第 3 章 ゲティア問題と Red Barn 問題の多領域様相論理による分析 87
3.1.13 ゲティア問題の再解釈 I
(反例2)への外挿
これもまたスミスには知られていないことだが、ジョーンズは実は、人身売買の闇組織 のメンバーであった。ブラウンがなぜたまたまバルセロナにいたかというと、ブラウン は実は、ジョーンズの手によって、バルセロナへ売り飛ばされていたのである。そして ジョーンズは実は、犯行用の車として、フォードではなく、クライスラーを所有し、使用 していた。レンタカーのフォードは、スミスやブラウンを含む善良な一般市民の目を欺く ためであった。
ところでこの間、一方で警察は連続失踪事件の捜査の過程で、クライスラーの目撃情報 をつかんでおり、近辺にクライスラーの所有者がいないか、市民に聞き込みを続けてい た。他方、スミスは実は、ある夜、クライスラーに乗ったジョーンズによく似た男を見か けたことがあった。ところでさらに、スミスは実は、ジョーンズから今度の週末またドラ イブに誘われていた。
さて、この状況下で、スミスが警察にクライスラーの所有者が周囲にいないか聞き込み を受けた場合、もしスミスがジョーンズの情報を警察に伝˙え˙ な˙ か˙ っ˙ たならば、それは、ス˙ ミスが「普通 (f) である」と判断しただけでなく、「(f) であるは˙ず˙ だ」とまで判断した˙ たためと考えられる。つまり、そのときスミスは、ある夜クライスラーに乗ったジョー ンズによく似た男を見かけた記憶があったとしても、「ジョーンズはフォードを持ってい るは˙ずだから、 クライスラーは持っていない˙ は˙ ずだ」という常識推論を行なったと考えら˙ れる。このとき、スミスは明らかに (f) にコ˙ ミ˙ッ˙ ト˙ commit し˙ て˙ い˙る、と言えるだろう。˙ このように、ある情報に「コミット commitする」とは、さしあたって、その情報を前提 に推論するだけでなく、その情報自体やその情報の帰結に基づいて、何らかの現実的な態 度や行動をとること、と規定しよう。すると、「(f) であるは˙ ず˙ だ」の「˙ は˙ ず˙ だ」とは、こ˙ の意味での「コミットメント commitment」を表明する、自然言語におけるモダリティ表 現であると考えられる*15。
これに対し、スミスが警察に聞き込みを受けた場合に、彼が慎重に「普通 (f) である」
という判断に留まり、「(f)であるは˙ず˙ だ」という判断は差し控えたとしよう。その場合に˙ は、スミスはそれに伴い「普˙ 通˙ な˙ らジョーンズはフォードを持っている状況であるから、˙ 普˙ 通˙な˙ らジョーンズはクライスラーは持っていない状況である」という形の常識推論を行˙ うに止めるだろう。よってこの場合には、今まさに連続失踪事件の捜査で警察が聞き込 みに来るという、異常な事態がスミスの目の前で進行中なのだから、スミスは必ずしも
「ジョーンズはクライスラーは持っていないは˙ ず˙だ」として、ジョーンズがクライスラー˙
*15この「はずだ」と「コミットメント」の概念的重要性は、大西琢朗氏(京都大学)に示唆を受けた。
を持っていない状況にコミットまではしないだろう。つまり、その場合には、スミスが警 察にジョーンズ(によく似た男)の情報を伝える可能性が出てくるだろう。
以上の考察が意味しているのは、次のことであると思われる。一般にわれわれは、常識 推論を行うとき、それだけでは直ちにその帰結にコミットまではしない。あるいは少なく とも、常識推論を行うとき、われわれはそのような認識様態 epistemic mode の内に留ま ることがいつも可能である。実際、よく考えてみれば、それがわれわれの日常の大部分を 占める、われわれの「普通の認識様態」であろう。そして、われわれがそのような普通の 認識様態を抜け出し、常識推論の帰結にコミットまでするのは、通常、それに基づいてあ る現実的な態度や行動の意思決定を為さねばならない、状況に迫られた場合である。逆に 言えば、そのような状況に迫られるまでは、われわれは「普通 φだろう」(‘Normally it may be that φ’)、「普通φだと思う」(‘I think that normally φ’)、あるいは高々「普通 φであるはずだ」(‘Normally it shoud be that φ’)といった認識様態に留まっていると 思われる。
スミスにとって決定的ではない (f) と (h) を、スミスが「信じている」とはどうい うことか、という疑問に対して、筆者の見解では、ゲティア問題の定式化において、ゲ ティアは 「信じている believe」や「信念 belief」を、上記の意味での「コミットメント
commitment」を含むものとして用いており、スミスは決定的ではない(f) と(h) に、そ
れでも既˙ にコミットを開始している、とゲティアが想定していると読むのが自然である˙ と思われる。というのも、だとすれば、ゲティアが (h) を、それが偽な (f) に基づいて いることを理由にスミスの「知識」ではないと判定することの意味、またそれに伴って、
3.1.12で見た No False Core Evidence Proposal の意味が、より理解できると思われる からである。
つまり、こうである。まず3.1.12で厳密に示したように、それ自体は現実に真な (h) は、現実には偽な (f) を本質的根拠 ‘Core Evidence’ として、それに依存している。だ が、例えば上に描いた(反例2)への外挿のような状況を想定すると、この現実には偽な (f) にコミットすることによって、スミスは偶然現実に真な(h) 以外に、(f)から推論され る多くの現実に偽な帰結にコミットすることになる。この推論には演繹推論だけでなく、
常識推論も含まれ、例えば (f) からの常識推論による偽な帰結として「ジョーンズはクラ イスラーは持っていない」がある。これにコミットすることによって、スミスは警察に聞 き込みを受けた場合に、ジョーンズの情報を伝えない可能性が出てくる。そしてそのこと は、警察の捜査を少なくとも遅らせ、何より、ブラウンと同じように、スミス自身の身を 刻一刻と危うくするだろう。
より一般には、それ自体は偶然現実に真な (h) は、現実には偽な (f) に依存しており、
この現実には偽な (f) に、スミスは既にコミットを開始している。そしてこの現実には偽 な (f)に対するスミスのコミットメントは、偶然現実に真な (h) 以外の、(f) からの(再 び常識推論によるものも含む)多くの現実に偽な帰結にもまたスミスをコミットさせ、ス ミス自身に有害な影響をもたらす可能性がある。したがって、そのような (f) に依存して いる (h) は「知識」ではない。これが、ゲティア問題の第一の再解釈である。