領当時の日本では、国民生活の向上に国内の天然資源を有効活用する方法が議 論されていた。しかし、アメリカの対日政策の転換と朝鮮戦争による特需によって 日本は想定以上のペースで復興を遂げ、それに合わせて国内資源の開発から海外原 料の確保へと重点を移す。この過程で国外の原料アクセスを促進する手段と位置づ けられたのが、日本によるアジア諸国に対する経済協力であった。

1960年代末頃から経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)に批判され るようになるまで、日本の「援助」には投資や賠償など、対象国の開発を主目的と しない活動が含まれていた28。1950 年代初頭までの日本は援助の受入国であり、

占領地域救済政府基金(GAREOA)や占領地域経済復興基金(EROA)といった大規模 な緊急援助が終わってからも、産業インフラ充実のために世界銀行から多額の融資 を受けていた。「世銀融資を受けながら援助を出す」ことに合わせて、輸出信用や賠 償、技術協力などに民間投資を含めて「経済協力」と総称する方式は、今日の中進

26 永野慎一郎・近藤正巨『日本の戦後賠償 アジア経済協力の出発』、p.1。

27 現国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)。

28 佐藤仁「戦後日本の対外経済協力と国内事情-原料確保をめぐる国内政策と対外政策の 連続と切断-」『アジア経済』(アジア経済研究所、20126月)、p.96。

諸国(中国、タイなど)に重なる部分が多い29

1950年代当時の日本を取り巻く国際環境を振り返ってみよう。アメリカによる間 接占領からの政治的独立に続けて、経済自立を目指していた 1950 年代前半の日本 にとって最も切実な課題のひとつとなったのは、国連加盟を軸とした国際社会への 復帰であった。さらに GATT 加盟なくして貿易の正常化は望めなかった。「援助」

の分野で実績を積み、GATT加盟を西欧先進国に認めてもらうことは、そのための 有力な糸口であった。

日本の国際社会への復帰に重要な役割を果たしたのは、言うまでもなくアメリカ である。戦後初期のアメリカの政策は、日本の生活水準目標を「日本が侵略した国々 の生活水準よりも高くない水準」に押しとどめ、1947 年 4 月の極東委員会におい て、その水準を1930年ないし1934年の生活水準に規定した。

しかし、その後、1948年になって「合理的な生活水準をもつ自立日本建設」とい う対日政策の変更が行われ、アメリカの納税者の負担軽減のためにも、日本の平和 的な産業力の増大が望ましいという、対日援助強化の方針転換が明確になった30。 つまり、日本の潜在工業力をアメリカ及び西側陣営の反共戦略に利用しようとする 構想は、1950年から ECAFEやワシントンの一部で検討され、1950年末の米英首 脳会談でも合意されていた。特にアメリカ側ではグレー報告31が強調したように、

東南アジアの開発構想と結合させることが焦点となっていた32

この方針は、日本製品の主たる市場として期待された東南アジア地域を統括する 国連機関であるECAFEへの日本加盟問題で一層はっきりする。当時のECAFEの 活動地域において資本財(機械・設備など)、工業物資(化学物質、染料、肥料、ゴム 製品、紙・紙製品、繊維など)を本格的に供給する能力があるのは日本だけであり、

日本の工業力を活性化することは、地域の活性化に不可欠であると考えられていた。

1948年12月4日に開催された第四回ECAFE 総会では、アメリカとインドの強い 賛意によって、日本は準メンバー(Associate member)になることを認められ、日本

29 同上、p.94

30 佐藤仁「戦後日本の対外経済協力と国内事情-原料確保をめぐる国内政策と対外政策の 連続と切断-」、p.96。濱田久米夫「アジア経済再建と日本の役割」『世界経済』5(9)(1950 年)、pp.19-27。

31 グレー報告(Gray Report)は、国際経済開発の重要性を力説し、195011月に発表さ れた。

32『昭和財政史-終戦から講和まで-』第3巻、p.501。

の工業力を利用しながら、ECAFE域内の貿易振興を図る方針が決議された33。 こうした流れの中で、日本の対東南アジア援助政策の一つの端緒となったのは 1950年のウェスト=アンドリュース構想と、翌年 5月 16 日に発表された GHQの マーカット経済科学局長の声明である。

マーカットは「日本は世界的に不足している資源の供給を増やすために、東南ア ジア地域の開発を思い切って進めるべきである。アメリカとしては、日本が東南ア ジア地域を開発するに必要な資金については、(日本の)輸出入銀行などを通じて供 給する用意がある。東南アジア地域の開発に当たっては、東南アジア諸国が原料、

日本が資材・技術・労力、アメリカが資金を夫々出資し、三者一体となり、開発を 進めることが理想である」という。アメリカの構想に日本が関心をもった背景には、

共産化し禁輸政策の対象となった中国市場の喪失を東南アジア開発で埋め合わせよ うという期待があった34

劇的に変化する国際環境に対応するかたちで、国内における制度づくりも急加速 する。1953年には、東南アジア経済協力をめぐる論議を受けて、外務省にアジア経 済懇談会、自由党にはアジア経済協力委員会などが相次いで設置された。自由な貿 易を制限する信用制限や関税障壁など対日差別待遇の改善を企図していた日本政府 は、GATTを進める西欧諸国から取り残されることに脅威を感じていたし、何より も、特需や援助に依存しないで済む国際収支の安定化のために経済協力を位置づけ ようとする考えをもっていた35

しかし、戦争の傷跡が生々しいアジアで日本が開発事業を主導するのは容易では なかった。経済安定本部の報告書は、「ビルマ、パキスタンは日本の技術援助を歓迎 しているが、マレー、フィリッピンについては賠償問題などの関係があって普通の 輸出以外は難しい」と判断していた。そうした中で、アメリカの政策変化と日本の 経済回復に伴う明らかな原料不足は、日本政府 に輸出入銀行(現国際協力銀行)を活 用した資源確保を目的とする経済協力に本腰を入れさせる環境を与えた。資源開発 のインフラが不十分なアジア諸国を相手にした通常貿易では十分な原料が確保でき

33 ECAFEについては、池尾愛子「M.ブロンフェンブレナーと戦後日本経済の再建(1947

~1952年)」『日本経済思想史研究』(20116月)、pp.49-50参照。

34 佐藤仁「戦後日本の対外経済協力と国内事情-原料確保をめぐる国内政策と対外政策の 連続と切断-」、p.97。対中国貿易の禁止政策の詳細については、安原洋子「アメリカの 対共産圏禁輸政策と中国貿易の禁止-1945~1950年-」『国際政治』第 70号(日本国際 政治学会、19825月)、pp.31-46参照。

35 秋山惇「我が国の“援助”政策の新段階」『経済評論』(19619月)、pp.46-55。

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