第八章 日本土公信仰の現状
第三節 長崎旧唐人屋敷の土神と土公神
神社で祀られる土公神と異なり、長崎の旧唐人屋敷においては墓地に祀られる土公神が ある。それは、日本のほかの地域で見られない独特な現象であり、しかも他の東アジア諸 国でも聞いたことがない。ただし、長崎の大部分の墓では「土公神」でなく、「土神」の文 字が刻まれている。したがって、次は土神と土公神の関係から検討してみる。
土公神と土神の関係について、土神堂の相関記載から窺える。土神堂は長崎の市指定史 跡として旧唐人屋敷内に保存されている。『長崎市史年表』によると、1689(元禄2)に「唐 人某、夢中に土公神をみる。その像を唐土で刻ませ、舶載したものを唐人屋敷内の石祠に 祭る。即ち土神堂である」22
乙丑二月二日唐館に戯場ありとききて行て見る。この門の中に戯台一座を設く。
福徳正神の廟の前庭なり。
という。そうすると、土神堂は土公神を祀るために建てられた ものなので、土神はすなわち土公神であろう。ところが、土神堂で祀られた神は明らかに 土地神で、神台の下で書かれた文字も「福徳正神」である。小田直次郎も『瓊浦雑綴』に おいて、文化二年(1805)2月2日の唐館見戯について
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唐人踊は毎年春二月の初頃、唐人屋敷内の土(后)神祠(土地神)の祭の際に行 われる。大体二月二日を祭祀の日として、前後二、三日の間はこの祭礼で賑わっ た。昔は秋にも祭があったといわれる。祭祀の日は祠廟に香燭、供え物などを飾 り並べて土地神を祭り、廟の前には高大な戯(舞)台を設け、在館の唐人中の戯 劇に堪能な者たちが様々の扮装をして、笛、銅羅、拍板、囉叭、提琴、三絃など と記録している。二月二日は土地公(福徳正神)の誕生日で、中国民間においてその日を 社日として祝うのである。長崎の唐人屋敷もその風習があるようである。
22『長崎市年表』、長崎市役所、1981年、43頁。
23『長崎市史・風俗編』上、長崎市役所、1925年、446頁。
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の楽器の演奏につれて、舞台の上に出て歌舞をするのであった。24
土神堂 墓地の土神
したがって、土神堂の土神は明らかに中国の土地信仰における土地公(福徳正神)である。
しかし、中国に於いて、土公神は主に犯土に関わる土神で、土地公と微妙に異なっている。
少なくとも、中国・朝鮮半島やベトナムなどでは、墓地で土公神を土地神として祀った事 例がない。
そして、長崎の墓地を概観すれば、数えられないほど多い墓地の中で、「土公神」と書か れた石碑は極めて稀少であり、ほとんどは「土神」である。地元の人によると、それは「ど じん」、「うじがみ」、「つちがみ」などと読まれ、墓地の土地を管轄する神である。墓地の 土地神を祀る儀礼は、朱子『家礼』にも記録があり、今でも中国の多くの地方で残ってい る。その墓地土地神は一般的に「后土」と呼ばれ、東南アジアの華僑は墓の後ろで后土の 石碑を建てることが多いようである25。ただし、后土でなく土神と刻んで祀られることもあ り、広東省徐聞県五里関三園村の清・道光 8 年(1828)に修された「観海亭」という墓の 左側に「土神」と書かれた祭壇がある26。
観海亭墓の土神
24 山本紀綱『長崎唐人屋敷』謙光社、1983年、283頁。
25王琛発「南洋華人墓園的后土崇拝」(http://www.xiao-en.org/cultural/magazine.asp?cat=34
&loc=zh-cn&id=2078)
26「徐聞古墓探秘之二:観海亭」(http://zjphoto.yinsha.com/file/200505/2005052817181554.
htm)
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中国では、葬儀や墓参りの時に后土などの墓地土地神を祀る習俗があるが、墓地で土地 神の石碑を建てるのは、おおよそ風水龍脈が弱いところに土地神に鎮座させるという風水 思想に基づいたものである27。ところが、中国の風水思想は陽宅風水としての家相はある程 度受容されたが、陰宅としての墓地風水は沖縄を除いて、日本でほとんど受容されていな い28
聖福寺の墓地土公神 興福寺の墓地土公神
そのため、長崎で見られた墓地土公神は、中国の墓地土神観念に対して、日本化した土 公神の観念で受容したものだと言えよう。実は、今の長崎において、墓地で土神を建てる のは昔からの中国人の後裔だけでなく、一般の日本人もそうなっている。そして、面白い のは、「土公神」と刻まれた墓を建てたのはそもそも長崎の出身でなく、熊本県から転居し てきた人である。聖福寺の後山墓地で発見された土公神の墓に、次のような墓誌が書いて いる。
(正面)熊本江藤 家之墓
。しかし、長崎の事例からみれば、唐人屋敷は江戸時代の唐人商人などの住居地として、
中国の風水観念をもそのままもたらしたとわかる。長崎に移民したのは、福建や広東省の 人が多かった。土神堂のほかに、関帝廟・観音廟・天妃廟などがあり、いずれも中国明清 時代ごろから盛んになった民間信仰であり、しかも中国の東南沿海地域特に福建と深く関 わっている。現在の福建や広東省にも、風水思想に基づいて墓で「土地之神」あるいは「后 土」や「土神」が建てられる習俗があるようである。したがって、長崎の墓地土神の風習 は間違いなく、福建などの地域から伝来したものである。
27陳進国が福建省の恵安県山霞鎮と張阪鎮で当地の風水師に聞き取り調査して、「金水墓」とい う型の墓の前庭部分が、「墓碑、墓耳、供 桌、文筆柱、印斗柱、青龍柱、角櫳、石砛、坍池、池 坪」などの部分からなり、墓の後案は「墓龜、墓圈、后土神座」などからなると紹介した。同氏 の『信仰・儀式与郷土社会――風水的歴史人類学探索』(中国社会学出版社、2005年)の第二章
「境騰地龍:風水流派及其在地化的文化表述」を参考。
28 日本近世の風水の受容について、主に宮内貴久の『家相の民俗学』(吉川弘文館、2006年)が
挙げられる。
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(側面)故陸軍兵長熊本正、昭和十九年三月三十日□□戦死
実は、その石碑の形状を見ても、周りの「土神」石神とはっきり異なっている。おそらく、
この外地から来た人の親族にとって、土神というより、土公神のほうがよく馴染みのある 土地神であるので、わざと「土公神」と刻んだと憶測する。
以上のように、日本現在の土公信仰を概観してきた。簡単にまとめれば、本来の陰陽道 的な土公信仰はほぼ無くなった、あるいは消滅しつつある。わずかに岡山県の村落でまだ 土公神を祀る民俗が残っている。一方、石神として存続している土公神は、神道の猿田彦 と習合の関係があり、そして土地神と見做されている。長崎における墓地の土公神は、こ の日本の土公神観念で新しく伝来した土神観念を受容したものである。
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終章
―結論と今後の展望―
これまで、東アジアにおける土公信仰を全般的に考察してきた。日本の土公信仰は東ア ジア諸国と同じ起源を持ちながら、異なる受容と変容の過程を経たことが確認された。本 章は前八章を踏まえて東アジア諸国における土公信仰を比較しながら、その異同の歴史原 因を確認して結論をまとめたい。それから、土公信仰に関する文化交渉の研究によって窺 えた東アジア宗教文化の共通基盤を指摘し、今後の研究の展望を述べて終わりたい。