第 3 章 ゲティア問題と Red Barn 問題の多領域様相論理による分析 87
4.1 命題による投射
第 4 章
結論:以上の分析の哲学史における
位置付け
あるが、ある一貫した単純な方法で、モデル化・形式化されている、と考えられるからで ある。その単純な方法とは、まずモデル論の側からいえば、次である。
(i) まず問題となる状況の構成要素となる、対象についての可能な状態の集合、つまり ここでは構成要素となる対象についてのクリプキ構造、を用意する。これら構成要 素となる対象は、一般に複数存在する。そしてこれらの対象の内には、われわれ認 識主体(認知エージェント)も含まれうる。
(ii) 問題となる状況を、これら各々の対象の可能な状態、その可能な組み合わせの総 体と考える。この各々の対象の可能な状態の、可能な組み合わせの総体、それ自 体が、一個のクリプキ構造となる。これを「コアcore」と呼ぶことにする*2。した がって、コアとなるクリプキ構造Cには、それを構成するたとえば対象A と対象 Bの、各々の可能な状態の可能な組み合わせが、すべて収納されている。
(iii) このとき、Aのある状態sがA の現実の状態であるとすれば、この状態s と組み
合わせられうる、Bの可能な状態が一般に複数存在する。これらを単純化のため有 限個とし、t1, t2, ..., tn とする。
(iv) いま、s でφ が成り立つとき、t1, t2, ..., tn のすべてで ψ が成り立つという、A の状態 sとBの状態の組み合わせに関する「制約 constraint」が与えられたしよ う*3。すると、この制約の成立自体は偶然であるかもしれないが、この制約がsと t1, t2, ..., tnの間にただ局所的に成立しているというだけで、Aの現実の状態sが 事実φであった場合に、Bの状態がψであることは、もはや偶然ではない。なぜ なら、そのときAの現実の状態sに対するBの可能な状態はt1, t2, ..., tnであり、
そのすべてでψだからである。
(v) この制約によって、対象Aの現実の状態sがφであることは、それに対する対象 Bの可˙ 能˙ な状態のすべてが˙ ψであることを含意する。このとき、s における命題 φを映写機の光源(=投射するもの)、対象Bのクリプキ構造全体をスクリーン、
その部分集合t1, t2, ..., tnを光源が照らし出すスクリーン部分、命題ψをそのスク リーン部分に映し出される映像(=投射されるもの)と考えてみることは、それほ ど不正確な比喩ではないだろう。
以上から、ここでいう「投射」のモデル論的なメカニズムは、単純にこう要約できる。
すなわち、(1)関与する対象たちの可能な状態のあらゆる可能な組み合わせを考える。(2) その可能な組み合わせには、一般に何らかの制約が存在し、それは典型的には、一方のA のある状態が φであるとき、その状態と組み合わせられうる、他方のBの可能な状態た
*2チャンネル理論(Barwise & Seligman, 1997)の用語に従う。
*3チャンネル理論(Barwise & Seligman, 1997)の用語に従う。
ちはみな、ψである、という形をとる。(3)それをAの側から見たとき、命題φが命題ψ を投射する、という現象が生じる。
さらに、MSHLの様相式は、この現象のメカニズム、モデル論的「投射」のプロセス を、推論規則の形でも記述可能にする。というのも今、上述のようにコアCが対象Aと Bの可能な状態の可能な組み合わせから成るとして、CからAへの射影をπA、CからB への射影をπBとする。すると、AからCを参照する必然性演算子が[π−A1]、さらにCを 介して、CからAを参照する必然性演算子、CからBを参照する必然性演算子が、それ ぞれ(πA), (πB)となる。このとき、Aのある状態において成り立っているAとBの間の 制約が、ゲティア問題/Red Barn問題の形式化の際に何度も使用した形、
[πA−1]((πA)φ→(πB)ψ) によって図式化できる。そしてこれから、
φ→[πA−1](πB)ψ がMSHLで演繹される。したがって、次の推論図式
[π−A1]((πA)φ→(πB)ψ)
φ→[πA−1](πB)ψ (P roj) が、MSHLで成り立つ*4。
(P roj)の前提部分[πA−1]((πA)φ →(πB)ψ)は、コアCでAの側の状態がφなら、B の側の状態がψであるという制約が、Aのある状態から見て、局所的に成立しているこ とを述べている。この前提から、(P roj)の結論部分φ→[π−A1](πB)ψは、Aの当の状態 が実際φであるなら、それと組み合わせられうるBの可˙ 能˙な状態はみな˙ ψであることを 述べている。つまりこの結論は、Aの当の状態が実際φであることが、それに対するB の可˙能˙ な状態の分布全域で˙ ψであることを、射影(projection)演算子[πA−1](πB)を介し て、文字通り投射(project)する、ということの、端的な論理学的表現となっている。
ここで、φによって投射されたψは、様相演算子[πA−1](πB)の介在によって、既にモデ ルの側だけでなく、言語の側にも明示されているように、Bの現˙ 実˙ の状態には直接言及し˙ ていない。そうではなく、それはあくまでAから見たBの可˙ 能˙ な状態たちに言及してい˙ る。このことは、『論考』3.11-3.13における「命題による投射」というプロセスの特徴づ けの、特に
3.11 我々は、命題の感覚的に知覚可能な記号 (音声記号や文字記号など) を、
*4付録A.4参照。
可˙ 能˙的˙ 事˙ 態の投射として用いる。(傍点筆者)˙
3.13 命題には、投射に属するすべてが属する。しかし、投射されたものは属さな い。
それゆえ、投射されたものの可˙能˙ 性は属するが、投射されたもの˙ そ˙ の˙も˙ のは属˙ さない。(傍点筆者)
の箇所と、少なくとも十分探究に値する形で整合すると思われる。
4.2 「写像の論理」の問いと「超越論的論理学」の問い
『論考』の「投射」概念と比較したとき、上のMSHLに形式化された限りでの「投射」
概念との間に、直ちに気付かれる相違は、後者においては、形式上直接には投射という関 係が命˙題˙ φと命˙ 題˙ ψの関係である、ということである。この、投射関係が何と何の間の 関係か、その関係のタイプに関して、前者と後者では形式上の重要な不一致がある。とい うのも、
3.12 ...命題とは、世界に対して投射関係に置かれた限りでの、命題記号である。
とあるように、ここで言われているのは、あくまで投射は「命題(記号)」と「世界」との 関係であるということあって、決して「命題」と「命題」の関係であるとは言われていな いからである。
ところでこの点に関して、『論考』の側が述べるように、「命題(記号)」が「命題(記 号)」との関係を越えて、「世界」と関係をもたなければならないのは、自明であるように 思われる。そうでなければ、「命題(記号)」の体系は、たんにわれわれの編み出した恣意 的な記号結合の体系にすぎず、空虚な形式的構造物にすぎなくなるだろうからである。し かし、われわれの言語がそのような恣意的な記号結合による形式的構造物にとどまらず、
「世界」とある関係に立つことができるのはなぜなのか。つまり、なぜそれは、意味(意義 Sinn)なるものをもつことができるのか。この問い自体は決して自明なことではない。そ してこの問いこそが、「写像の論理 der Logik der Abbildung」によってウィトゲンシュ タインが『論考』で答えようとした問いであると考えられる。
さて、この問いは、「命題(記号)」を「判断」に置き換えれば、そのままカントの超越 論的論理学の問いそのものである——-少なくともその同型性は、哲学史において最も見 過ごされるべきではない同型性である——と言ってよいと思われる。というのも、まずカ ントの超越論的論理学の問いは、次の問いに集約される。すなわち、そもそもわれわれの
「判断」が「客観的妥当性」をもつのはなぜか、である。これはしかし、より敷衍して述
べれば、次の問いになる。すなわちそれは、そもそもわれわれの思惟の主観的条件に従っ て形成される「判断」が、たんなる恣意的な表象結合に終わることなく、対象について、
当てはまる/当てはまらない、真である/偽である、などと判定できるまでの、対象との 客観的な適合性をもつことができるのはなぜか、という問いである。ここから、カントは
「超越論的論理学」と「一般論理学」との区別に注意を喚起する。つまり、後者がたんに
「思考の形式の解明」にとどまるのに対し、前者は「対˙象˙ に˙ つ˙ い˙ て˙ の思考の形式の解明」で˙ ある。
一般論理学は、...もっぱら認識相互の関係における論理的形式のみを、すなわち思 考一般の形式のみを考察する。[A55/B79]
われわれがそれによって対˙ 象˙ を完全にア・プリオリに思考するところの、純粋悟性˙ 認識および純粋理性認識の学の理念をわれわれはあらかじめ構想する。このような 認識の起源、範囲、及び客˙ 観˙ 的˙ 妥˙ 当˙性を規定するような学は、˙ 超˙ 越˙論˙ 的論理学と称˙ されねばならないであろう。[A57/B81](傍点筆者)
そして、カントによるこの区別への注意に対応するのが、『論考』の次の箇所である。
6.13 論理学は学説ではなく、世˙界˙ の鏡像である。˙
論理学は超˙ 越˙ 論˙ 的˙ transzendentalである。(強調筆者)
これは明らかにウィトゲンシュタインが、カントの超越論的論理学の構想の眼目を、極め て強く意識していることを示すものと思われる。いずれにせよ、以上の指摘だけからも、
両者の問題意識の同型性、比較を通じて、「命題による投射」という現象を考察すること の、たんなるアナクロニズム以上の重要性が予想されるだろう。