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日本政府と経済団体の ASEAN に対する政策と態度の変更

ドキュメント内 博士論文 (ページ 79-83)

本節では、この時期における日本企業の急速な海外直接投資と国際分業進展の重 pp.78-79。

要な一つの要因である日本政府と経済団体の ASEAN に対する政策と態度の変化、

そして日本国内の投資制約要因の増加に対応する日本企業の動きを検討する。

政治・外交面における日本政府のASEAN に対する姿勢は、日本企業の ASEAN 進出を促進したであろうと考えられる。上述のように、日本企業の海外進出は1960 年代末から 1970 年代初めにかけて活発化した。それは労働力の不足や賃金の上昇 といった日本国内事情がきっかけであった。特に、1972 年以降 ASEAN 進出は顕 著であった。

一方で、ASEAN 進出日系企業はとりわけ、進出先の諸国から様々な批判と期待 に直面することになった。ASEAN 諸国における日系企業に対する批判についてよ り具体的にいうならば、「企業が進出先の国の経済の自立に寄与しない」、「もしくは ASEAN諸国の外国(日本)従属を助長する」というものがあった。「その優れた資本・

技術・経営管理方法により、現地の民族資本(企業)を圧迫する」、「ASEAN諸国の輸 入の増大により貿易収支のアンバランスをもたらす」、「現地人スタッフの教育に不 熱心であった」などという批判もあった。

また、現地政権あるいは現地の権力者と癒着し、彼らの支配を強化するという批 判も存在していた。あるいは、現地労働者の搾取、脱税、権力者への賄賂、といっ たことに対しての批判も存在し、現地人スタッフの昇進が全く不十分であるといっ た点や、(日本人スタッフの)年功賃金制度への批判が見られた。さらには、「現地の 慣習や、価値への配慮が見られない」との批判も挙げられた16

一方では、ASEAN諸国は外国の企業進出を期待し、企業の誘致を行うとともに、

他方では自国の利益にかなうような規制を行いつつあった。例えば、輸出の増大や 輸出品の付加価値の向上、輸入の削減と国産化(現地調達)率の引き上げ、現地人雇 用の増大、現地人の技術者や管理者の育成、現地資本の参加と外資の支配の排除、

現地企業の保護・育成などを目的として、外国企業進出における奨励業種及び制限 業種の指定、とりわけ奨励業種に対する税制面での優遇措置、輸出比率に関する制 限、輸出の要請や国産化(現地調達)率の設定、雇用面での制限、資金調達上の制限、

などを設けるに至りつつあり、そのための法や規制が整備されつつあった。

そして、ASEAN 諸国において日本企業が直面する批判には、ASEAN 諸国への 日本の歴史的かかわり合い、民族主義の台頭などを反映するものが少なくなかった

16 櫻井克彦『企業の国際化とその経営政策』(長崎大学東南アジア研究所、1979年)、p.24。

のである。とりわけ、日本のASEAN諸国への過去の軍事的進出、及びASEAN諸 国におけるナショナリズムの台頭によってもたらされる日系企業に対する批判は、

そのような性格を帯びていた。

日本企業の進出は、時として現地社会への配慮を欠くものであり、経済支配をも くろむものとみなされて東南アジアの国々で反発を受けた。そして、それは反日運 動となって表に現れた。特に、田中角栄総理が、1974年 1 月 7 日から 17日の 11 日間、フィリピン、タイ、シンガポール、マレーシア及びインドネシアの東南アジ ア5カ国を訪問した際に、ジャカルタで起こった反日暴動(いわゆる「ジャカルタ暴 動」)、タイ、マレーシアなどでも学生を中心とする反日デモが展開された。

この事件の背景には、櫻井克彦(1979)は、1970年代頃から、東南アジア諸国では、

日本の急速な経済的プレゼンスの巨大化、現地の事情をあまり考慮しない日本企業 による海外進出の増大があった。この「ジャカルタ暴動」に示されるように、ASEAN において多少とも反日感情が生じたことは否定しえないと言われている17

このように、日本企業は東南アジア地域への進出に伴って、現地社会からの様々 な批判や期待に直面するのであるが、そのような批判・期待に対処するために、設 定すべき経営理念とは、具体的にどのようなものであろうか。この点についてのひ な型の一つと思われるのは、経済団体連合、日本商工会議所、経済同友会、日本経 営者団体連盟、日本貿易会の経済5団体が 1973年6月に発表した「発展途上国に 対する投資行動の指針」である。

なお、そのような 1970 年代初頭に、東南アジアで日本企業の進出ラッシュに対 する対日批判が巻き起こった。日本在外企業協会(日外協)は、そうした状況を打開 し秩序ある海外進出を促進するための「海外投資行動指針」普及を目的とし、1974 年、経団連、日経連などの日本主要経済団体の総意に基づき、民間団体として設立 されたのである(日本在外企業協会www.joea.or.jp、2015年5月3日)。

それにはまず、企業活動の国際的展開に伴い、世界の平和維持と民生の安定を求 めて自由市場の経営理念に代わる新しい理念の確立が求められていること、日本企 業の対外経済活動は、受入国の発展と福祉の向上に資する形のものとして進められ ねばならず、企業は、受入国の立場にたち、その国の諸条件・慣習などの尊重と自 己責任原則に基づく起業家精神の発展とに資するよう努力せねばならないことが述

17 同上、p.27。

べられている18

その「発展途上国に対する投資行動の指針」において、以下の 9 項目のように、

日本企業がその実践に務めるべき指針が示された。

①基本的姿勢。日本企業の海外投資にあたっては、受入国に歓迎される投資とし てそこに定着し、長期的な観点に立って企業の発展と受入国の開発・発展とが両立 する方向で進められるとともに、受入国の社会に融け込むようにその経済、社会と の協調、融和を図りつつ行う。

②相互信頼を基盤とした事業活動の推進、

③雇用、登用の推進、

④現地派遣者の選定、権限委譲など、

⑤教育、訓練の推進、

⑥地場産業の育成など、

⑦再投資の促進、

⑧受入国産業との協調、

⑨受入国社会との協調と東南アジア地域への進出企業に適用可能であると考え られる19

また、日本政府は、ASEANの人々との関係を修復する必要性を感じると同時に、

進出した日本企業への指導を約束した。1977 年 8 月にクラルンプールで開催され

た ASEAN 拡大首脳会議に福田赳夫元首相が出席した。日本の首相としては初の

ASEAN 首脳会議への出席であり、ASEAN と日本の新たな関係の始まりを象徴し

ていた。

最後の訪問地で発表したマニラ・スピーチ(いわゆる「福田ドクトリン」)は、ま ず、「ASEAN 諸国の連帯の努力に対して『懐疑的な傍観者』とはならず、ASEAN とともに歩む『良き協力者』であり続けるであろう」、と従来の姿勢への自己批判を こめた決意を表明した後、東南アジア全域に対する日本の政策を次の三項目に集約 している。

①「平和に徹し、軍事大国とはならない」、②東南アジア諸国との間に広範な分 野において「真の友人としての心と心の触れ合う相互信頼関係を築きあげる」、③「対

18 同上、pp.44-45。

19 Kobayashi, H. (2002).Post war Japanese Economy and Southeast Asia, Philippines:

New Day Publishers, pp.65-67参照。

等な協力者」の立場に立って、ASEAN の連帯と強靭性強化の自主的努力に積極的 に協力し、また、インドシナ諸国との間に相互理解による関係醸成を図る。これら の原則は日本のその後の東南アジア政策の基本となっている。

この「福田ドクトリン」は、上述のように、いくつかの狙いがこめられていた。

第一は、1974年の反日暴動の遠因となったような、日本企業のこれまでの経済主義 的な進出に追随する東南アジア政策に代わって政治的アプローチの必要性を認識す ることである。第二は、『外交青書』が指摘するように「機構としての ASEAN に 対する積極的な支持を確認」した点にある。そして、第三は、具体的なアジア外交 の構想として、ベトナム戦後のアジアにおいて、インドシナ社会主義三国とASEAN の平和共存関係の構築を支持したことである。他方、福田ドクトリンは、ASEAN 支援とインドシナ諸国との関係醸成を通じて、「もって東南アジア全域にわたる平和 と繁栄の構築に寄与する」と述べている20

上述のような一連の出来事がきっかけで、日本企業も東南アジアの現地社会との 融合に努めるようになった21。こうして、政治・外交面における日本政府・経済団 体などのASEAN重視の姿勢が、日本企業のASEAN 諸国進出をさらに促進したと 考えられる。

次節は、日本企業のASEAN進出の重要なプッシュ要因として、もう一つの日本 国内の状況の変化について考察する。

ドキュメント内 博士論文 (ページ 79-83)