第八章 おわりに
8.1 各時期におけるビジネス環境変化の背景とその対応
日本から機械類、金属品、化学、繊維製品などを輸出し、ASEAN からは原材料や 中間財を輸入した。総合商社は、単に輸出入の貿易活動を行っていただけなく、
ASEAN 諸国への投資についても重要な役割を果たした。つまり、日本製造業者の
ASEAN 進出には、総合商社がオルガナイザとなり、現地企業を結合させる、いわ
ゆる「3人4脚型合弁企業」が主要な進出モデルとなったのである。
もっとも、トヨタ自動車や松下電器などのように、総合商社への依存を極力避け
て、ASEAN に進出した日系製造業者もあった。その理由は、商社を利用する場合、
販売網の整備や情報収集などにおいて短期的な市場確保に長所があったのに対し、
トヨタや松下などのように自社特有のマーケティングや製品の性能についての情報 フィードバックに重点を置く場合は、中・長期的に市場確保をするための経営戦略 を展開しなければならなかったからである。
1960 年代に日本企業の対 ASEAN 投資は、金額的にも少なく、現地の工業化政 策(輸入代替政策)への初期的な対応であったと位置づけられる。ASEAN諸国が輸入 代替政策をとり始め、日本からの輸入は制限されるようになった。そのASEAN諸 国政府の政策に対応するため、最終工程に近い一部の工程、あるいは市場に最も近 い市場のニーズにも即応できる組立工程を移植し、これに対して機械設備、原材料 部品などを提供(輸出)するという体制を整えた。こうして、日本企業の一部はタイ などの有力市場で現地生産し始めたのである。
第二時期(1972年から 1985年)においては、日本では貿易収支の黒字が定着し、
外貨不足が解消されていった。そのため、日本政府の政策として、対外直接投資の 自由化が進んだ。また、経済の高度成長期により、日本国内における労働力不足、
賃金高騰、立地難など日本国内の投資制約要因が増大した。同時に、欧米との通商 摩擦などが激化してきた。この時期にはそれらの要因が、日本企業の海外投資ある いは進出を促進した。特に、投資環境が改善されつつあった ASEAN5 への直接投 資が本格化し始めたのである。
1970年代頃から、日本企業の対東南アジア投資が急増したことから、進出先の諸 国から様々な批判と期待に直面することになった。特に、1974年に田中角栄総理が、
東南アジア5カ国を訪問した際に、ジャカルタなどで反日デモが起った。そのよう な批判・期待に対処するために、1977年には福田赳夫総理が日本の東南アジア政策 の基本方針(「福田ドクトリン」)を発表し、日本政府と経済団体が協力して、ASEAN
の人々との関係を修復すると同時に、進出した日本企業も東南アジアの現地社会と の融合に努めるようになった。こうして、政治・外交面における日本政府・経済団 体などのASEAN重視の姿勢が、日本企業のASEAN 諸国進出をさらに促進したと 考えられる。
1980年代に入って日本と欧米の通商摩擦はさらに激化した。そうした通商摩擦を 回避するために、日本企業は「貿易志向型」から、本格的な現地生産による海外進 出へと戦略転換を行わなければならなかった。また、それまで「労働力事情の有利 性」と「市場の確保と開拓」といったASEAN諸国の国内市場を狙う日本企業は圧 倒的に多かったが、通商摩擦を回避するために、一部の企業は、ASEAN で生産し た製品を欧米向けに迂回輸出し始めたのである。
こうした動きの中で、1980 年代以降 ASEAN では製造業において、早くから進 出した鉄・非鉄金属への投資は維持されたものの、繊維分野への投資は減少する一 方で、これに代わって化学、輸送機械、電機・電子などの産業への投資が次第に中 心的な役割を果たすようになった。とりわけ、技術水準が高く国際競争力を持つ自 動車、VTR、半導体などの産業が浮上し始めた。
第三時期(1985年から1997年)においては、1985年9月のプラザ合意により、円 高が進み、日本企業の相対的な生産コストは高まり、輸出価格を引き上げ、国際競 争力を低下させることになった。1990年代前半にまた数度にわたる円高の進展、バ ブル崩壊などの要因で日本国内の経営環境は悪化した。そのような経営環境の変化 に対応し、日本企業は国内での合理化だけでは競争力を十分回復させることができ なかった。外国企業に対して競争優位を維持し、さらに世界規模での効率的な生産、
販売、部品調達、資金調達、及び研究開発を目指して、日本企業はグローバル経営 戦略を積極的に展開し、生産拠点を国内から海外へを移転することになったのであ る。
ASEAN における経営上の問題が指摘されたものの、ASEAN 諸国の政府が外国
企業を誘致するために、外資規制を緩和し、そして輸出産業への優遇措置を強化し たこと、通貨安、1980年代における賃金上昇の鈍化に加えて、生活環境の良いこと などが輸出加工拠点として再評価されたといえる。
特に、中小企業の ASEAN 諸国への投資案件は、1985 年以降の円高局面を契機 に急激に増加した。1980年代以前は海外直接投資の中心は大企業であったが、この
時期に中小企業の数が急激に増加したのである。
日本企業の狙いは、ASEAN 諸国の国内市場だけでなく、ASEAN 諸国で生産さ れた商品を欧米に輸出することであった。さらには、韓国、台湾の企業による日本 国内製品より安い商品の流入に対抗するために、ASEAN 諸国から日本への逆輸入 することとなったのが、この時期の特徴である。
このように、円高などの要因で輸出コスト競争力が悪化した日本企業が、それを 回復するために、生産ラインをASEANに移転したり、研究開発所を設立したりし て、ASEANの優位性を活用するべく積極的に進出した。
第四時期の 1997年から2008年においては、1990年代初期になると、日本企業 の ASEAN 向け進出は停滞した。これは、1980 年代後半の急激な進出に一巡感が 出てきたことが大きな要因と思われる。一方で、注目されるのは、中国への投資が、
1990 年から 1993 年にかけて急増したことである。特に 1995 年には、初めて
ASEAN4を超えて、中国の台頭の影響が顕著になっている。
ASEANによる AFTA創立の背景には、NAFTAや EUなどの貿易地域への対抗 の動きというよりむしろ、中国への投資の流入に対する危機感が強く働いたと見ら れる。そして、1997 年の東アジア通貨危機の影響など ASEAN 域内の環境が悪化 したことで、ASEAN 諸国は成長に必要な外国投資が他の国・地域に奪われること への危機感を強めたのである。ASEANへの外国投資の求心力維持という観点から、
貿易の自由化について積極姿勢に転じ、ASEANはAFTAの実現目標年次を何度か 前倒しして、新たな外資政策を打ち出したのである。
AFTAによる域内関税の引き下げの効果は、域内に複数拠点を有する日本企業が、
域内での生産ネットワークによる「補完」体制を構築した際に最も大きくなった。
ただし、ASEAN 域内で同じ品目の商品を複数拠点で生産することが合理的ではな くなったため、改めてスケール・メリットを活かすべく、日本企業はASEAN域内 での拠点間の分業化または統廃合という動きをとるようになった。
また、1997年に東アジア通貨危機の影響で、ASEAN各国内市場向けの自動車産 業が国内販売不振などによって深刻な打撃を受けた。この影響を軽減するために、
日本企業(親会社)は、既進出子会社や関連会社が生産した製品・部品を輸入し、出 資比率の大幅引き上げ(増資)によって支援する体制をとった。
東アジア通貨危機以降、日本企業による ASEAN 向け M&A の増加が見られた。
その増資案件の動きは、特にタイでの自動車分野において目立った。増資案件の増 加の背景には、東アジア通貨危機の影響を受けたASEAN各国政府が出資比率の上 限撤廃などの規制緩和策を進めたことがあり、これを機会に日本企業が現地法人を 100%完全子会社化したり、経営権を把握できる比率まで増資したりする動きをとっ たのである。
このように、AFTA を活用しスケール・メリットなどを目指し、最適生産できる ように、既存生産拠点間で重複する事業を削減し、特定品目の生産を集約したこと、
また、子会社を救済するために、自動車・同部品産業において部品などを日本へ逆 輸入したり、子会社へ増資したりすることなどが、この時期における日本企業の国 際分業の一つの特徴といえるのである。
この結果、ASEANを一つの市場と見做す企業が増えたといえる。それによって、
本社からASEAN内の地域統括会社に投融資や地域戦略策定の権限の一部を委譲し、
経営判断のスピードを高めるとともに、ASEAN 域内で経営資源を最適配分する動 きが強まった。シンガポールやタイのバンコクを中心に「ASEAN またはアジアに 地域統括会社」を設立する動きが活発化した。
そして、AFTA によるもう一つの効果は、日本企業にとって中国一極集中による リスク回避をできることである。中国における人件費上昇などの投資環境の変化に より、日本企業の間で、いわゆる「チャイナ・プラスワン」の意識が強まった。と いうのは、中国は継続的な経済成長により、消費市場として魅力が一層増す一方で、
人件費上昇に加え、元の切り上げ、政府による外資優遇措置の停止、さらに反日運 動などにより、従来に比べると輸出製造拠点としては魅力が低下したからである。
日本企業は、特に2003年2月頃から発生した新型肺炎(SARS)の影響、深刻な電 力不足などの問題を契機にして、中国での事業におけるリスクについて強い警戒感 を持つようになった。中国一極集中によるリスクを回避・分散すべく、ASEAN と 中国で同一製品を生産している企業が増えたといえる。そして、2000年代初頭まで に、ASEAN と中国における同じメーカーあるいはブランドの競合を回避するため に、アサヒビールなど多くの企業は、仕向先(市場)を分担する動きが見せた。
第五時期(2008年から現在)において、日本経済と日本企業の事業活動に大きな打 撃を与えたのは、国内外における自然災害とグローバル金融危機などである。日本 企業は日本国内では東日本大震災とそれに伴う電力不足、記録的な円高に加え、海