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5. 小売システム国際移転の意思決定フレームワークとカルフール・ジャパンへ

5.9. 人事・労務管理

5.9.1. 現地化された人事部門

人事部門の責任者は日本人が担当した。進出当初このポジションには当時のプラン通り、

日本において人事の世界で名が通った年配者が採用された。その人物が 1 ヶ月半で辞めて しまったため、その後、1 号店オープン時に再度日本人の責任者227が採用された。このよう な経緯から、人事部門のマネジメントは早めに現地化しようとしていた姿勢がうかがえる。

なお、人事部長は月に 1 回開催される経営会議(エグゼクティブ・コミッティー:Comex)

のメンバーであった228

日本人部長の下に各店舗の人事マネジャーが属し、さらに給与福利厚生担当マネジャー、

トレーニング担当マネジャー、採用担当マネジャーが存在した。各マネジャーには、2、3 人がチームとしてついていた。

日本人部長は、人事に関する全権限を社長より委譲されており、人事制度設計を日本に 合わせて自由に行うことができた。もちろん基本的な事項、例えば会社のビジョンステー トメント(価値基準)などは、有無をいわさず導入する必要がある。それ以外のことは日 本市場に合わせたかたちで導入を図ることができた。例えば給与制度は業界他社を参考に しながら、外資系企業のため年功序列の部分を除外し、またカルフールの制度を引用し、

評価やインセンティブによる支給の割合を増やすといったことが行われた。また接客トレ ーニングなどは、日本のお客が期待する接客レベルと、他国、例えば中国のお客が期待す る接客レベルとは異なるため、日本では基本レベル以上の内容を実施していた。さらに他 国で実施した事例を共有することができたため、必要に応じて参考にしたり導入したりす ることができた。日本では特に、大きい店舗を運営するに当たってのワークシフトの作り 方229などを参考にしたという。このようなグローバルレベルでの事例共有は、年 2 回の人事 のグローバルミーティングのコミュニケーションを通じて行われた。

人事面は基本的に、現地の日本人スタッフの手で運営を行い、トップ数人のみフランス 人が残るという考え方を持っていた。したがって日本人にも役職や権限が与えられ、例え ば商品部では担当部門の販促(イベントやフェア、見せ方の工夫等)を実行に移すことが できた。しかしながら、システムの現地化やストラクチャーの変更(商品カテゴリーの修 正ではなく、商品カテゴリーごとに並べるという原則の変更)などについては、カルフー ルウェイを堅持する派遣者の姿勢と組織の体制があった。頑なに保持する部分を保ちつつ も、人材の現地化は進められ、毎年フランス人の数が削減されていた。

なおカルフールグループでは、海外派遣者の選定は志願により行われ、派遣者は海外畑 を渡り歩くことになる。実際に、日本法人の社長であったゴアハン氏やデュボア氏は中国 のカルフールに駐在経験があり、デュボア氏は日本撤退後、上海に赴任している。また、

日本撤退時にアジア地区 CEO であったフィリップ・ジャリー(Philippe Jarry)氏は、フ ランスでのエグゼクティブディレクター、フランス以外のヨーロッパのエグゼクティブデ

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ィレクター、アメリカ地域の統括ディレクターを経て就任している。しかしながら流動も 激しいようである。また社長が気に入った人材を引っ張っていき、チームのような状態で 現地法人を取り仕切るので、社長が代わるとほとんどのマネジメント層が代わってしまう という問題も見られた。

5.9.2. 英語力を重視した採用

出店準備段階では、商品部や店長候補の採用は、どちらかというと本社派遣者の言葉を 理解できる人材が集められた。業界経験者の中で英語を話せる人という数少ない人材を集 めたため、バイヤーや店長のトッププレイヤーを集められたわけではなかった。

本社派遣者は、自分のやり方でこの国を変えられるという自負を持っており、自分達が 言うことを理解してやってくれる人がいればそれで良いと考えていたという。「派遣者にと って、現地スタッフと会話が成り立つかどうかは、自信を持ってローカライズするかどう かの一つのステップになっていたようだ」と日本人の人事部長は述べている。アジア市場 を同質だと見ていたことが、この自負の一因であったといえる。他のアジア諸国と同じよ うにやれば良いという考えを持っていたため、日本市場に適応する必要性をあまり感じて いなかった。

結果として、そのような採用方針はうまく機能しなかった。そこで社長が交代した 2002 年頃から、英語力重視の方針を転換し、小売業経験者の採用を積極的に進めた。日本で通 用しているトップレベルのバイヤーは採れなくても、上位のレベルの人材を採用しようと いう方針で、主としてイトーヨーカ堂、イオンにフォーカスして採用が進められた。この 時期に採用された日本人のディビジョンマネジャーは、採用されてから半年間、朝の 7 時 半~8 時頃から副社長レベルの人物に対して、日本市場に関する情報を提供していたという。

このことは本社派遣者が、カードルと呼ばれる経済エリートであることにも関係するだ ろう。これは、医師、弁護士、エンジニアなど高度専門職に就いている人たち、企業や官 庁などの管理職・専門職を指す就業カテゴリーの一つである。2005 年の段階でフランスの 就業人口の約 15%を占め、1982 年から 2005 年までの 23 年間で 2 倍近くと、最も大きく拡 大した層である230。スーパーなど小売業は、一部のカードルと圧倒的多数の職員層(販売ア シスタント、販売作業員など)から構成されている。小売業のカードルは主として店頭で 働き、研修マネジャー(初心者研修中)、店頭マネジャー、部門マネジャー、ディレクター

(店長・地区長)に分けられる。本部の財務、マーケティング、管理等の職能は、これら のカードルが販売の職能と連結してキャリア形成させることもあるが、多くの場合、専門 の高等教育を受けた別の専門家が担う外部化の傾向にある。これは営業(店舗での販売)

という職能が最も重視されていることに起因する。カードルの採用基準学歴は、新規採用 の場合、バカロレア資格と高等教育231での修学である。したがって先のような小売業の経験 のない研修マネジャーというレベルが存在する。また、学歴がなくても内部昇進でカード ルに就く人もいる。あるスーパーの例では、カードルのうち 6~7 割が内部昇進だという232

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このような背景が営業の「専門家」233、管理のエリートという派遣者の意識を強固にしてい る可能性が指摘できる。カルフール・ジャパンのある日本人部門長は、派遣者の商売人と しての意識の高さをこう振り返る。「我々は商売人だという話はよく聞きました。いかにし て利幅の薄い中でもうけを最大にするかという気持ちは、日本のサラリーマンにはないレ ベルでした。店舗を自分で運営しているような気持ちで実行しろという社風の中で叩上げ られたフランス人は、それを体現しており、そのあたりをマネージするのは大変だったと いうのが想い出されます」。

フランス人にとって、マネジャー職は専門職であるため、小売業経験はないが管理の専 門高等教育を修了している人材をマネジャーに据えることは通常の慣行であり、違和感が ないといえる。日本では高等教育の修了者はいわゆる新人として扱われるし、始めから新 卒をマネジャー枠として採用することはほぼない。さらに、先述の人事部門の現地化にも 影響していると考えられる。営業とは別の専門職としての人事に対する認識が、早めかつ 高度な現地化につながったといえる。そして最後に、店長への権限委譲の大きさ(5.6.5 参 照)も、カードルのキャリアパスによって説明しうる。小売業の管理職・専門職としての カードルは、営業という職能が重視され、主として店舗でキャリアを積み、最終的には店 舗や地区のディレクター(指導的カードル234)を目指すのである。店長に本部と同等あるい はそれ以上の権限が委譲されるのが、当然の状況なのである。日本では、本部勤務の前に 店舗で経験を積むという傾向にあり、本部の方がより大きな権限を持っている。

5.9.3. カルフールウェイの徹底を企図した教育

当初の教育方針は、採用方針にも表れていたように、とにかく「フランス人の言うこと を聞け」というものであった。カルフールの文化を深く体得した本社派遣者が、進出先の 市場でも、カルフールウェイを貫くことが求められた。現地スタッフが本社派遣者の指示 どおりに動くことで、結果的にカルフールウェイが現地市場にも、現地スタッフにも浸透 すると考えていた。

基本的に、具体的な行動の取り方は従業員個人に委ねられているため、グローバルで利 用されている小冊子「Our Policies」235は、価値観や行動指針の大枠を示すものであった。

これが従業員に配布され、行動指針となった。例えば、この小冊子を教科書とした教育研 修が実施されたり、その内容に沿って成果目標が設定されたり、意思決定や行動の際にバ イブルのように参照されたりした。この小冊子は、進出先市場に合わせて改訂されており、

日本でも当初は英語版が配布されたが、後に日本語版が作成され、内容も大枠を逸れない 範囲で改訂された。

店舗には、日本の大手小売企業並みとはいかないまでも、マネジャーの教育、新任パー トの教育などの教育プランや、基本的な業務マニュアル236が存在した。カルフールでは、ト レーニングモジュールかつ各国の事例集のようなものが、理想像として用意されていた。

当時これらのデータはイントラネット化されておらず、CD で送られてきた237。もちろん日