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死後世界における土公

ドキュメント内 東アジアにおける土公信仰と文化交渉 (ページ 38-44)

第二章 土公信仰の展開――六朝時代から宋代まで

第一節 死後世界における土公

とあり、犯土で病気になったのが土公という土神を犯したためだという観念は俗間でも知 られたようである。ここでの土公は巫覡らが唱えた神煞的な禁忌 というより、むしろ民俗 的に知られている土神である。そして、六朝時代に入ると、土公にはより多岐的な神格が 付会されるようになる。

六朝時代は、中国史において比較的長く続く動乱の時期で、宗教史において画期的な時 代でもある。漢代ごろに伝来した仏教が在来の宗教観念と交渉しながら土着化しつつある 一方、その影響を受けて、神仙思想・讖緯思想・巫術信仰及び陰陽五行説を理論基礎とす る術数思想などを土台として形成された道教も、この時代において体系化されるようにな った。また、漢民族の文化は「五胡乱華」の歴史背景において北方からの少数民族の文化 とぶつけたり融合したりする時期でもあり、また晋朝廷が南方に遷移するにつれて、中原 地域を中心とする漢民族の文化が呉越・南越の文化と融合する時期でもある。大動乱の六 朝時代は戦争だけでなく、また疫病が頻発して数多くの死者が発生し、一層乱世の悲惨さ を強めた。土公はこのような複雑な時期において、地下土地神・星神・疫鬼など多様な神 格が分化していくようになる。本章では宋代までの土公信仰の変遷を考察する。

埋葬の風習は固有のものでなく、棺槨を以て葬儀をするのは春秋時代あるいはすこし遅

1『太平御覧』巻三十七(商務印書館、1936)。

32 れた戦国時代からの観念である2

買地券は、本来土地に関する売買の契約書であったが、漢代、特に後漢時代から、神か ら墓地を買うという宗教的なものになった

。葬儀の変遷は死後世界に対する観念の変容を促し、特に 霊魂観念の発展に伴い、秦始皇帝の巨大陵墓が建てられたように、墳墓が重視されてきた。

墳墓は死後の生活空間と考えられたゆえに、生前のものをできるだけ地下世界にも持って いけるように厚葬が流行した。厚葬で盗墓や貧窮などの社会問題が頻発したために漢代か らすでに薄葬を提唱されてきたが、実際には効果が少なかった。このような葬儀を重視す る死後世界観の産物として、漢代から買地券や鎮墓文などの地下文書が現れた。そして、

土公はこれらの買地券で現れた地下鬼神の一つである。

3。買地券の内容は一定の形式があり、基本とし て契約の時間・死者の名前を挙げ、地下の神々に天神から土地を買い、地神から陰宅を購 入したことを告げ、また宅の四方境界線を決めてから契約書を守るべき語で結語する。天 神は東王父・西王母・皇天などがあり、地神は后土・土神・地下二千石・土伯・土公など が挙げられる。ところが、前章で考察したように、土公はそもそも土忌で忌避されていた 土神であった。そこで、土公はどのようにして地下世界の土地神になったのか。原田正己 は土公を土伯と同一のものとし、また漢代の謝土風俗を参照して「墓地を造る折にもこの ような「解土」が行われたかと思えるので、墓券に土公から墓地を買うとあるのも、この ことと関係があるように推測される」4と述べた。しかし、墓地を造る時に解土の儀式を行 われたことがあっても、それは直接に墓地を買うことと関係づけると思われない。そして、

土公は犯土の神煞として解除されたものであり、一般の土地神とかなり異なっている。し たがって、土公は墓の土地神とされたことが少ないと思われる5

2『周易』に「古の葬る者は、厚く之に衣するに薪を以てし、之を中野に葬り、封ぜず樹せず、

喪期数無し。後世の聖人之を易うるに棺槨を以てするは、蓋し諸を大過に取る」という記載があ る。

3 買地券について、日本の学者はよく「墓券」と称している。ただし、それはふつうの土地売買

契約書から変形してきたのは間違いない。明代の時に既に買地券が発見され、徐文長が自分の絵 でそれを換えてき、自分の文集に収録した。近代は主に羅振玉が民間の買地券を収集し、『雪堂 叢刻』に収録した。それ以来、中外に多くの研究があり、買地券の収録として、主に張伝璽が編 集した『中国歴代契約会編考釈』上・下(北京大学出版、1995年)、池田温の「中国歴代墓券略 考」と黄景春の博士論文『早期買地券、鎮墓文整理与研究』(華東師範大学2004年博士論文)が 挙げられる。

4 原田正己「民俗資料としての墓券」(『フィロソフィア』(45)、1963年)、17頁。

5 今までの研究で、買地券などを検討するときに、いつも土公を主な地下世界における土地神と

して挙げているが、事実とは言えない。

。少なくとも、今まで発見 された百点ぐらいの買地券の中に、土公が登場したものは五点しかない。ちなみに、原田 正己が土公を土伯と同一のものと判断する理由はおそらく「土公は晋咸康四年の朱曼妻薜

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買地券にみられ」という根拠にあるが、以下のように、実は朱曼妻薜買地券で挙げられた 土地神は土公でなく、土伯である。

晋咸康三年二月壬子朔乙卯、呉故舎人立節都尉晋陵丹徒朱曼故妻薜、従天買地、

従地買宅、東極甲乙、南極丙丁、西極庚辛、北極壬癸、中極戊己、上極天、下極 泉。直銭二百万、即日交畢。有誌薜地、当詢天帝。有誌薜宅、当詢土伯。任知者 東王公、西王母。如天帝律令6

神鳳元年壬申三月六日孫鼎作莂(背面)

ただし、原田正己の土公と土伯及び解土との関係についての指摘は、確かに示唆に富んで いる。特に、土公は確かに買地券で土地神とされたことがあるので、買地券における土公 の神格や土伯との関係を考察する必要がある。

買地券の中で土公関係のものが合計五点あるが、三点は三世紀のもので、二点は十と十 一世紀のものである。三世紀の三点の買地券は次の通りである。

①会稽亭侯並領銭唐水軍緩遠将軍、従土公買冡域一丘、東南極鳳凰山巔、西極湖、

北極山尽、直銭八百万、即日交畢。日月為証、四時為任。有私約者、当律令。大 呉神鳳元年壬申三月、破莂大吉。(正面)

7

②呉永安五年辛丑朔十二日壬子、丹楊石城都郷□□校尉彭盧、年五十九、寄居沙 羨県界□□物故。今歳吉良、宿得天食、可以建□、造作無坊。謹請東陵、西陵、

墓伯、丘丞、南陌、北陌、地下二千石□□土公神□。今造百世□冢、□□丘父土 王、買地縦横三千歩、東西南北、□界示得、価銭万千。□□日畢。諸神不得抵道。

如□□地、当得□豆□、当桃巻複尭、□□□□□□□□□□神示□□春得。知者 東王公、西王母。如律令8

③大男楊紹、従土公買冢地一丘、東極闞澤、西極黄滕、南極山背、北極於湖、直

6 張伝璽編、『中国歴代契約会編考釈』上(前掲)、114頁。

7 張伝璽がこれを疑偽の買地券としたが、池田温が真のものとし、かつ現物の写真も付いている

ので、真のものと思われる。

8 張伝璽編、『中国歴代契約会編考釈』上(前掲)、108頁。

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銭四百万、即日交畢。日月為証、四時為任。大康五年九月廿九日、対共破莂民、

有私約如律令9

①は浙江省の紹興で出土した神鳳元年(252)のもので、②は湖北省の武漢で出土した永安 五年(262)のもので、③は浙江省の杭県で出土した大康五年(284)のものである。①と

③は三十年ぐらいの年代差があるが、出土場所と文書形式・内容が極相似するので、同じ 形式の見本が存在していたことが推測できる。また、この形式と類似するのは、同じ浙江 省の紹興から出土した漢建寧元年(168)のものが九点ある

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兄弟九人の買地券であり、他の八人の買地券もほぼ同じものなので、ここで一つだけを掲 げる。この後漢時代に作られた買地券は、前掲の①と③と明らかに同じような格式を持っ ているであろう。そして、これらの買地券は全部呉国の地域で発見されたものであり、土 公と呉国との緊密性を仄めかした。②は湖北で出土したものであるが、「呉永安五年」とい う年号からも、呉国の範疇にあるものと分かる。また前掲の三国・呉の裴玄『新言』にお ける土公関係の記事を関連で考えれば、土公は少なくとも呉国で広く知られていた土神だ と言えるであろう。ただし、土公は本来呉国地域の土神で他の地域に伝わったのかどうか、

明らかでない。ところが、『新言』の記事をよく吟味すると、それは在来のものでなさそう である。裴玄は女孫の病因について占い師から土公の祟りだと聞いてから、はじめて世間 に土公という土神を知ったという。占い師は、普通の巫覡や早期の道士で、三国時代には 各地で活躍した宗教者だともいえる。そして、「俗間に土公の神が有り、土を動かしていけ ないと云う」という表現を逆転的に考えれば、世間に土公という土神を犯していけないと いう観念は、そもそもあまり知られていないからこそ、玄の女孫が病気になったことをき っかけとして、はじめて「事件」として記された。また、「それではじめて天下に土神が有 るのを知った」という表現は、「土神」が周知の概念で、「土公」を新たに解釈するものと

建寧元年二月、五風里番延寿墓莂兄弟九人、従山公買山一丘。於五風里葬父馬衛 将。直銭六十万、即日交畢。分過券台莂、大吉立石。建寧元年二月朔。有私約者 当律令。

9 張伝璽編、『中国歴代契約会編考釈』上(前掲)、110頁。

10 池田温「中国歴代墓券略考」(『東洋文化研究所紀要』(86)、1981年11月)217~219頁。

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