• 検索結果がありません。

「現代版三位一体」説の展開

第 4 章。

第 1 節 「現代版三位一体」説の展開

第 1 項 マルクスの物神性論と「三位一体」説批判

1.商品物神 第3章で説明したように、商品経済においては、人と人との生産と消費をめぐる関

係は、商品と貨幣という物と物との関係として現象せざるをえない(物象化)。共同体におけるよ うに人々の直接的は社会的な相互援助関係が、生産手段の私的所有によって分断されているからで あった。そのために、労働生産物は必然的に商品とならざるをえない。貨幣に媒介されて商品が交 換されることによって、商品は得体のしれない価値対象性をもつようになる。すなわちマルクス は、「では、労働生産物が商品形態をとるや否や生じる労働生産物の謎的性格は、どこから來るの か?明らかに、この形態そのものからである。人間的労働の同等性は、労働生産物の同等な価値対 象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間的労働力の支出の測定は、労働生産物の 価値の大きさという形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働のあの社会的諸規定がその中で発 現する彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。」414、と叙述 している。

商品の物神的性格(物神性)の生ずる根拠は、「商品形態は、人間にたいして、人間自身の労働 の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然性として反映さ せ、それゆえまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の 社会的関係として反映させるということにある。」415。類例は宗教の世界である。そして商品を 崇拝する意識が生まれてくる(物神崇拝)。宗教の世界では、「人間の頭脳の産物が、それ自身の 生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立的姿態のように見える。

商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを、私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働 生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、それゆえ、商品生産と不可分なもの である。」416

この物神性に人々が囚われると、商品に対して特別な感情や意識を抱くようになる。商品を売っ て貨幣に換えれば自分の欲望が充たされるから、商品は他人の労働を支配する力を持っているよう に意識され、商品化できない生産は無駄だと考えるようになる。人々は生産そのものよりも商品自 体を崇拝するようになり、商品の生産に追いまくられるようになる。こうした商品世界の物象化・

物神性・物神崇拝は、現代では商品化が極地まで進んだことによってより深化しながら貫徹してい

る。 2.貨幣物神 貨幣の世界では商品の物神性は目に見えるようになり、人目を幻惑させる貨幣物神

に発展する。第3章で簡単に説明したように、商品世界が共同して一般的等価物としての貨幣を 生みだした。ところがこの過程が消え失せて、金・銀は地上に掘りだされ精錬された時から、その 自然属性が貨幣であるかのように人々には見えてくる。マルクスは貨幣物神について、「我々はこ の虚偽の外観の確立を追求した。一般的等価形態が、ある特殊な種類の商品の自然形態に癒着した とき、或いは貨幣形態に結晶したとき、この外観は完成する。他の諸商品がその価値を一商品によ って全面的に表示するので、その商品がはじめて貨幣になるのだとは見えないで、その商品が貨幣 であるからこそ、他の諸商品はその商品の価値で一般的にそれらの価値を表示するかのように見え る。媒介する運動は、それ自身の結果のうちに消失して、なんの痕跡も残さない。・・・金や銀と いうこれらの物は、地中から出てきたままで、同時に、いっさいの人間的労働の直接的化身なので

414 マルクス『資本論』第1巻第1章第4節、新日本出版社版第1分冊、123頁。

415 同上書、123頁。

416 同上書、124頁。

ある。ここから、貨幣の魔術が生じる。・・・だから、貨幣物神の謎は、目に見えるようになっ た、人目をくらますようになった商品物神のなぞにほかならない。」417、と説明している。

貨幣物神に囚われた人々は、金・銀は生まれながらに他人労働(商品)を支配する力があるかの ように意識する。そして、貨幣こそが万能であるかのような虚偽意識が支配し、人々は拝金主義に 陥る。現代の貨幣は信用貨幣である不換銀行券であるが、私的所有制のもとでの社会的分業として の商品経済の特質から生まれてくる商品・貨幣であるから、その物神性はいささかも拭い去っては いない。

3.資本物神 商品や貨幣の謎的性格(物神的性格)は、商品貨幣経済が資本の価値増殖運動に包

摂されることによって、資本の物神性へと発展していく。資本の生産過程では労働の諸力が「資本 の生産力」として把握され、労働力商品の価値たる賃金が「労働の価格」として認識され、剰余価 値が否定された。資本の流通過程では、流通過程での資本の回転運動から利潤が生みだされるかの ように見えくる。回転上の差異による流動資本と固定資本が登場し、剰余価値生産上の可変資本と 不変資本の区別が見えにくくなる。生産過程と流通過程の統一としての総過程においては、諸資本 の競争に媒介されて資本の物神化は一層進展する。

まず不変資本と可変資本の区別は消失し、利潤は投下した資本全体が生みだしたものと競争当事 者たる諸資本には意識される。競争機構でもある景気循環運動によって利潤は平均利潤に転化し、

資本は平均利潤を得る資格(能力)としての「追加的使用価値」を獲得する。資本所有者にはそれ を貸すことによって利子が発生し(利子生み資本)、借りた機能資本には企業者利得が発生する。

しかしこうした貸借関係が消失し、利潤は利子と企業者利得に分割される。さらに企業者利得は機 能資本家の「監督賃金」化する。もはや資本は、時間の経過とともに一定の果実たる利子をもたら すものと観念され、こうした観念を合理的に説明しようとする俗流経済学者が叢生した。

4.土地物神 第8章で考察したように、地代は土地が私的にかつ独占的に所有されているがゆえ

に、社会全体で生産されたサープラス(剰余価値)の一部が土地所有者に分配された。ところが、

土地そのものが地代を生みだしているかのように説明する「経済学的三位一体」範式が登場し、土 地が生みだす果実としての地代を資本還元した土地価格・土地資本という観念が生まれてきた。そ して土地が貨幣で売買されるようになるから、労働者までが「土地は自己労働によって取得した貨 幣で買った資産」と意識するようになる。利子が資本所有の果実と観念されたように、地代が土地 所有の果実として観念される。土地価格が上昇すれば「差額利得」が発生するから、人々は資産の ストックとして土地を所有し、それを投機の対象物とする土地神話(土地物神)に囚われるように なる。それが1980年代後半の日本の土地バブルや、21世紀初頭のアメリカを中心とした金融債 権の「証券化」崩壊のきっかけとなった住宅バブルであった。

5.三位一体範式の完成 かくして、以下のような三位一体説が完成する。

生産要素 所有者(階級) 収入

生産手段 資本家 利潤(利子と監督賃金)

土地 土地所有者 地代 労働 労働者 賃金

本来、生産の三要素はまったく異なる部面に所属している異なった概念である。資本は一定の社会 的・歴史的な社会構造の属する生産関係である。土地は、資本が任意に作りだすことができない自 然的豊穣度の違いによって、差額地代を生むにすぎない。労働こそ人間一般の生産活動であり、超 歴史的に不変な人間と自然との質料変換を媒介する活動である。さらに、利潤・地代・賃金は資本 主義社会という歴史的に規定された社会形態であるのに対して、生産手段・土地・労働(力)は生 産過程の質量的要素である。ところが乱暴にも3者が並列させられている。そもそも土地は使用価 値生産の要因であるが、価値などは形成しない。

ところが俗流経済学は乱暴にも、この通約できない使用価値と価値との質的な違いを無視して、

両者を同じ次元で関係づけてしまう。マルクスは俗流経済学を蔑視しながらも、次のように批判し ている。「俗流経済学は、ブルジョア的生産関係にとらわれたこの生産当事者たちの諸観念を教義 的に代弁し、体系化し、弁護する以外には、実際にはなにも行わない。したがって、まさに経済的 諸関係の疎外された現象形態、そこでは、この諸関係が“明らかに”ばかげたものであり、完全な 矛盾である現象形態―そして、もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するなら、あらゆる科学 は余計なものであろう―において、まさにそこにおいて、俗流経済学が申し分ないくつろぎを感じ るとしても、そして、この諸関係の内的連関が隠蔽されていればいるほど、しかも、この諸関係が

417 同上書、158~9頁。