4 副次的権限の成文化と権限踰越の法理の活性化
4.1 はじめに
4.2.1 合意主導型政治の時代
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政治という特徴で言い表すことができる3。これは中央政府と地方公共団体が協働関係のも とで政策の立案と実施過程をすすめたことを指す4。
第二次世界大戦後の中央政府は集権化の推進に励んでいる。労働党政権下で生じた集権 化では、国民保健サービスや交通分野において、地方公共団体や民間が従来担ってきた各 種職務を中央政府の下部機関へと移管することがすすめられている5。
中央政府が集権化をすすめる一方で、地方公共団体は公教育や社会的住宅整備といった 社会的サービスの提供の分野で職務遂行の義務を負った6。社会的サービスの提供に関して は中央政府と地方公共団体の対立の兆しが徐々に現れる。
地方公共団体が提供する公教育について中央政府は当初介入を控えていた。第二次世界 大戦後から1951年ごろにかけて、労働党支持者が労働党政権に教育改革の推進を求め、他 方で政権は教育改革に対して幾分慎重な姿勢を示していた。
しかし、やがて労働党政権は地方教育に介入する姿勢をあからさまに示し、政権交代を 経ながら法改正を行うようになる7。1965年に教育大臣は通達10/65を発し、地方教育当局 (Local Education Authority) にグラマー・スクールから総合中等学校(Comprehensive
System)への移行を考慮するよう求めた8。その後、この通達を巡り保守党と労働党の政策
3 豊永郁子『新版 サッチャリズムの世紀――作用の政治学へ』(勁草書房、2010)44-45 頁。本節の論述は豊永の研究に大きく依拠している。
4 豊永・前掲注(3)44-54頁参照。戦後のイギリスの国家構造(constitution) については、
中央政府と政府以外の自律的な主体間に成立しうる友好的または協調的な関係を見出すコ ーポラティズムのモデルから分析される。合意の政治(consensus politics)の背景にはこ の意味のコーポラティズムが存在していた。他には中央政府と政府以外の自律的主体が共 存しているという多元主義のモデルや、相互的自律性(reciprocal autonomy)を尊重する中 央政府が地方公共団体への介入を控えるという「二重性」のモデルが存在する。
5 アンドリュー・スティーブンズ(石見豊訳)『英国の地方自治――歴史・制度・政策』(芦 書房、2011)24—25頁参照。第二次世界大戦前には地方公共団体が病院を管理していた。
労働党政権の閣僚であるベヴァンによると、国民保健サービスは中央政府が出先機関を通 して運営すべきであるとされ、私的団体や地方公共団体の運営する病院も同様に運営され るべきとされた。こうして1946年国民保健サービス法 (National Health Service Act
1946) が1948年から施行された。また、Big Fourと呼ばれる鉄道会社の国有化を進めた
1947年交通法 (Transport Act 1947) では新規に設置されたイギリス交通委員会 (British
Transport Commission) に鉄道や運河、港湾の管理をゆだねている。1949年特別道路法
(Special Roads Act 1949) では自動車道の敷設について中央政府の管轄が確認されている。
6 1948年国民扶助法 (National Assistance Act 1948) によって、地方公共団体は、社会的 サービスのいくつかの形態を引き受けるよう義務付けられた(第3部「地方当局のサービ ス」)。その後の1970年地方自治ソーシャル・サービス法(Local Authority Social Services
Act 1970) によって、地方公共団体は、当該地域でのソーシャル・サービス分野において先
導的な役割を果たすために、ソーシャル・サービス部局を設置することが求められた(2条)。 そして、地方公共団体が有していた地方の保健ケアに関する権限は、1973年国民保健サー ビス改組法 (National Health Service Reorganisation Act 1973) によって中央政府へと移 管された(2条2号)。
7 スティーブンズ(石見訳)・前掲注(5) 30—31頁参照。
8 Department of Education and Science, Circular 10/65 (1965), ‘To Local Education
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は対立する。政権交代後の保守党政権は通達10/65を1970年に廃止し、総合中等学校の導 入について地方教育当局に自由な判断を委ねた9。しかし、政権交代後の労働党政権は同通 達を1974年に有効なものとして再度扱い、さらには統合制教育の採用を拒絶した地方教育 当局に中央政府が対処すべく1976年教育法を制定した。すると、一般的に裁判所が教育行 政に関与しない傾向のなかで10、行政の裁量権統制に関わるTameside MBC事件貴族院判 例が現れる11。さらに政権交代後の保守党は1976年教育法を1979年に廃止している。
社会的住宅供給に関しては、第二次世界大戦後から1960年代末まで「住宅建設戸数を高 い水準で維持することが二大政党間の暗黙の合意事項」とされており、政党を問わず中央 政府が社会的住宅を提供することは概ね重要な政策として位置づけられていた12。
労働党と保守党の対立は、1960年代末に生じた自治体住宅 (council house) の払い下げ の争点をめぐって顕在化する13。地方公共団体はスラムを解消すべく19世紀末以来自治体 住宅払い下げを実施してきた。第二次世界大戦中と戦後の労働党政権では大臣が民間への 払い下げに関わる許可を次第に個別に下さなくなり、中央政府はやがて払い下げを認めな くなった。これに対して、続く保守党政権とその後の労働党は、大臣による個別の許可を 要しない一般的承認(general consent) 制度を導入し、住宅払い下げを積極的に推進する。
その後、労働党の政権が党大会や平議員からの圧力を受けると、1968年の通達により、地 方公共団体による払い下げ戸数の割り当てを規制した14。1960 年代末に地方議会選挙によ って労働党系の地方公共団体が保守党系の地方公共団体へと変遷すると、地方公共団体が 自治体住宅払い下げを強力に推進したため、自治体住宅払い下げに親和的とはいえない労 働党政権の中央政府と保守党系の地方公共団体の関係が悪化した。保守党系の地方公共団 体は住宅払い下げ政策を自律的に続けている。保守党政権は、その通達を1970年に撤回し、
一般的承認の制度を再び設けることのみならず、住宅払い下げに消極的な地方公共団体に 対し「買う権利 (the right to buy)」政策を前面に打ち出して、中央政府による地方公共団 体への統制を徐々に強めた。
中央政府と地方公共団体は自治体住宅の家賃政策についても対立する。1972年住宅財政
Authorities and the Governors of Direct Grant, Voluntary Aided and Special Agreement Schools’
<http://www.educationengland.org.uk/documents/des/circular10-65.html>
9 1970年に通達10/65を取り下げたサッチャー教育大臣(当時)のラジオでの発言につい
て See, Margaret Thatcher Foundation, ’Radio Interview for BBC Radio 4 Today (withdrawal of Circular 10/65)’ <http://www.margaretthatcher.org/document/101861>
10 Bernard Schwartz and H W R Wade, Legal Control of Government: Administrative Law in Britain and the United States (OUP 1972) 51. 訳書では、B・シュウォーツ、H・
W・R・ウエイド著、堤口康博訳『英米行政法――政府過程の法的コントロールに関する比 較研究』(成文堂、1976)56頁。
11 Secretary of State for Education and Science v Tameside MBC [1977] AC 1014 (HL).
12 豊永・前掲注(3)72頁参照。
13 豊永・前掲注(3)74-78頁参照。
14 Circular 42/68.
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法 (Housing Finance Act 1972) が家賃の増額に伴いカウンシルに地方税の増額を強制す ると、クレイ・クロス (Clay Cross) の地方公共団体が1972年住宅財政法の執行を拒絶す るという事件が生じた。中央政府は地方公共団体による地方税の徴収を臨時的に監督すべ く、臨時の監査役を任命した。そこで地方公共団体が中央政府の活動の適法性を司法審査 で争ったものの、控訴院では地方公共団体の訴えが認められなかった15。
もっとも、この時代において地方自治に関わる政党間の政治的対立は概して例外的であ り、社会民主主義的な合意が目指されていた。