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第 3 章 研究の結果

① 参加観察記録

男性6人部屋の入り口すぐの左側ベッドに中井さんがいる。深夜勤務の看護師の報告で は、昨夜は同室患者の一人がせん妄のため夜中ずっと騒いでおり、この部屋ではほとんど の患者が眠れなかったようだと言っていた。

金田看護師は、ベッドの周りを囲んで閉め切ってあるカーテンの中に入ると、「おはよう ございます、中井さん。担当替わります。」と、静かな調子で朝の挨拶をした。中井さんは 無精ひげを生やし、髪の毛もぼさぼさで、手術室に行く際に着用させられた術衣の前がは だけており、胸帯がむき出しになっていた。昨日、左鎖骨下の皮下にICDを埋め込んだた め、左上肢が胸帯で体幹に固定されている。ベッドの上では掛け物が乱れ、シーツも皺く ちゃになっており、中井さんの夜間の眠れなさ、寝苦しさを物語っている。金田看護師が、

「昨日はねむれました?」と穏やかに聞くと、中井さんは、不機嫌に「眠れっこねえよ。

ったく。後で後でって、ちっとも(看護師は)来やしねえしよ。」と、金田看護師の顔を横

目でにらみ見上げながら言った。金田看護師は、困ったような表情で、気の毒そうに中井 さんの顔を見つめながら、同情、同感するように、「ねえ。」とだけ言った。そして、少し の間があってから、「もうすぐ部屋、替われるようにしますから。もう少し待ってください。」 と言った。中井さんはそれには応えず、口の中で何かぶつぶつ言っている。金田看護師が、

気分を変えるかのように声の調子を明るくして、「左手、動かさないでくださいね。」と言 うと、中井さんは、金田看護師のほうを見ないまま、「昨日、だいぶ動かしちゃったよ。」 と言った。中井さんは目が鋭く、怒っているような表情だったが、それ以上怒りをぶつけ るような言動はなかった。金田看護師は黙って点滴の速度を調整してから、そっとカーテ ンの外へ出た。

金田看護師は、今日の受け持ち患者全員への挨拶を済ませると、ナースステーションに 戻った。…(略)…朝の看護師同士の情報交換の始まりである。この日は主任看護師がモ ジュールリーダーで、「じゃあ、お願いします。」と言うと、…(略)…金田看護師がメモ 用紙を見ながら言った。「中井さんは、ご立腹で。昨日うるさいしって。できるだけ部屋を 移動したいけど健忘もあるし、って感じです。レントゲンと心電図ありますが、連れてい きます」。リーダー看護師は、時々メモをしながら聞いていたが特にコメントはなかった。

金田看護師は、抗生物質の点滴を持って部屋に行った。「中井さん、抗生剤の点滴をしま すね。」と言い、ベッドの左側へ回り込むと、中井さんは黙ったまま金田看護師のほうを見 た。金田看護師は、中井さんの左前腕に固定してあるサーフロー(プラスティックカニュ ーレ型静脈内留置針)の接続部を見ながら、「お名前確認させてください。」と静かに言う と、中井さんは、「だめ。名前変わっちゃったから。」と言ったのだが、その表情は、朝の 挨拶のときとは違って穏やかで、口元には笑みを浮かべていた。金田看護師は、中井さん がおどけて冗談をいっているのだとわかったようで、にっこり笑って、「あらあ。じゃあ、

どうしましょうかあ。」と言いながら、彼の顔を覗き込んだ。そして再びその腕に目を落と すと、「中井正様。」と、明るい声になって言い、ネームバンドのバーコードを照合した。

金田看護師が、抗生物質の連結管を中井さんの点滴チューブに接続すると、中井さんは「き たきた。」と言った。金田看護師は、「きたあ?」と、そのことばに応答してから、「ここ、

痛くないですか。」と言い、点滴が落ちていくのと、サーフローから薬液が血管内に入るの とを目で追いながら聞いた。血管外への点滴漏れや発赤・腫脹はなく、中井さんは、「痛く ない。」と言った。

金田看護師が、滴下速度を調節しながら、「1 時間くらいかかります。」と言うと、中井 さんは「ここ、痒くて。掻いちゃったよ。」と言いながら、右手をパジャマのズボンの中に 入れて右臀部を掻いている。金田看護師は、滴下速度を調節し終わってから、ベッドの右 側に回り込んだ。そして「ちょっと、見せてください。」と言うと、中井さんは黙って右手

をズボンから出し、左側に体を向けた。金田看護師は、中井さんのパジャマのズボンを下 げ、臀部を覗き込んだ。中井さんの右臀部坐骨付近には、直径 8mmほどの膨隆疹が数箇 所でき、全体では直径 6cm ほどの幅、8cm ほどの長さとなっており、引っかいたような 擦過傷が数筋ついていた。金田看護師は、「あら、ひっかいちゃった? 後で先生に診ても らいましょうね。」と言い、中井さんの衣服を整えた…(略)…。

廊下を歩きながら、研究者が「ご機嫌直ったんですかね、朝は怒ってましたよね。」と言 うと、金田看護師は、「ええ。怒ってましたね。どうしようかと思っちゃったけど。少し寝 たせいか、ご機嫌直ったんですかね。」と言って、クスッと笑った。研究者が「朝とずいぶ ん違うんでびっくりしました。今、冗談をいったんですよねえ。」と言うと、金田看護師は、

「ちょっと、驚きましたね。」と、笑顔のまま言った。

金田看護師がナースステーションに入ると、反対側の入り口から男性医師が入ってきた。

すると金田看護師は、「先生、ちょうどよかった。中井さんがね、ここ(自分の右臀部を手 で示しながら)が痒いっていうんだけど、診てもらっていいですか。」と言った。その男性 医師は、「ああそう。」と言いながら、ナースステーションを横切ってそのまま廊下に出た。

金田看護師は、その後に続いて行った…(略)…。

男性医師は、中井さんの臀部を覗き込み、「ああ、テープかぶれか抗生剤かってとこだな あ。」と言いながら体を起こして、「どっちにしても、薬出しとくよ。」と言った。中井さん は、右手で点滴を指しながら、「これのせい? だって、これ昨日もやったでしょ。」と言う と、医師は、「うーん。なんとも言えないからなあ。抗生剤だとしても昨日からで。今日(痒 みの症状が)出ても時間的にはそうとも言えるし。でも一番あやしいのはテープかぶれか な、場所的にいっても。とにかく、薬出しとくから。ね。」と言うと、返事を待たずに部屋 を出て行った。中井さんは何も言わなかった。金田看護師は、黙って点滴速度を確認する と、医師を追って部屋を出た。

金田看護師は、ナースステーションに入ると、処置室の戸棚からリンデロン V 軟膏8の チューブを取り出した。それは病棟在庫薬だった。そして「指示と同じものなので。」と、

研究者に見せながら説明した。医師の処方指示は先ほど出されたようだが、まだ病棟に処 方薬は届いていないらしい。金田看護師は、「また怒るので。すぐにいかないと。」と言う と、軟膏チューブを持って中井さんの部屋に向かった。その途中で、廊下に置いてあるワ ゴンからビニール手袋を取り、中井さんのベッドのカーテンの中に入っていった。そして、

「中井さん、先生からお薬出たので、塗りましょう。」と言うと、中井さんは黙って体をよ じり、右臀部を金田看護師のほうに向けた。金田看護師はビニール手袋をはめると、中井 さんのパジャマのズボンをめくって、患部にリンデロンV軟膏を塗った。中井さんは、「オ

8 リンデロンV軟膏は、作用が強力な副腎皮質ホルモン剤。吉草酸ベタメサゾン0.12%1gを含有しており、適応は湿 疹、皮膚炎群など (高久,矢崎, 2011)。

オー」と声をあげたが、不快な様子ではなく、おどけたようだった。金田看護師は薬を皮 膚に塗りこむと、中井さんのズボンをあげて衣服を整えた。

準夜勤との交替時間が近づいてきた。金田看護師は「すみません、報告します。」と言い、

今日の日中の報告を始めた。リーダー看護師はメモを取りながら聞いている。「中井さんは 少し休めたみたいで、機嫌直ってます…(略)…お尻の痒いのは抗生剤かテープかって、

先生言ってたけど、リンデロンで軽減しています。」と言った。