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日本国内の投資制約要因の増加

ドキュメント内 博士論文 (ページ 83-89)

等な協力者」の立場に立って、ASEAN の連帯と強靭性強化の自主的努力に積極的 に協力し、また、インドシナ諸国との間に相互理解による関係醸成を図る。これら の原則は日本のその後の東南アジア政策の基本となっている。

この「福田ドクトリン」は、上述のように、いくつかの狙いがこめられていた。

第一は、1974年の反日暴動の遠因となったような、日本企業のこれまでの経済主義 的な進出に追随する東南アジア政策に代わって政治的アプローチの必要性を認識す ることである。第二は、『外交青書』が指摘するように「機構としての ASEAN に 対する積極的な支持を確認」した点にある。そして、第三は、具体的なアジア外交 の構想として、ベトナム戦後のアジアにおいて、インドシナ社会主義三国とASEAN の平和共存関係の構築を支持したことである。他方、福田ドクトリンは、ASEAN 支援とインドシナ諸国との関係醸成を通じて、「もって東南アジア全域にわたる平和 と繁栄の構築に寄与する」と述べている20

上述のような一連の出来事がきっかけで、日本企業も東南アジアの現地社会との 融合に努めるようになった21。こうして、政治・外交面における日本政府・経済団 体などのASEAN重視の姿勢が、日本企業のASEAN 諸国進出をさらに促進したと 考えられる。

次節は、日本企業のASEAN進出の重要なプッシュ要因として、もう一つの日本 国内の状況の変化について考察する。

策を優先させるという「傾斜生産方式」が導入された。これは、当時 GHQ から認 められた輸入重油の大半と石炭を、鉄鋼部門に重点的に投入し、増産された鉄鋼を 他の資材とともに、石炭部門に集中的に投下するという循環の中で、生産を回復さ せながら、順次、他の部門に対する基礎資材の供給を増やしていき、最終的に消費 財の増産につなげるという、ある種迂回的な政策であった。

復興は、鉄鋼・電力・科学肥料(硫安)などの基幹産業を中心に、産業発展のイン フラ部門を確立するところから始まったのである。朝鮮戦争がこうした経済復興の 直接の契機になり、1951年頃から生産力の拡大と生産の近代化が本格化し、末端ま で戦争の特需景気が広がり、町工場が一斉に息を吹き返した。

次に、1955年頃から日本は、高度経済成長期に入り、全面的に工業化が進んだ。

紡績、繊維、紙パルプから始まり、やがて、鉄鋼・造船を牽引車に、国民の間に消 費革命を引き起こした家電製品と自動車を中心とする機械工業部門や、合成繊維の 部門など、重化学工業が飛躍的に伸びた。重化学工業が基幹産業であったことから、

この時期の産業構造の特徴を、のちの低成長期の産業構造との対比で、「重厚長大」

型と呼んでいる。

企業は内部留保を、さらになる新鋭設備の導入を意味する設備投資に回すことに よって、生産力を急拡大させていた。大企業は、海外からの技術導入によって、部 品の規格化と組立の分業をはかる流れ作業方式(コンベヤ・システム)を確立し、さ らに、石油化学コンビナートでは、オートメーション(無人操業)が始まった。

こうして、規格品の生産を拡大して、国内市場を開拓し、大量生産・大量消費の 時代を作り上げた。やがて日本は1964年にOECDに加盟し、先進国クラブに入っ た。1960年代半ば以降、貿易と資本の自由化政策の下に、自動車、合成繊維、事務 用機器、テレビ、テープレコーダーなどが次第に海外市場へと進出し、「貿易立国」

としての基礎を固めていた23。前述のように、その重化学工業化の経済成果が現れ た。貿易収支の黒字が定着し、外貨不足が解消されたのである。そこから対外直接 投資の自由化が進んだ。1969年の第一次自由化措置以降、規制を緩和した24

この高度成長期の 15 年間に、日本の経済成長率(GDP 成長率)は平均すると年率 12%を超えるほどで、1974年の第一次オイル・ショックで戦後は初めてのマイナス

23 同上、p.33。

24 公文溥「日本の対外直接投資について-国際比較の観点から-」、p.40。

成長(‐0.2%)に落ち込むまで、高度成長は持続した25

また、高度成長期、日本では、企業も政府も公害防止策を省略した利潤追求・経 済成長第一主義の下で、地域開発や工場立地を進めていったと言われる。その結果、

深刻な公害被害、自然破壊がもたらされた。重化学工業、特に素材供給型産業であ る鉄鋼、非鉄金属、石油化学産業などでは、大都市近接地に巨大なコンビナートを 建設し、石油、土地、水などを大量に使用し、有害物資を含んだ産業廃棄物をたれ 流し、それらはストックとして蓄積されていった。

これにより、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染が進んだ。金属鉱山が排出したカド ミウムによるイタイイタイ病、化学工場が排出した水銀による熊本・有明海での水 俣病、新潟・阿賀野川の第二水俣病、石油化学コンビナートや自動車が排出した二 酸化硫黄による四日市ゼンソクに対するいわゆる「4 大公害裁判」は余りにも有名 であった。

1963年から 1964年にかけて、静岡県・三島・沼津・清水2市1町で、住民によ る沼津市周辺の石油コンビナート誘致反対運動が起こった。ここでは、のちに三島・

沼津型と言われるような、住民による実態調査と学習を通してのコンビナートの誘 致阻止運動が展開され、進出企業は計画変更を余儀なくされた。この運動は、その 後の公害反対運動に大きな影響を与えた26。そして、1970 年には公害対策基本法 が成立し、1971年には環境庁が発足した27

それによって、公害問題の発生による環境規制が強化されるようになった。企業 が環境保全策を実施するため、企業の環境対策費は着実に増加しつつある。そのた め、企業の製品・サービスの環境配慮に伴う経済効果がもたらされたが、環境設備 投資額、環境費用などの環境保全コストの増加、あるいは産業立地コストの上昇に より、企業経営に大きな負担になった。

また、この間、1961 年頃から東京オリンピック(1964 年)の翌年にかけて、日本 経済は一時、労働力需給の急迫化、賃金の高騰、そこから消費者物価の上昇を招き、

さらに賃金の上昇が起こるという悪循環に陥った。この時期を転機期と呼び、それ

25 加藤涼・近藤崇史・鷲見和昭・榎本英高・長田充弘「高度成長期から安定成長期へ:日本 の経験と中国経済への含意」『日銀レビュー』(201212月)、p.1参照。

(https://www.boj.or.jp/research/wps_rev/rev_2012/data/rev12j17.pdf)(2015/10/1)

26 宮本憲一『環境経済学』(岩波書店、1989年)、pp.321-323、及び吉田紘・今野裕昭『戦 後日本の経済社会』、p.146参照。

27 Hoshino, Y. (1992).“Japan’s Post-Second World War Environmental Problems”,Jun Ui ed,Industrial Pollution in Japan, United Nations University Press, p.74.

以前(1955年から1960年にかけて)を高度成長前段、それ以降(1965年から1973年 にかけて)を高度成長後段と呼ぶことがある。この転換期を境に、労働力の質の転換 が起こっていたのである。

高度成長前段(前半)には、都市部に立地した工業が、農村部から若年労働力を吸 収する形で、農村の次男三男を大量に動員した。そのために、農村部では、省力化 によって余剰労働力を生み出すために、農村生産(コメ生産)の機械化を政策的に推 進していた。ところが、1960年代になると、農村部の若年労働力は枯渇してしまっ た。産業界は労働力不足に陥り、特に、中小企業は人件費の高騰という深刻な問題 に直面した28。このことは一方で、大企業と中小企業との間で賃金格差を縮小し、

国民の所得の全体的な底上げをもたらし、消費拡大を生むという成長の促進要因に もなったが、他方、一部で高度成長時代の終わりが懸念された。産業界は、この時 期、中小企業を中心に、労働力調達源を若年層から中高年・婦人層、特に婦人労働 力に切り替えるとともに、大企業は合理化することでこの人出不足を乗り切り、

1965年代以降の高度成長を持続させた。

こうして、高度成長期後段になると、国内購買力を拡大するために、公共事業な どの財政支出が一層重視されるようになり、また、一部の企業は海外市場を狙って 海外進出が本格化し始めた29

その高度成長期も1973年には終焉を迎え、日本経済は低成長期に入った。同年、

アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発し、原油価格がそれ以前の4倍の 高水準に跳ね上がった。世界経済にインフレと不況が併存して大きな混乱が生じた。

石油資源の大部分をアラブ産油国に依存していた日本では、とりわけその打撃は深 刻で、石油パニックが生じただけでなく、産業構造も大きな転換を迫られた。省エ ネルギー・省資源の産業構造、減量経営に転換せざるを得なくなった。

高度成長期において、「規模の利益(スケール・メリット)」重視の経済を引っ張っ てきたのは、民間設備投資や公共投資であったが、これを担っていたのは、鉄鋼、

化学品、セメントなど基礎素材型の産業部門である。省エネ・省資源の時代に入る と、消費や輸出が経済を引っ張るようになるが、鉄鋼、造船、アルミ精錬、繊維な ど基礎素材型の部門は、コストアップで国際競争力も失い、構造不況業種として斜 陽産業化した。従来基礎素材型でやってきた大手企業も、経営を多角化し、加工部

28 KATO, H. (1986).The Japanese Economy in Transition, p.76。

29 吉田紘・今野裕昭『戦後日本の経済社会』、p.33。

ドキュメント内 博士論文 (ページ 83-89)