第八章 日本土公信仰の現状
第一節 竈神の土公神
日本における土公信仰の歴史から見れば、民俗生活と最も密接な関係を持っていたのは、
暦における方忌の土公神、地鎮祭の土公神、竈に祀られる土公神、それから民間神楽の王 子舞や家祭りの弓神楽であろう。ところが、近代以来、西洋文明の導入とその絶大な影響 を受けて、日本人の民俗景観が著しく変わってきた。まず、千年以上使われた旧暦が廃止 され、西洋の暦が使われるようになった。それで、祝日も西洋の暦に従って行われるだけ でなく、大雑暦を代表とする各種の吉凶択日などを記した禁忌も庶民の生活から離れてい った。さらに暦に記された土公神の禁忌も当然ながら知られなくなってきた 1
1 陰陽道系の各種の神煞を記した暦が完全に消えたわけではない。有名なのは高島本暦は今でも
発行されている。たとえば、2009年の『平成二十一年高島本暦』(高島大鳳著、神栄館、4頁)
において土公神の項目があり、「土公神は土を守護する神なれば犯さぬよう注意して慎むべし。
春は竈にあり。竈の改築は凶。夏は門戸にあり。門戸の改築には凶なり。秋は井戸にあり。井戸 掘りや井戸浚いは凶なり。冬は庭にあり。故に庭の普請は凶なり」と書いている。ただし、この ような暦は現在の日本人社会であまり重要視されていないだろう。
。それから、
万歳師・唱門師や民間陰陽師などの各地を流浪して芸能祭祀や吉凶を唱えた差別民の民間 宗教者は、近代以来漸次普通民として社会で定着するようになった。五王子土公神の物語 を説いた三奥河の花祭りや中国地方の民間神楽祭祀もそれで滅亡の運命を瀕しつつある。
陰陽師や密教僧によって行われた地鎮祭は、儀式として主に神職によって行われるように なり、儀式の対象とする土公の名称が知られなくなってきた。したがって、古来の土公信
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仰において民俗生活で存続しているのは、おそらく民家の竈に祀られる土公神しかないだ ろう。
土公は本来土に関係する神であったが、西日本では、竈に祀られた荒神と習合して竈神 と見做された。ただし、荒神を竈神とするのは、主に西日本なので、竈神とされる土公神 も主に西日本にあり、現在の民俗調査によれば主に岡山県に残っている。『岡山県史』によ れば、「火所の神は、便宜的にカマド神と総称されているが、これにもっとも近いオカマさ んという言葉は、真庭郡新庄村と新見市の北辺で知られているにすぎず、そのほかでは、
オドクウ・ドックウ・オロックウ・オドック・ロックウ・ロックジンなどと呼ばれるのが 県下全域にわたって一般的であ」2
土公神は基本的に固定の場所で祀られている。『長船町史』民俗篇に「県中北部ではロッ クウさんとよばれている。県南でも金光町辺りでは少しアクセントが違いオドックウさん である(中略)オドクウ様は十八軒の家でみることができるが、祀る場所はニワの奥が一 番多い。かつてはクドの近くに祀ってあったものが、クドがなくなってもそのままそこに 残っている場合と、新しく作った流し台の近くに祀りなおしている場合とあるが、前者の 方が多い」
る。次に、地方誌によって竈神の土公神信仰のありさま を概観してみる。
3と述べられたように、土公神は昔から竈の神としてクドという場所の近くに祀 られている。ただし、地域によって、土公神の神棚場所がすこし異なっている。基本的に は、ニワ(土間)の奥にあるクド(火所・竈)の上の柱に棚を設けて小宮を置いて祀られ るが、ニワ奥の天井や梁から吊り下げた南向きの箱で祀られるところもある(写真A)4。そ の他に、岡山県苫田郡上斎原村の場合は、囲炉裏の間に神棚を作り、また囲炉裏その自体 を土公神の居場所としているが、囲炉裏がなくなった今では祀られなくなっている5。この 土公神は火の神、竈の神、家の神、牛馬の神、作物の神、土地の神などの多様な神格と見 做されているが、農業生活と関係深い神と言える。だから、金光町に秋の社日に初穂を土 公神に供えて豊作を感謝する事例と報告されている6。また、地方によって土公神の祭日や 祭祀執行者も異なっている。たとえば、北房町の能宮(写真B)では「昔は旧六月と十月の 二回、部落の小宮やロック様に宮司を頼んで幣を切ってもら」7
2『岡山県史』第十五巻・民俗Ⅰ、山陽新聞社、1983年、494頁。
3『長船町史』民俗篇、長船町、1995年、116~117頁。
4『金光町史』民俗篇、金光町、1998年、102頁。
5『上斎原村史』民俗篇、上斎原村、1994年、983頁。
6『金光町史』民俗篇、金光町、1998年、532頁。
7『北房町史』民俗篇、北房町、1983年、360~361頁。
った。鏡野町では「正月に
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神主を招いて白米一升を供え火除け・家内安全を祈願す」8る。一方、金光町のように「年 末にオッドクウさんを拝みにくる坊さんが角大師の札も降るので、それをニワンクチの板 壁やオドックウさんの近くに貼り付けて魔除けとする」9
写真A南向きに吊り下げられたオドックウさん 写真B北房町のロックゥ様
ところもある。ただし、仏教系で 土公神を普賢様と称している。つまり、土公神は民間信仰の神として仏教か神道の神と特 定されていない。そして、土公神は神格がかならず明確に知られて祀られたのでなく、む かしから竈の近くで祀られるので、風俗の因習踏襲でそれを祀っただけの場合が多い。
もちろん、岡山県をおいて土公神を火の神か竈神とした地域もある。小野重朗が、九州 南島の火の神について「時にドッドン(土公殿、土公神)ともよび、これは火の神といっ た抽象化したものではない」10
兵庫県佐用郡西庄村で竈の上に祀るオドクジンサンンは、田を見廻っておられる 神といい、ワサウエの日には歳桶の米で作った五目飯を供えて特別のお祭をし、
サナボリの日には、苗をお供えするという。また美作国ではDとR音の混同でロッ クサンというが、これは作神様で作物をぐるぐる見廻っておられると伝える。先 の白石島では、十二月一日の師走入りには百姓が家々の土公神を祭るが、本当の 祭は亥子に行なっていて、壱岐の荒神祭と同じ習俗を伝えており、土公神が火の
と述べた。日本民俗における竈神信仰を詳細に考察した郷田 洋文は
8『鏡野町史』民俗篇、鏡野町、1993年、86頁。また、三村宜敬の調査によると、近くの2010 年に鏡野町真経地区で依然として正月にタユウさんを招いて台所の小祠(神棚)における土公神 を祀る習俗がある(三村宜敬「岡山県のオドクウ様に関する調査・研究―岡山市東区上道北方・
鏡野町真経の事例を中心に―」(『年報非文字資料研究』、神奈川大学日本常民文化研究所非文字 資料研究センター、2010年3月)187頁)。
9『金光町史』民俗篇、金光町、1998年、102頁。
10 小野重朗『民俗神の系譜―南九州を中心に―』法政大学出版局、1981年、120頁。
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神としての竈の神と、農作神との複合性を持っていることを示している。(中略)
京都四周の農村や、美濃国に至るまで竈をロクダイといっているのは、土公神の 影響と思われるが、これは土公神を祀る祭壇という意に解されている。11
ちなみに、土公神と荒神の習合は、共に竈神と見做されるということだけでなく、発音 による混淆も見られる。日本の荒神信仰の由来は頗る複雑で、記紀神話にすでに荒魂の記 載があり、その他に中国の仏経典籍にも荒神の名が見られる
と述べ、中国地方・兵庫県・美作国・美濃国などのより広い地域における土公神信仰の存 在や土公呼称の訛り方を述べた。
しかし、民俗で信仰された土公神は、すでに陰陽道で説かれた四季に遊行をする方角禁 忌の神と異なり、農業神や土地神などの性格を有している。つまり、民俗に於いて土公神 はその正体がすでに不明確であり、ただ習俗として伝承してきた。そして、信仰の主な拠 り所は竈という固定の祭祀の場所であったと思われる。ところが、近代化の生活様式に入 ってから、伝統の竈はガスなどに取って代わられて無くなってきた。したがって、竈に祀 られる土公神もいつの間にか生活の場から消えていったと考えられる。
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土荒神も。ふして。まします。所は。春は釜。夏は。門。秋は。井戸。冬は。庭 に。こそ。こそ。土荒神も。ふして。まします。
。それはともかく、中世以降、
日本では独特な荒神信仰が盛んになってきた。それで、『地神経琵琶之釈』で「土荒神」に ついて
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11 郷田洋文「竈神考」(『日本民俗学』第二巻第四号、日本民俗学会編)1955年、21~33頁。
12 荒神や三宝荒神について、早くも江戸時代末期の国学者で神道学者の平田篤胤がすでに『玉
襷』八之巻・拝竈神等詞において論じたことがあり、また中国宋代に編纂された『三宝感応要略 録』に『常愍遊天竺記』の内容を引用してその中で「荒神が乱れて障難を起し、大神に帰しべく」
の記録がある。
13 荒木博之、西岡陽子『地神盲僧資料集』三彌井書店、平成9年、260頁。
と記した。その記載からみれば、土荒神は明らかに土公神のことを指している。両者とも に、「どこうじん」と発音されるので、混淆が起こりやすかったと考えられる。