第八章 日本土公信仰の現状
第二節 石神における土公神・天下土公
竈といういつの間にか消失していく場所と異なり、土公神は神名を石というより堅牢な ところに刻まれて崇め祀られることがある。三重県の椿大神社は、猿田彦の総本社と称さ れ、その境内に土公神陵がある。そして、そのホームページ14
稲荷志料と申す現代の書には、諸種の材料を引証して土祖神の猿田彦神なること を論じ候、此説は平田氏もすでに唱へられ候にや、神道五部書などを見れば二神 同じとはみえず候へども、土祖と云ひ土公と云ひ又地主と云ふ語は、共に此等の 書にて盛に説き立てしと覚しく、道教の感化の下に起りし神号なることは争ふべ からず候。
では「大神はその広大無辺の 御神徳に因んで亦の御名を「大行事権現」「衢の神」「土公神」「佐田彦大神」「千勝大神」「精 大明神」「塞神」「岐神」「大地主神」「白髭大明神」「供進の神」「山の神、庚神様」「道別大 明神」「椿大明神」と称え奉られております」と記され、土公神陵はすなわち猿田彦の墓陵 という。その当否はさておき、石神における土公神の神格に複雑な習合関係が潜んでいる のは事実である。実は早くも百年前に柳田国男がすでに『石神問答』で石神をめぐって大 将軍・土祖神・猿田彦・庚申などの習合関係について問題提起をした。
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椿大神社の土公神陵
つまり、神道五部書などの書籍に於いて、土祖・猿田彦神・土公・地主などの神名が盛ん に挙げられ、その中で相互に習合した可能性があるという。ただし、神道五部書をよく検 索すれば、土祖や猿田彦などの神々は確かによく現れているが、土公の神名はどこにも見 られない。それはともなく、土公は稲荷神社や猿田彦及び土祖などと深く関わるのは確か である。次に土公神と稲荷神社及び猿田彦との関係を検討していく。
14 椿大神社トップページ>由緒>猿田彦大神の御神徳http://www.tsubaki.or.jp/yuisyo/
15 柳田国男『石神問答』創元社、1941年、215頁。
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石神の土公神は椿大神社の他に東京にも二ヶ所があり、多摩市の白山神社と江東区東砂 の陶首稲荷神社に祀られている。白山の土公神は神社の後ろの平地で立てられ、紹介の文 字がない。陶首稲荷神社は小さな神社であり、小祠の右に土公神の板碑が立てている。
白山神社の土公神 陶首稲荷神社の土公神
ちなみに、陶首土公神の板碑の右に、また「青面金剛」と道祖神の板碑がある。神社の前 にある石板に社記が刻まれている。
元ノ尊像ハ寛永三年ノ安□係者也。然ルニ安政三年ノ大海嘯、明治四十三年ノ大 洪水、大正六年の風水害、同十二年ノ大震災等、幾多ノ地変ニ遭遇シ、大破スル ニ至ナリ、依テ今回町有志浄財ノ寄進ニ依リ再建スル者也
昭和八年六月吉辰 氏子中
昭和二十□年三月十日大東亜戦争ニ依リ当神社焼失シ、昭和二十六年九月之□再 建ス
当社の稲荷神の神像はそもそも寛永三年(1626)のものだったが、いろいろな遭遇があり、
昭和26年(1951)に再建されたものという。土公神の板碑もそれほど古いものでなさそう である。板碑の背面に
□和二十八年十一□□□□
丸山儀八郎建之
の文字が刻まれている。おそらく、昭和28年(1953)に建てられたことをいっているのだ ろう。ところが、それらの記録だけで、土公神がなぜここで立てられるのかは分からない。
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しかし、はるかに離れている秋田県北秋田市の旧阿仁村に、「天下土公」との文字が刻まれ た板碑が残っている。旧阿仁村は、大変辺鄙な山村であり、なぜ「天下土公」の板碑があ るのか、不思議であろう。実は、地元の人に聞いてもその神の正体を知らないようである。
興味深いのは、「天下土公」板碑の傍にも青面金剛の像が立てられ、陶首稲荷神社とほぼ同 じ構造をしている。ちなみに、ここで今や役所と異人館の間にある廃置の地として幾つか の神々の板碑しか残っていないが、かつては金毘羅の神祠であったようである。神仏習合 が濃かった場所と言えよう。それに立てられている青面金剛は庚申様とも言われ、また猿 田彦とも見做される16
北秋田市阿仁村の「天下土公」
。また、注意すべきなのは陶首稲荷神社の青面金剛の右にまた道祖神 の板碑があり、道祖神はよく土祖及び猿田彦と見做されている。したがって、土公神や天 下土公は何かの理由で神道の猿田彦などの神々と習合したことが想定される。
土公と猿田彦との交渉は平安時代にすでにあったかもしれない。猿田彦は記紀神話で天 孫ホノニニギが降臨の時に天之八衢に立って迎えや道案内の役割を果たした神であり、天 孫一行を日向の高千穂に案内してから、天鈿女と夫婦にして一緒に伊勢に行って鎮座した。
そして、天鈿女を奉仕するのは『古事記』の編者稗田阿礼の祖とも言われた猿女であるよ うに、猿田彦を奉仕するのも大和朝廷と何か関係のある宇治土公氏である。『小右記』には
「初叙玉串大内人宇治土公、内宮十一人・外宮十一人」との記載があり17
16 庚申と青面金剛及び猿田彦との習合についていろいろな説がある。大体として、庚申はそも
そも古代中国道教における三尸であり、人の体内に生きて死を促すものであり、仏教の青面金剛 ともされたことがある。三尸は庚申の日にであるので、庚申で三尸を指すようになり、また「申」
は猿であるためか、日本で三尸は三の猿とされている。猿田彦は名称にも「猿」が付いているよ うに、猿と深く関わっている。こように、庚申・青面金剛と猿田彦が習合された。
17「初叙玉串大内人宇治土公、内宮十一人・外宮十一人」(藤原実資『小右記』巻四、225頁(『大 日本古記録』東京大学史料編纂所編纂、岩波書店、1959年))。
、宇治土公の名は 少なくとも平安中期にすでに現れたとわかる。ここですぐ気が付いたのはいうまでもなく
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宇治土公の名字にある土公であろう。この土公はただ偶然に当てられたものか、今のとこ ろにすでに証明できない。ところが、土公信仰が盛行していた平安時代において、土地に 鎮座している猿田彦を奉仕する氏族にとって、社会における土公の観念は猿田彦の神格に ふさわしくてそれによって触発されて土公を土地神として自分の名前にしても可能であろ う。古代の名字は実際の意味を持つのが多く、「宇治土公」もそもそも「氏・土公」で、す なわち土地神の氏族とされる可能性もあるだろう。それはともかく、旧阿仁村の「天下土 公」はおそらくこの土公及び猿田彦と深く関わっていると思われる。猿田彦は、衢神と呼 ばれたようにそもそも道路神で境界神である18。境界神の神格から、土地神として変容され てきたと思われる。伊勢神道において重要な経典とされた『神道五部書』において、猿田 彦は明らかに地主、土祖とされている。たとえば、『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』に「以前、
大田命<宇治土公玉串大内人祖神也>、皇太神御鎮座之時参相、狭長田ノ御刀田奉テ、即 地主ト為テ奉仕」19
吾是天下之土君也。故号国底立神也。吾是応時従機、化生出現之故、号気神…
と記し、大田命は即ち猿田彦で、地主である。したがって、猿田彦は土 地神の土公神とされても差し支えないだろう。ただし、「天下土公」は神格が一層高まった ようである。『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』の初頭に、根源神としての国底立神について、
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との神宣を書いている。土公は「つちぎみ」と読まれることもあるので、「土君」と通じる だろう。国底立神は天下の土地の神で、根源的な神である。そして、その神宣は猿田彦神 が下したものとされている。猿田彦神は中世から神格が上昇し、よく尊崇されてきた。特 に近世における山崎闇斎の垂加神道において猿田彦神は天照大神と共に尊崇されていた 21
以上のように、石神における土公神・天下土公はまず土地神の神格を持ち、そして猿田 彦と関係がある。ただし、このような土公神は陰陽道における土公神とすでに異なり、完
。 したがって、猿田彦神は「天下之土君」として「土公神」と習合する可能性が高いと考え られる。
18 柴田実「猿田彦考」(『日本庶民信仰史』、法蔵館、1984年、128~142頁)を参考。ちなみに、
拙著「境界神としてのサルタヒコ」(『東アジア文化交渉研究』5、103~113頁)をも参照。
19『神道体系 論説編五 伊勢神道(上)』精興社、1993年、25頁。
20 同上、12頁。
21 山崎闇斎は『風水草』上において神道の地鎮祭などを述べる時に「如大土公神祭儀」と述べており、土
公神のことをよく知っていた。また、『神代記垂加翁講義』神代巻記録二に「国常立尊・天照太神・猿田彦 太神、御三神ハ、ツント御徳義御一体ゾ」と述べ、『垂加翁神説』に「庚申ノ伝ハ猿田彦太神ヲ祭ル事ナリ」
と記している。『神道体系 論説編十二 垂加神道』(精興社、1984年)を参考。