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第 1 節 現代の商品経済

第 1 項 商品経済の必然性

商品の必然性は私的所有(私有財産制)のもとでの社会的分業にある。社会的分業そのものは、

南海の孤島で生活するロビンソン・クルーソー物語の世界のような自給自足の経済とは違った、中 世の荘園や現代の未発達な現地人たちの共同体社会や社会主義計画経済においても存在する。しか し生産される生産物(財)が商品となるのは、生産手段が私的に所有されているからである。私的 所有のもとでの社会的分業においては、個々の生産者はその生産物が、社会(世界)全体でどれだ け必要とされる生産物なのか、どれだけ「社会的に有用な生産物」なのかは、生産する時点におい ては知ることができない。したがって、生産に費やした(投下した)労働は、私的な労働にすぎな い。生産手段を社会的に所有する社会経済システムであれば、事前に社会の構成員たちが民主的に 協議して、必要物の量と質(社会的需要)を決めてから生産することが可能である。個々人の生産 物ははじめから「社会的生産物」であり、個々人の私的労働は「社会的労働」であることが原理的 保証されている。ところが私的所有のもとでは、この「私的労働」と「社会的労働」とは一致しな いから、生産物を市場に提供して一定の価格で貨幣と交換(販売)されなければならない。こうし てはじめて個々の生産者(商品生産者)の「私的労働」は、「社会的労働」として評価される。こ のように商品経済においては、生産物を市場に持っていかなければ、「私的生産物」を「社会的生 産物」として、いいかえれば、「私的労働」を「社会的労働」として実証できない。ここに労働生 産物が商品となる必然性がある。

新古典派経済学を主流とする近代経済学も労働生産物が商品となることを前提とはするが、生産 と消費(需要)は価格機構によって必ず自動的に調整されると説明する。しかしマルクス経済学 は、「価格による自動調整」は景気循環・恐慌という「不均衡の累積とその暴力的調整化」機構に よってしか達成することができないと考える。価格の日常的な運動は生産と消費(供給と需要)の 乖離を累積化させてしまうのである。このように資本主義経済は、景気循環・恐慌という犠牲を払 うことによってのみ社会的均衡が達成されるという限界を持つ特殊・歴史的な社会経済システムで ある。ところが近代経済学は、商品経済を永久・不変な経済システムであるかのごとく描きだすこ とによって、資本主義経済を弁護するというイデオロギー性を帯びることになる。

カール・マルクスは、商品経済の背後にある商品生産者同士の社会的関係を重視して、「人と人 との関係が物(商品)と物との関係」としてしか現れないところに(物象化の世界)、商品経済そ して資本主義システムの特殊・歴史的性格、したがって歴史的限界を見出した。私的所有のもとで 生産者自身が作りだした歴史的産物が商品であることが隠蔽され、あたかも商品が主体であるかの

228 より詳しい説明は、拙著『現代マルクス経済学』(桜井書店、2008年)第1章を参照された い。

ような幻想が生じてくる。マルクスはこの商品の謎的性格のことを、「商品の物神的性格」と規定 した。この謎的性格に囚われると、人々は商品に対して特殊な感情や心理を持つようになり、商品 化できない生産物や労働はもともと生産する意味がないと考え、商品そのものを崇拝するようにな る。マルクスはこの虚偽意識を「物神崇拝」と呼んだ。商品化がグロ-バルに進展している現代に おいては、売れるものならそれが健康や生命に危険であっても、何でも生産するといった意識(観 念)が世界中に氾濫している。しかしこうした商品経済の弊害に抵抗して、本来的な生命と健康と 環境に適した生産物を提供したり消費しようとする、生産と消費者が連帯した運動が必然的に生ま れてきている。

第 2 項 商品の二要因―使用価値と価値

1.使用価値(生産力)視点 商品は近代社会の富の細胞(「原基形態」)となり、使用価値と価

値の二要因(性格)を持つ。労働の目的が、新しい生産物をつくり人間の生活や生産に役立てるこ とであるように、生産された個々の商品は特有の役立ち(有用性)を持ち、その有用効果が使用価 値である。人間の欲望そのものは多様であり、ある意味では無限的であるから、物質的な財貨だけ でなくさまざまなサービスや空想的な幻想を満たすものでも商品となる。本来的な人間の欲望を満 たすものだけが商品となるのではなく、売れさえすればなんでも商品になり、商品生産者たちは何 でも生産し商品化することに夢中となる。潜在的な需要がなくて買う人が存在しない場合でも、現 代ではさまざまな広告・宣伝活動によって意図的に需要を喚起している。商品社会では本来的欲望 が生産者によって操作され疎外されている。新古典派経済学のミクロ理論は消費者主権を想定する が、それは実態とはかけ離れた抽象的な遊戯である。

世界的規模で多国籍企業の商品の安全性を求めて消費者運動が高まってきたが、消費者運動抜 きの消費者主権は現実には存在しない。この使用価値の視点は唯物史観での生産力次元の視点であ り、資本主義のもとでの生産力発展の社会的影響を考え場合の重要な視点でもある。独占資本主義 時代になると、独占的競争の主要な手段との一つとして製品差別化競争がおこなわれてきた。使用 価値上の機能(性能)はほとんど変わらない同一商品が、さまざまにモデル・チェンジされ、あた かも全く違った商品であるかのように購買させられている。人間の「自己顕示欲」という「差別化 意識」が、独占資本によって巧みに利用されているのである。

現代では消費生活は多様化・複雑化し、「金融派生商品」(デリバティブ)のような新たな擬 制的商品が開発されているし、バイオ・テクノロジーを駆使した多様な食料品や薬品が開発されて いる。こうした商品化の一層の発展は公害や環境危機を激化させてきたし、原子力エネルギーを商 品化する原子力の平和利用(原発)は人類全体の存続を脅かすまでになってきてしまった。さらに 現代の情報通信革命によって、情報そのものが商品化され、利潤獲得の手段となっている。

これからは、自然と共生した人間生活に必要不可欠な使用価値とか生産力の体系はいかにある べきかを真剣に考えていかなければならない。「エコロジカル社会主義」は、どのような使用価値 を生産したらよいか、そのためには開発されるべき技術選択を解決するシステムとしての社会主義 を提唱している229

2.価値(生産関係)視点 こうした使用価値が異なった商品が、貨幣を媒介として、交換されあ

う基準は何か。商品には使用価値が異なっても交換されあう共通性があるからであり、その共通物 が価値である。ウィリアム・ペティーにはじまる労働価値説はその共通物を労働に求め、マルクス はリカードの投下労働価値説を引き継いだ。限界学派からはじまる近代経済学はこの共通性を「効 用」(マルクスの使用価値)に求めた(効用価値説)。第4項で説明するように労働価値説の労働 は客観的に規定できるが、効用そのものは主観的なものであり客観的に規定できない。せいぜい、

主観的評価に依存する擬制資本の世界にあてはまる理論である230。その時代の社会の社会関係や 価値観(社会的倫理規範)によって欲望は絶えず変化するものであり、マルクスの構想した「自由 の王国」における使用価値は、アソシエイトされた構成員全体の協議によって決まり、「人間性が 全面的に開花した社会における本来的な人間の幸福・労働・生活スタイル」によって決めなければ ならない。それは金銭関係(貨幣)による「主観的評価」ではなく、アソシエイトされた構成員全 体による「社会的評価」でなければならない。そもそも効用(使用価値)の世界は人類の普遍的活

229 欧米のマルクス経済学で提起されているエコロジカル社会主義については、拙著『エコロジカ ルマルクス経済学』桜井書店、2010年、参照。

230 限界学派の効用価値説の創始者の一人であるジェボンズの対象としている世界は「金利生活 者」(証券投資家)の主観的な収益予想の理論である(野下保利「証券市場、投資家行動、そして 効用価値論―ジェヴォンズ自由資本概念の含意」『証券経済研究』第94号(2016.6)

、参照)。