第三章 ASEAN 進出の再開と輸入代替政策への対応(戦後~1971 年)
3.1 戦後日本の海外投資の再開とその背景
第三章 ASEAN 進出の再開と輸入代替政策への対応
ように復興し、海外進出を再開したのか、を考察する。
3.1.1 戦後日本の海外投資の再開とその特徴
図表3-1 日本の海外直接投資の許可状況(累計)(1951~1967年)
(単位: 100万ドル、件)
北米 中南米 アジア 中東 その他 合計
件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額 製造業 30 121,853 131 216,769 385 123,352 3 1,724 67 30,146 616 493,393
食料品 6 1,617 12 5,911 20 13,006 9 6,114 47 26,647
繊維 1 3,000 23 43,882 69 32,166 27 11,585 120 90,633
木材・パルプ 6 109,491 1 22 9 3,092 1 50 17 112,655
化学 3 2,306 15 3,271 62 7,626 8 2,555 88 15,758
鉄・非鉄 1 389 11 62,873 34 21,361 4 1,982 50 86,605
機械 3 2,401 19 30,219 34 3,802 5 1,438 61 37,860
電機 5 2,155 23 7,758 61 10,642 6 1,899 95 22,454
輸送機 14 59,149 16 10,272 1 1,000 3 3,249 34 73,670
その他 5 495 13 3,687 80 21,386 2 274 4 1,274 104 27,116
資源開発 33 45,189 44 46,743 78 114,780 3 238,070 43 34,616 201 479,399 農業・漁業 11 2,990 26 7,267 26 20,932 2 143 27 5,116 92 36,449 鉱業 22 42,199 18 39,476 52 93,848 1 237,927 16 29,500 109 442,950 商業他 374 201,359 227 112,805 137 60,359 9 840 183 46,836 930 422,120 商業 293 133,443 49 6,221 84 6,287 8 373 156 12,722 590 163,072 金融・保険 19 43,403 15 41,018 14 48,322 1 467 8 1,790 57 108,742
その他 62 24,513 163 65,566 39 5,750 19 31,684 283 358,238
合計 473 368,401 402 376,317 600 298,420 15 240,184 293 111,601 1,747 1,394,991 出所: 藤井光男『日本多国籍企業の史的展開』下巻(大月書店、1979年)、p.7より作成。
敗戦により、日本企業は東アジア地域での海外資産を失い、海外投資は、ゼロか ら出発しなければなかった。田口信夫(1982)によれば、1951年~1967年までの17 年間の海外投資許可額は約 14 億ドルにすぎなかった。欧米各国の直接投資残高と 比較してみると、米国は547億ドル、イギリスは160億ドルとなっており、日本の 海外投資の劣位は一目瞭然であった2。
また、1950年代初頭までの戦後復興期の日本海外貿易・投資は、アメリカ占領軍 による管理下におかれていた。そのため、戦後の日本海外貿易・投資は、連合軍の 占領の下にあったとはいえ、その実権を握っていたアメリカを中心とする西側世界 において、そして国際通貨基金(IMF)を中心とする固定為替相場、後には「関税と 貿易に関する一般協定」(GATT)を軸とする自由貿易推進体制の下で、その復興を開 始することになった。
1984年の『経済白書』は1950~1960年代を振り返り、日本において重化学工業 化が急速に進んだとする。「すなわち金属・化学が工業生産額において 30%強の高 いシェアを維持する一方、機械が繊維に交代する形でそのシェアを14%から26%前
2 田口信夫『日本の海外投資と東南アジア』(長崎大学東南アジア研究所、1982年)、p.5。
後へと拡大した。これは 1950 年代半ばに開発されたアメリカの新技術の迅速な導 入と、それに伴う設備投資ブームによるところが大きい。すなわち、一貫製鉄所や 転炉を設置した鉄鋼、プラスチック、ナイロンなどの合成繊維を導入した石油化学、
トランジスタ、ラジオ、白黒テレビなどの生産を拡大した電気機械などが日本の産 業・貿易構造の転換に寄与したと考えられる」とした。
さらに『白書』は、1960年には、「貿易制限の撤廃、経常的支払に対する制限の 回避などを内容とする貿易・為替の自由化が決定され、1960年代後半には対内及び 海外直接投資の自由化が進められた。このようにして、1960年代末に到ると、日本 は米欧へのキャッチ・アップを加速し、国際競争力の高い工業国としての地位を築 いたのである。同時に、貿易収支の黒字基調が 1960 年代半ばから始まり、資源開 発及び労働集約型産業を中心として海外直接投資が進められるとともに、対米繊維 輸出に関する日米取決めが交わされるなど、日本の貿易をとりまく国際環境の萌芽 もこの頃から生じた」とする3。
戦後における日本の海外進出は、1951年におけるインドのゴアに対する鉄鉱石開 発投資(東京・富士・興銀・日本輸出入銀行協調融資)によって始まった。藤井光男
『日本多国籍企業の史的展開』(1979)によれば、その背景として何よりも重視され なければならないのは、1950年6月前後にGHQが海外直接投資を許可し、日本企 業の海外進出を一定の枠内で承認・援助し、アメリカの世界戦略・アジア政策に活 用していこうとする方針へと、占領政策・対日政策を大きく転換したことである4。 田口信夫によれば、その後、朝鮮戦争によって輸入原材料の高騰、入手難になっ てしまった。その問題を解決するために、原材料の安定確保の必要性という要因が 生まれ、1953年のアラスカ・パルプ、1957年のウジミナス製鉄所(ブラジル)、1958 年のアラビア石油、1960年の北スマトラ石油といった資源開発の大型プロジェクト を中心に日本の海外進出が推進された5。
ところで、1951年にスタートした日本の海外直接投資が1960年代後半までにど レくらいの水準に達したか、その地域別・業種別特徴を検討することにしよう。図 表3-1は、藤井光男『日本多国籍企業の史的展開』下巻(大月書店、1979年)を基に
3 経済企画庁「新たな国際化に対応する日本経済」『年次経済報告』(1984年)。
(http://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je84/wp-je84-00301.html)(2015/4/16)
4 藤井光男『日本多国籍企業の史的展開』下巻(大月書店、1979年)、p.7
5 田口信夫『日本の海外投資と東南アジア』、p.5。
作成した、あるいは、から借用したもので、日本の海外直接投資の業種別・地域別 の許可状況を示している(適切な資料を入手しえなかったため、1951~1967年の数 字である)。これによれば、まず地域別に見ると、①中南米の3億7,631万ドルを先 頭に、②北米の3億6,840万ドル、③アジアの2億9,840万ドル、④中東の2億4,000 万ドルという順になっている6。
次に業種別に見ると、①資源開発の鉱業投資の4億4,295万ドル、②商業の1億 6,307万ドル、③木材・パルプの1億1,265万ドル、④金融・保険の1億874万ド ル、⑤繊維の9,063 万ドル、⑥鉄・非鉄金属の8,660 万ドル、⑦輸送機械の7,367 万ドルと資源開発関連への投資が圧倒的に多かった。こうして見ると、中南米(特に ブラジル、ペルーのウェイトが大きい)では鉄・非鉄金属、繊維などの産業資本が、
北米では商業(商社)と資源開発・パルプ獲得が、中東及びオセアニアでは資源開発 がそれぞれ中心となっている。これに比べてアジアでは、鉱業が9,384万8,000ド ルで最も多く、続いて繊維の 3,216万6,000ドル、鉄・非鉄金属の2,136万1,000 ドルなどの投資が展開された(図表3-1 参照)。
図表3-2 日本の国別(ASEAN5)対外直接投資推移(1966~1971年) (単位: 100万ドル、件)
1966 1967 1968 1969 1970 1971 1965~71
件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額 件数 金額
アジア 99 28 149 93 182 78 262 197 325 167 363 237 1,441 835
ASEAN5 30 1 58 74 59 60 90 75 125 114 163 153 553 522
インドネシア ― 6 2 52 15 42 16 43 34 49 48 112 117 302 マレーシア 4 6 4 4 11 2 13 5 33 14 17 12 90 48 タイ 20 2 20 8 18 10 42 19 21 13 34 9 165 67 シンガポール 3 1 8 1 6 1 11 4 26 9 47 15 109 33 フィリピン 3 2 24 9 9 5 8 4 11 29 17 5 27 54 出所: 日本貿易振興会(ジェトロ)『海外投資白書』各年版、及び「直接投資統計」(http://jetro.go.jp)
より作成。
続いて、ASEAN への投資を見てみよう。ジェトロ資料を参考にした図表 3-2 に よると、まず、金額で見ると、1965年から1971年までのアジア向け直接投資累計 額は8億3,500万ドルで、そのうち、ASEAN5は5億2,200万ドル(62.3%)に達し た。ASEAN5 の中で、インドネシアが 3 億 2,000万ドル(ASEAN5 全体の 61.3%) で最も大きく、次いで、タイの 6,700 万ドル(同 12.8%)、フィリピンの 5,400 万ド ル(10.3%)、マレーシアの4,800万ドル(9.2%)、シンガポールの3,300万ドル(6.3%)
6 同上。
であった7。
投資件数で見てみると、1965年から1971年までの投資累計件数はアジア全体で 1,441件である。その中で、ASEAN5向けが553件で、アジア全体の38.4%を占め た。ASEAN5の中でタイのシェアが29.8%を占めており、トップである。続いてイ ン ド ネ シ ア の 21.2%(117 件)、 シ ン ガ ポ ー ル の 19.7%(109 件)、 マ レ ー シ ア の 16.2%(90件)、フィリピンの13%(72件)の順になっており、この時期にインドネシ ア、フィリピン、マレーシアへの投資は大型資源開発投資案件が代表的であるのに 対し、シンガポールとタイへの投資は、中小案件が圧倒的に多かったことが分かる8。 3.1.2 GHQによる日本企業の海外活動の許可
アジア太平洋戦争は、文字通りアジア太平洋諸国を戦場とし、これら諸国の人々 を戦争に巻き込み、夥しい死傷者と苛酷な運命を背負った人々を生み出し、国土と 経済・生活の基盤を破壊し、甚大な被害をもたらした。そして、この戦争は、日本 国民の生命・財産、及び企業の経済活動などに対して日本の歴史上最も大きな被害 をもたらした。
井村喜代子は『現代日本経済論』(2000)において、戦争被害を列挙した。太平洋 戦争における軍人・軍属の死亡 155万5,308人、負傷・行方不明 30万9,420人、
空襲・艦砲射撃などによる一般国民の死亡 29 万 9,485 人、負傷・行方不明 36 万 8,830万人に上る(沖縄を含まない)。戦争末期、沖縄では爆撃、艦砲射撃の後、米軍 上陸による熾烈な戦闘が展開し、約10万の戦死者のほか、民間人も約 10万人が死 亡、1945年6月23日守備軍全滅後、米軍に占領された。
本土でも、1945 年 8 月の広島・長崎への原爆投下によって都市が一瞬にして壊 滅し、大量な死亡者と被爆者が生じたほか、東京をはじめ、日本全国ほとんどの都 市・工場地帯に対する空襲・爆撃によって多数にのぼる非戦闘員が死亡・負傷し、
都市、住民・家財などが破壊された。戦争中すでに、原材料、生産設備の不足、消 費財・食糧の欠乏、空襲の被害によって国民生活は困窮をきわめていた。戦後、日 本の経済活動は麻痺状態に陥り、国民は大量失業、食糧難、住宅難、インフレーシ ョンのもとで、飢餓的状況にあった9。
7 日本貿易振興機構(ジェトロ)「直接投資統計」
(http://www.jetro.go.jp/world/japan/stats/fdi.html)(2015/10/1)
8 同上。
9 井村喜代子『現代日本経済論(新版)-戦後復興、「経済大国」、90年代大不況-』(有斐閣、
2000年)、p.12。
日本政府はポツダム宣言受諾(1945年8 月14日)によって、連合国に無条件降伏 し、戦争は終了したのである。これは、公式には連合国への降伏であり、連合国に よる占領であるが、日本占領の実権を握っていたのはアメリカであった。
アメリカは第二次大戦中、日本との戦争で中心的役割を果たし、沖縄戦での勝利 や原爆投下などを通じて日本敗北に対するイニシアチブを確保し、日本占領の実権 掌握を目指し、日本占領の連合国最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers: SCAP)にマッカーサー元帥を任命した。マッカーサー元帥は連合国最高司 令官であると同時に、アメリカ太平洋陸軍総司令官(1947 年、アメリカ極東軍総司 令官)であった。マッカーサー最高司令官(SCAP)のもとに設置された連合国総司令 部(General Headquarters: GHQ)が日本占領の中核機構であった10。
アメリカの初期占領政策を示した公式文書である「初期の対日方針」と「初期の 基本的指令」によれば、占領の基本課題は、ポツダム宣言に即して、第一に日本の 軍事力・軍国主義の完全破壊とその復活の阻止(非軍事化)を行うことであり、それ との関連で「民主化」を実施することである11。
初期占領政策の具体化としては、経済面では財閥解体(Dissolution)、農地改革、
労働法規の改革が実施された。特に、GHQは1945年10月中旬以降、財閥解体に 乗り出した。これによって、4 大財閥の「持株会社」である三井・安田・住友・三 菱の本社の解体が指令されるとともに、それを実施するための「持株会社整理委員 会」の設置が指令された。
井村喜代子は次のように、実施された財閥解体措置を要約した。
①まず、財閥機構の頂点をなす持株会社=財閥本社及びそれに準ずるものの解体 である。持株会社整理委員会は、「持株会社」に指定した83社のうち、三井、三菱、
住友、安田、浅野、中島、古河、大倉、鮎川(日産)、野村の 10財閥のように本社な いし本社的性格の強いもの、及び単なる持株会社、計28社を解体した。
特に、三井物産と三菱商事は「持株会社」として指定されていたが、GHQ は、
特別に商社に対し「解体」即時実施、即日取引停止、新会社設立への厳しい制限な ど、きわめて厳しい指令を出した(1947年7月3日)ため、三井物産は約170社、三 菱商事は約120社に細かく分割されたことに興味深い。
②財閥家族による財閥支配の排除である。
10『昭和財政史-終戦から講和まで-』第3巻(大蔵省財政史室編、1976年)、pp.104-111。
11 同上、pp.83-86。