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日本企業の ASEAN 諸国進出の再開

ドキュメント内 博士論文 (ページ 49-58)

第三章 ASEAN 進出の再開と輸入代替政策への対応(戦後~1971 年)

3.3 日本企業の ASEAN 諸国進出の再開

日本企業の ASEAN諸国進出の背景と変化を考察するために、戦後から 1950年 代前半にかけてと 1955~1960年代後半の二つの時期にわけて議論することにしよ う。

まず、戦後から 1950年代前半にかけて日本企業の対 ASEAN諸国進出の状況を 見てみる。GHQによる海外事業活動を許可された後、日本企業の各業種のASEAN への進出が再開され、特に民間資本(企業)として旧財閥系の海運及び商社、銀行が 海外貿易を行うために、かなり早い時期にいわゆる「ワンセット」でASEAN諸国 に進出していることが注目される。以下 1950 年代前半の主なものを取り上げて見 ることにしよう。

まず、海運業において、日本郵船のマレー配船第一船が 1950年 5 月で、さらに

40 川邉信雄「第三章 商社」米川伸一・下川浩一・山崎広明『戦後日本経営史』第三巻(東 洋経済新報社、1991年)、pp.166。

41 池尾愛子『日本の経済学』(名古屋大学出版会、2006年)、p.242。

42 永野慎一郎・近藤正巨『日本の戦後賠償 アジア経済協力の出発』、p.3-4。

朝鮮戦争開始直後の 8 月には公式にアメリカ諸港向け配船が許可されて、次いで 1951年にバンコク航路、なども再開されている43

次に銀行のASEAN諸国進出は、三井銀行(現三井住友銀行)が1952年にロンドン と同じ時期にタイのバンコクにも支店を設置している。

続いて、商社の海外進出を見ると、1949年7月3日付のGHQの通達による日本 商社の海外代理店設置が許可され、三菱、三井など旧財閥系商社がASEAN諸国に 社員を派遣して市場調査を開始した。海外に営業拠点を設けたのは、住友(当時、日 本建鐵産業)がボンベイに駐在員事務所を置いた(1950 年 5 月)のが最初とみなされ る。さらに、「サンフランシスコ講和条約」とともに財閥の商号が許可されるや、三 井物産、住友商事、三菱商事などが正式に発足し、三井銀行はさっそくニューヨー ク、ロンドン、香港に支店を創設し、ドイツ物産を設立している。

住友商事もパキスタンやドイツをはじめ、台湾、フィリピン、インドネシア、ビ ルマ(現在のミャンマー)、タイ、メキシコ、アルゼンチンに至るまで駐在員を置き、

米国法人をニューヨークに設置している。三菱商事も 1953 年に、すでに進出して いた不二商事・東京貿易・東西交易の3支店を合同し、米国三菱を設立、“Mitsubishi International Corp.”と命名し、新しい一歩を踏み出している44

しかしながら、1950年代前半にはASEANにおける現地法人が設立されたのは、

非常に少なく、輸出入の海外貿易は大体総合商社を通し行われていた。なぜ現地法 人があまり設立されなかったのかというと、それはタイを除いて各国が独立したば かりなので、国内情勢の不安定が一つの原因だったと考えられる。

続いては、総合商社の役割について見てみよう。日本経済の回復と産業の合点の 時期における 1950 年代前半には、総合商社の役割が非常に注目されており、日本 の代表的な総合商社である三菱商事が、特にASEAN諸国とどのような商品を取り 扱っていたのかということについて例をあげて述べよう。

1955年度日本全国通商額は、輸出24億3,700万ドルで、その中で三菱商事の取 扱いは 10.2%である。一方、日本輸入総額の 25 億ドルの中でも、同社の取扱いは 10.9%に達した。したがって、同社は、日本の輸出入貿易において重要な役割を演 じていることが分かる。1955 年に同社の取扱高の取引別構成比は、輸出 29%、輸

43「第三章 戦後の経済成長を支えた専用船新しいニーズに応える海運時代の始まり」『日 本郵船の歴史』(日本郵船)(http://www.nyk.com/)(2014/11/16)。

44 川邉信雄「第三章 商社」、pp.171-172。

入38%、外国間0.15%、国内33%で、輸入のシェアが大きいことが特徴であった(図 表3-3参照)。

図表3-3 三菱商事取扱高の推移(1955~1956年)

(単位: 億円、%) 年度 日本からの輸出 外国からの輸入 外国間貿易 日本国内 合計

1955 783 (29) 1,016 (38) 4 (0,15) 904 (33) 2,707 (100)

1956 1,005 (26) 1,390 (37) 4 (0,11) 1,381 (36) 3,780 (100) 出所:『三菱商事社史』下巻(1986)p.69

図表3-4 1955年における日本のASEAN諸国からの一次産品の輸入状況

(金額: 1,000ドル; 割合: %; 数量:トン)

輸入 うちASEAN諸国の輸入

数量 金額 国名 数量 金額 割合

純輸入 2,500,000

うちボーキサイト 343,312 4,202 マライ連邦 151,982 1,759 44.27 インドネシア 181,532 2,149 52.88

銅鉱石 44,198 5,955 タイ 200 32 0.4

フィリピン 25,050 3,384 56.69

錫塊 5,804 12,156 マライ連邦 3,879 7,936 66.83

シンガポール 380 781 6.55 インドネシア 1,487 3,313 25.62

原油 8,501,530 148,613 インドネシア 1,055,943 18,082 12.42

生ゴム 87,669 66,255 マライ連邦 70,046 52,836 79.9

インドネシア 16,717 12,713 19.07

鉄鉱石 5,459,458 81,533 マライ連邦 1,631,724 23,740 30

フィリピン 1,616,433 20,088 29.61

1,246,384 196,700 ビルマ 235,934 34,603 18.93

タイ 340,850 50,012 27.35

: ①石油の単位はキロリットル。②割合は各種品の数量ベースにより計算された。

出所: 通商産業省『通商白書-日本貿易の現状-』(1956)pp.161-197

1954年度、同社の取扱高の取引別構成比は、輸入において、その概ねは食糧・油 脂・肥料で同社輸入総額のうち47.8%を占め、これに繊維17.7%、燃料11%、雑貨 8.7%、機械 8.2%、金属 6.6%が続いた。食糧・羊毛・綿花の輸入が多かったのは、

戦後の食糧難、衣料難、の時代の名残りを示しているもので、機械のそれは高度成 長時代の先駆として、機械輸入が増大し始めたことによるものだと考えられる。

また、1955年度同社の主要輸入相手先(国・地域)は、①米国、②カナダ、③ビル マ(ミャンマー)、④タイ、⑤フィリピン、⑥台湾、⑦インドネシア、⑧メキシコ、

⑨ブラジル、⑩キューバで、輸入におけるASEAN諸国からのウェイトが高かった ことが注目される。一方、同社の主要輸出相手先は①米国、②アルゼンチン、③西 独、④インド、⑤台湾、⑥英国、⑦韓国、⑧豪州、⑨タイ、⑩エジプトである45

このように、外国貿易において総合商社、特に三菱商事は、ASEAN からの一次

45『三菱商事社史』下巻(1986年)、p.51,85。

産 品 を 日 本 国 内 に 輸 入 し た り 、 日 本 国 内 で 生 産 さ れ た 機 械 類 な ど 工 業 製 品 を ASEAN諸国へ輸出したり、または ASEAN諸国から一次産品を第三国へ輸出して 第三国からASEAN諸国への輸出、いわゆる外国間貿易を行ったりしていることが 分かる。

以上のような海運、銀行、商社の早期のASEAN諸国との事業活動は、産業とし ての特徴故のように思われる。また、戦後日本企業は朝鮮特需により、繊維・軽機 械などの輸出が国家の保護・援助のもとに復活し進めている。

しかし、戦後から 1950 年代前半にかけては、ASEAN へ進出した製造企業は非 常に少なかった。なぜ製造業があまり設立されなかったのかというと、それは以下 のような要因が考えられる。

まず、日本国内と日本企業の要因としては、例えば、①「外国為替及び外国貿易 管理」によって政府の直接統制の下に行われたこと、②企業におけるASEAN諸国 についての情報・知識不足、資金的・技術的・人的、ノウハウなどの経営資源の蓄 積に乏しかったこと、③1950年代前半ごろまで、労働力過剰で国内の賃金率は、国 際的に見て相対的に安かったことなどのためプッシュ要因は弱かったのである。

受入国(ASEAN諸国)の問題あるいはプルの要因と見ると、例えば、①タイを除い て各国が独立したばかりなので、国内情勢の不安定(政治不安定など)、②法律制度 の不整備、インフラなどの投資環境が整備されていなかったことなどにより、日本

製造業はASEAN諸国に進出しなくても、商社を通して貿易志向型で製品を輸出で

きるので、ほとんどASEANに立地されなかったのである。

鉱業においては、日本製鉄業界が朝鮮戦争による旺盛な需要に対処するために、

インドネシア、フィリピン、マレーシアなどの近距離地域のみでなく、北米・南米 地域にも資源仕入先を求めるようになった。したがたって、「新会社」不二商事・東 京貿易・東西交易の三菱商事の各社もインド、カナダを始め、チリ、ブラジルから の輸入を行った。

しかし、1954年三菱商事新発足の頃には、海上運賃が上昇してきたので、鉄鉱業 界では再び近距離ソースのASEAN諸国の鉄鉱石に着目し、これら諸鉄鉱山を整備 開発することを目論み、日本側商社を仲介者としての投融資買鉱、技術指導による 開発整備を積極的に推進した。1954年12月に三菱商事は、三菱金属鉱業の技術援 助を得てマレーのケダー鉱山開発の指導契約を締結した。

さらに、1952~1953年には木下商店(のち三井物産に吸収)のフィリピンにおける ゴア方式によって、ララップ鉄鋼山への開発投資も始まった。なお、ゴアへの投資 についてひと言のべると、当時民族独立闘争が高揚し、外資制限がきびしく、経営 参加投資が困難な中で、開発資金を貸し付け、それによって日本から開発機械整備 を購入し、産出した鉄鉱石を輸出して機械設備代金の決済にあてると言う「ゴア方 式」が案出され、その後のモデルとなったのである46。また、高木(1967)によれば、

この方式は「債権所得の進出形態」や「プロダクション・シェアリング方式(生産分 与方式)」とも呼ばれたという47

続いて、1955~1960 年代後半について、見てみよう。この時期の許可ベースで 見た日本の海外直接投資累計額は、1955 年度の 2,130 万ドルから 1960 年度 2 億 8,470万ドル、1964年度には7億9,140万ドルへと増加した。しかしながら、1950 年代後半に年数千万ドル、1960年代前半でも年間数億ドル台にとどまっていること からも分かるように、全体としては、欧米先進諸国に比べて投資規模は全体的に小 規模なものが多かったといえる48。ASEAN諸国への投資も、いくつかの大型鉱業 開発プロジェクトを除いて全体的に小規模な案件が多かった。

その主な理由について、1950年代前半の状況とかなり類似したものだと考えられ る。例えば、当時(特に1955年から1964年にかけて)日本国内で好景気が続くと製 品などの輸入が増え貿易収支が赤字になりやすかった。実際、日本の貿易収支は赤 字になり、依然として外貨不足は継続していたからである49。そのため、厳しい為 替管理が行われて資本取引の自由化は進まなかったのである。

また、1960年代前半にかけて日本企業の技術レベルは国際水準と格差があったた め、外国からの技術導入などに依存して、国内での資本投資に力を注がねばならな かったからであろう。しかし、1960年代後半になって、日本の重化学工業化が進展 して、貿易面での経済成果が現れた。貿易収支の黒字が継続して、外貨不足が解消 されたのである。それゆえ対外直接投資の自由化が進んだのである。そのため、1969 年の第一次自由化措置により、規制緩和が進んでいく。

46 藤井光男『日本多国籍企業の史的展開』、p.5。

47 高木良一『日本企業の海外進出』(日本国際問題研究所、1967年)、pp.28-29。

48 藤井光男『日本多国籍企業の史的展開』、p.5。

49 例えば、公文溥「日本の対外直接投資について-国際比較の観点から-」『経済志林』(法 政大学経済学部学会、20133月)、p.40。

ドキュメント内 博士論文 (ページ 49-58)