第 3 章 ゲティア問題と Red Barn 問題の多領域様相論理による分析 87
4.3 超越論的論理学の構想における様相論理と遷移構造
4.3.1 カントにおける幾何学的モデル形成
べれば、次の問いになる。すなわちそれは、そもそもわれわれの思惟の主観的条件に従っ て形成される「判断」が、たんなる恣意的な表象結合に終わることなく、対象について、
当てはまる/当てはまらない、真である/偽である、などと判定できるまでの、対象との 客観的な適合性をもつことができるのはなぜか、という問いである。ここから、カントは
「超越論的論理学」と「一般論理学」との区別に注意を喚起する。つまり、後者がたんに
「思考の形式の解明」にとどまるのに対し、前者は「対˙象˙ に˙ つ˙ い˙ て˙ の思考の形式の解明」で˙ ある。
一般論理学は、...もっぱら認識相互の関係における論理的形式のみを、すなわち思 考一般の形式のみを考察する。[A55/B79]
われわれがそれによって対˙ 象˙ を完全にア・プリオリに思考するところの、純粋悟性˙ 認識および純粋理性認識の学の理念をわれわれはあらかじめ構想する。このような 認識の起源、範囲、及び客˙ 観˙ 的˙ 妥˙ 当˙性を規定するような学は、˙ 超˙ 越˙論˙ 的論理学と称˙ されねばならないであろう。[A57/B81](傍点筆者)
そして、カントによるこの区別への注意に対応するのが、『論考』の次の箇所である。
6.13 論理学は学説ではなく、世˙界˙ の鏡像である。˙
論理学は超˙ 越˙ 論˙ 的˙ transzendentalである。(強調筆者)
これは明らかにウィトゲンシュタインが、カントの超越論的論理学の構想の眼目を、極め て強く意識していることを示すものと思われる。いずれにせよ、以上の指摘だけからも、
両者の問題意識の同型性、比較を通じて、「命題による投射」という現象を考察すること の、たんなるアナクロニズム以上の重要性が予想されるだろう。
しかしこれだけではまだ認識にはならない。この純粋総合に統˙一を与え、かつもっ˙ ぱらこの必然的・総合的統一の表象を本質とする概念が、与えられる対象を認識 するための第三の要素をなし、かつこれは悟性に基づくものである。(強調原著)
[同上]
このように、判断(認識)の形成過程は、純粋直観の(1)多様、(2)総合、(3)統一、とい う三つの契機を含む。このうち、特に純粋直観の多様の総合を、最終的に統一(結合)す る悟性の機能が、それについて判断がなされる当の対象の客観的な統一(結合の仕方)と 対応する。そして直接には、この悟性の機能である純粋悟性概念、つまりカテゴリーによ る統一(結合の仕方)こそが、客観的妥当性、つまり対象についての適合性をもつ。おお よそ以上のようなことが、続く直後で宣言される、一方で判断の統一の機能と、他方で悟 性の統一の機能(純粋悟性概念、カテゴリー)との、対応の根拠であろう。
一˙ つ˙の˙ 判˙断˙ に˙ お˙ け˙ る種々なる表象に統一を与えるのと同じ機能が、˙ 一˙つ˙ の˙ 直˙ 観˙ に˙お˙ け˙る˙ 種々なる表象の単なる総合にも統一を与えるものであり、この機能は一般的にいえ ば、純粋悟性概念と呼ばれるのである。(強調原著)[A79/B104-105]
こうして問いは、純粋悟性概念=カテゴリーのいわゆる超越論的演繹、すなわち「判断 そのものではなく、判断形成の基礎にあるカテゴリー(量・質・関係・様相)が、なぜ客 観的妥当性をもつのか、なぜ対象について適合性をもつのか」という形に分析されること になる。さて、この問いに答えるために、カントは、判断(認識)の形成過程における、
感性的直観の多様の(2)総合と(3)統一の二つの契機、つまり、構想力による総合と、カ テゴリーによる統一、この二つの作用の連関を解明しようとしている、と考えてよいだろ う。この連関の解明のために、この二つの作用の合流域として、カントが明らかに終止依 拠しているのが、「形象的総合synthesis speciosa」である*5。
感性的直観の多様のこの総˙ 合はア・プリオリに可能であり、かつ必然的であるが、˙ この総合は形象的(形象的総合sythesis speciosa)と称することができる。(強調 原著)[B151]
この形象的総合は、悟性の影響力のもとに、明確な(bestimmte)直観を生み出す、とさ れる。
...その明確な(bestimmte)直観は、私が先に形˙象˙ 的˙総˙ 合と名づけた˙ 構˙ 想˙ 力の超越論˙ 的作用(内˙官˙ に˙対˙ す˙ る˙ 悟˙ 性˙の˙ 総˙ 合˙ 的˙ な˙ 影˙ 響˙力)によって、内官が規定(˙ Bestimmung) されることを意識してはじめて、可能なのである。(強調筆者)[B154]
*5以下の解釈は、‘Kant’s Transcendental Logic’ (Max Edwards, 2013, [22])による。
そしてこの形象的総合による「明確な(bestimmte)直観」の形成は、われわれの知覚の 中で常に行われている作用として、以下のように例示される。
このことはわれわれもまた常に自分の内に知覚していることである。われわれは 思考の中で線を引˙ い˙て(˙ ziehen)みなくては線を考えることはできず、円を描˙い˙ て˙
(beschreiben)みなくては円を考えることはできず、同一点から三直線を相互に垂
直に立˙ て(˙ setzen)なくては空間の三次元を表象することはまったくできない。(強
調原著)[B154]
直後に続けてカントは、時間の表象、継起の概念を生み出すためにも、この形象的総合が、
経由しなければならない主観の作用であることを指摘する。
時間でさえ、われわれは直線を引く(Ziehen)ことによって(直線は時間を外面的
(¨außerlich)に形象化して表象したものといえよう)、多様を総合し、それによっ
て内部感官を継時的に規定する作用に、またそれによって、内部感官におけるこ の規定の継起にもっぱら注目することによるのでなければ、われわれはこれを表 象することができない。主観の作用としての(客観の規定としてではない)運動、
したがって空間における多様の総合は、われわれが空間を捨象し、単にわれわれ が内˙ 部˙ 感˙官を内部感官の形式に従って規定する作用にのみ注目する場合に、はじめ˙ て継起の概念をさえ生み出す。(強調原著)[B154]
この引用で最初に登場する、形象的総合としての「直線を引く(Ziehen)こと」は、明ら かに「時間の直線モデル」の形成である思われる*6。さらに、カントが「家」の例によっ てカテゴリー(ここでは「量」)の経験的使用の適合性を示す場面でも、ここで「家の形
態(Gestalt)」を「描く(zeichne)」こととして経由されているのは、再び形象的総合と
*6われわれが第2章で反事実条件文のモデルとしたのは「時間の直線モデル」ではなく「時間の分岐モデ ル」であった。これは時間構造が「直線的」か「分岐的」かという点に関して、カントと本質的な対立を 含むものではない。というのも、むしろここには、逆にカントが「時間の分岐モデル」までも柔軟に包括 しうる視点が含まれていると考えられるからである。以下4.3.5で詳述するように、ここでのカントのポ イントは、「直線を引く(Ziehen)」という一˙般˙的˙手˙続˙きを強調することによって、時間表象もまた、たん˙ に空間的(外面的)形象なのではなく、その根底に構想力の「図式性」、つまり「ある概念にその形象を 得させる一˙般˙的˙手˙続˙きの表象」(˙ [A140/B179-180])をその根底に含んでいる、ということを指摘するこ とであると思われる。ところで、時間の直線モデルも、時間の分岐モデルも、遷移構造(クリプキ構造)
の特別な場合であり、4.3.5で見るように、遷移構造の「余代数coalgebra」表現は、遷移構造の空間的 形象を得るための、カントの言う一˙般˙的˙手˙続˙きの表象、と見ることができる。そしてともに遷移構造の一˙ 種として見られた場合、時間の直線モデルを作る一般的手続きは、時間の分岐モデルを作る一般的手続 きの特別な場合であるから、カントはむしろ、ここで「直線を引く(Ziehen)こと」の一˙般˙的˙手˙続˙きを˙ 強調することによって、単なる「直線」という空間的形象を描˙く˙こ˙とを超えて、より複雑な「分岐構造」˙ を描˙く˙こ˙とを自然に包括する、遥かに一般的な時間構造の˙ 描˙出˙の可能性(技術)を射程に収めることに成˙ 功している、と見ることができる。
呼ばれる作用の例であると考えられる。
したがって私が例えば家という経験的直観を、直観の多様を覚知することによって 知覚する場合、[一方で]空間と[他方で]外的感性的直観一般との必˙ 然˙ 的˙統˙ 一が私˙ の根底に存しており、私はいわば家の形態(Gestalt)を、空間における多様の総合 的統一に従って描く(zeichne)のである。しかしまさにこの総合的統一は、私が空 間の形式を捨象する場合には、悟性のうちに座を占め、直観一般における同種的な ものを総合するカテゴリー、すなわち量のカテゴリーをなすのであり、これはした がって、あの覚知の総合、すなわち知覚があくまでそれに従わねばならないところ のもの、をなすのである。(強調原著)[B162]
以上の「線」「円」「三次元ユークリッド空間」「時間の直線モデル」「家の形態」、これら はいずれもカントが形象的総合と呼ぶ作用の構成物と考えられる。Max Edwards (2013)
([22]) は、カントがこれらの事例を通じて一貫して形象的総合という作用の範例としてい
るのは、幾何学的構成geometric constructionであると指摘する。特に最後の「家」の例
は、Max Edwardsによれば、カントにおいて、幾何学的構成が覚知の総合(知覚)に対
しその抽象化・形式化の関係にあり、それに応じて、幾何学的対象geometoric objectが 経験的対象empirical objectに対しその抽象化・形式化にある、ことを示唆している。*7
さらにMax Edwardsは、カテゴリーの「演繹」の成功のために、この「幾何学的構成」
こそが中心的役割を担っていることを指摘する。この指摘のポイントは、以下である。ま ず、カントが「先験的方法論」の箇所で
哲˙ 学˙的認識は˙ 概˙ 念˙ か˙ら˙ の˙理˙ 性˙ 認˙ 識であり、数学的認識は概念の˙ 構˙成(˙ Konstruktion der Begriffe)による理性認識である。概念を構˙ 成˙ す˙ る(˙ konstruieren)とはしか し、次のことを意味する。すなわち、概念に対応する直観をア・プリオリに描き出 す(darstellen)ことである。(強調原著)[A713/B741]
と述べるように、幾何学的対象は、そのア・プリオリな構˙ 成˙ を˙ 通˙ じ˙ て、その幾何学的対象˙ についての性質を、そして概念を、獲得する。つまり、幾何学的対象の性質や概念は、発 見(discover)され、記述(describe)されるものでなく、構成(construct)されるもの である。そしてカントが先に「家」の例で
...しかしまさにこの総合的統一は、私が空間の形式を捨象する場合には、悟性の
*7ただし、ここでいう「幾何学的geometric」とは、カントの「空間の形式を捨象する」という引用を見て も、狭義のユークリッド的な意味での「幾何学性」ではなく、より普遍的・一般的な意味での「幾何学性」
を指していると考えるべきであると思われる。この点は岡本賢吾氏の指摘によるものであり、4.3.5で後 述する。