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近世の土公信仰

ドキュメント内 東アジアにおける土公信仰と文化交渉 (ページ 155-162)

第七章 日本における土公信仰の変容と展開――土公祭を中心として

第四節 近世の土公信仰

。そして、この時から土公はすでに「土公神」とされるようにな った。

戦国時代は戦乱の時代で、陰陽師なども軍事に巻き込まれて占いの術を以て活躍した40。 ただし、従来の陰陽道宗家の賀茂・安倍両家は後継者がないために、次第に没落してきた。

一方、唱門師・陰陽師・万歳師・盲僧などの民間宗教者が活躍し、庶民を主流とする近世 の宗教文化が展開してきた41

39 これについて増尾伸一郎も「『地神経』と〈五郎王子譚〉の伝播―地神盲僧の語り物と土公神

祭文・五行神楽の古層―」(『日本文学』7、日本文学協会、1998年)において詳しい考察があり、

併せて参考。

40 小和田哲男『呪術と占星の戦国史』、新潮社、1998年。

41 堀一郎『我国民間信仰史の研究』、創元社、1953年。

。前述の密教で展開した土公供の土公観念は民間でさらに展開 しただけでなく、宮廷の陰陽道における土公神祭文にも影響を及ぼした。

地方の土公神祭文として安芸国山県郡の天文十四年(1545)の年号を持つ土公神祭文が 挙げられる。

謹請土公王土子孫皆来著座、急急如律令

維天文十四年八月吉日良辰撰定(某申)、沐浴潔斎申、平聞食、散供再拝上酒、

抑諸五帝地神眷属諸神等言、五帝龍王申、諸本化身一法界之太士也、其故何者、

娑婆世界三有之有情之迷苦、本ヨリ深重ニシテ、煩悩迷無明暗不信仏法ノ名字、

何況有弁因果道哉、

(中略)

然則、東方降三世明王、薬師如来、為化度一切衆生、現東方青龍王土公神、春三 月九十日内七十二日領給、木王土公神化身也、

(中略)

149

再拝拝拝、散供上酒、謹テ重ズ、十二土公之返化身、

子ノ地ニマシマス水神、黒龍王ハ釋迦如来ノ化身也、丑ノ地ニマシマス土神、黄 色龍王ハ金剛仏ノ化身也、(中略)戌ノ地ニマシマス十二土公神、仰願者信心ノ大 施主ヲハ、病患消除、寿命長久遠、息災延命、福寿增長之サカヘヲサツケ給ヘト 申ス所ヲ而モ聞食、散供、再拝拝拝、上酒

隱形摩利支天印真言唵摩利支曳 ソハカ百反三古形印唵阿梨野摩利支天 神守護地守護

地神真言唵栴陀陀里耶ソハカ

この祭文は前掲の京都醍醐寺所蔵する明応三年の土公神祭文とほぼ同様な性格を持ち、す なわち土公神は五帝龍王・地神であり、五智如来の化身と結び付けられている。ただし、

明応三年の土公神祭文は盤古・五王子の神話と習合して近世民間神楽で唱えた土公神祭文 とほぼ同じような内容を備えたのに対して、天文十四年の祭文は後出のものであったにも 関わらず、修験道的な性格をもち、より古形を保っていると考えられる。特に十二土公神 については、斎藤英喜が「土公神を十二支に配当し、それぞれ釈迦如来、金剛仏、普賢菩 薩といった仏尊の「化身」と仏教化していくところは、本地垂迹説を含みこむ『簠簋内伝』

をベースとしたものといえよう」42と述べ、日本国内の土公信仰の史的な展開において新し く現れたものと主張したが、朝鮮の『仏説竈王経』において土公はすでに十二土公とされ、

また『地心陀羅尼経』においても地神は十二地神と言われ、早くからあった観念であった43

謹請五方五龍王、東南西北中央、青赤白黒黄帝土公将軍五土諸神、土府官属等、

。 もちろん、この祭文は直接に朝鮮の土公信仰から影響を受けたかどうか実証しがたい。と ころが、少なくとも地神経から影響を受けて作成されたことは明らかである。

五方龍王と土公神の対応観念は陰陽道宗家の安倍家の祭文にも反映された。安倍家の祭 儀次第を記した『祭文部類』に弘治二年(1556)の地鎮祭文がある。

維日本国弘治二年歳次丙辰三月吉日良辰 沐浴潔斎奉設礼奠

42 斎藤英喜「祭文・祝詞ー「土公神祭文」をめぐって」(上杉和彦『経世の信仰・呪術』竹林舎、

2012年)67頁。

43 本稿第五章第二節を参考。

150

主人、謹請牢堅地神眷属部類諸神等所献、尚饗、再拝、

謹啓降臨五躰五龍牢堅地神十二神将尊神等主人稟陰陽之気(中略)

伏願所当諸神享此礼奠、削除天災地天不祥、寿命保於万歳、物恠恐払千里之外、

内外安寧44

五方五龍王をはじめとする五方土公将軍・五土諸神などの地神を謹請するのは、『地心陀羅 尼経』の記載とほぼ同じである。内容が似ているものは、江戸時代寛永年間(1624~1643)

に後水尾上皇のために読まれた祭文45にも見られる。盲僧の読んでいる地神経の内容は宮廷 の陰陽道にも取り入れられた。ただし、『祭文部類』には特別的なものとして天文九年(1581)

の土公祭文が収録されている46

又当五星之月。犯五星之方。又当禁忌之日。犯禁忌之方。或犯歳破所在。或犯歳 刑、厭吞所在。若犯渠溝壁落之土。若犯井竈干湿之地。又犯土府、伏龍、地脈、

維日本国天文九年次庚子二月七日庚午 吉日良辰 主人

斎誡沐浴謹遣有司奉設礼奠 謹請東方青帝土公神 謹請南方赤帝土公神 謹請西方白帝土公神 謹請北方黒帝土公神 謹請中央黄帝土公神

謹請五土将軍、五土諸神、土姥土家子孫、土府官属、某、謹以吉日斎潔、奉設清 壇、百和名香、五綵線絹、黍稷、淳醴、葅脯、菓羞豊潔、至誠奉請、惟垂降臨所 献尚饗 再拝

謹啓五方土公五土将軍五土諸神 主人 領掌此 営作。而間惑工近喧嘩、斤斧動作、

(中略)

44 村山修一『陰陽道基礎史料集成』、東京美術、1987年。

45 村山修一『陰陽道基本史料集成』(前掲)、306~307頁。村山修一はこの祭文を「土公祭都状」

と名付けたが、その内容からみれば地鎮祭文と呼んだほうがいいと思われる。

46 同上。

151

水恩之官。又犯大小道路諸神遊行之処。或犯金神七 煞之方。

(中略)

重啓五方土公五土将軍 主人 謹設微礼、謝過祈恩。已蒙嘉悦、択散災咎。庶事荷 恩。永保寿福。但以日景西移、五更漸闌。三爵礼遍、願厳車駕、各還本宮。今日 以後。早掃災患、永蒙慶泰。謹啓。再拝。

天正九年八月吉日安倍朝正二位?春正本也

この祭文は今まで見てきた土公祭文と異なり、仏教的な要素が一切含まれず、あたかも正 真正銘の陰陽道的祭文のように見える。坂出祥伸もこの祭文を中国ですら見られない、全 くといっていいほど道教的な願文であると述べた47

江戸時代に入ると、戦国時代に没落した陰陽道は土御門久脩が徳川康成に重用されるこ とによって復興され、さらに天和二年(1682)に土御門福が陰陽頭に就任し、「翌年には土 御門家に陰陽師支配を認めるという霊元天皇の綸旨、さらに将軍網吉の朱印状が、土御門 家にされるにいた」った

。しかし、前掲の弘治二年の地鎮祭文と 比較すればわかるように、それはただ地鎮祭文における仏教的な用語を取り除き、祭祀対 象を五方龍神から土公神へ変更し、さらに陰陽家の神 煞観念で内容を充実したものであり、

祭文の内容構造はほぼ同じである。

48。全国の陰陽師が土御門家に統制されているので、民間の陰陽道 関係の活動は幕府の官人陰陽師と異なりながら制度的に繋がっている。一方、江戸幕府は 鎖国政策をとったが、長崎を対外の門戸として中国と頻繁に貿易を行い、特に中国の書籍 も商品として大量に日本に販売され、その中に術数書も江戸時代の知識人や土御門家に重 視して研究された49。朝鮮半島やベトナム及び古代の日本でおそらく受容されなかった星と しての土公もこの時代に天文暦学者たる渋川春海(1639~1725)が作った天球儀(図一)50

47 坂出祥伸「わが国における地鎮儀礼と犯土の観念―その道教的起源をさぐる」(『陰陽五行の

サイエンス 思想編』、京都大学人文科学研究所、2011年)224頁。

48 林淳『近世陰陽道の研究』、吉川弘文館、2005年、62~63頁。

49 水野杏纪「江戸時代における清の「術数書」受容の特徴――『八宅明鏡』・『元経』を中心と

して」(『东方宗教』120号、2012年)を参考。

50 本写真は京都大将軍八神社で所蔵されている天球儀を撮影したものである。

に記されるようになった。このような歴史背景で、土公信仰は多様な経路で社会で広がっ ていった。

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天球儀局部(図一) 天文図局部51

まずは、盲僧などの民間宗教者は家々を回って、竈に対して地神経を読んで荒神や土公 神の功徳を説く52。そのほか、万歳師の花祭りや五王子とされる土公神祭文を読む神楽、ま たは現在愛知県にまだ現存するいざなぎ流の法師などは、近世で大きく活躍して発展して きた。その中で、土公神は三宝荒神・竈神・荒神・五方龍神と混淆され、今でも穢れを忌 む竈の神と見做されている。その他に、地鎮祭は民間でも神職か僧侶によって行われるよ うになった。2009年9月17日に千手院本堂改築工事のために行われた土公供次第53

此方は土をまもる神います方ゆへ、井をほる又はみぞをさらへるなどすべて土を うごかすべからず 春はかまどにあり 夏は門にあり 秋はいどにあり 冬はに わにあり。

を見れ ば、それは鎌倉時代以来の真言宗土公供と同様なものだと分かる。

土公信仰はまた大雑暦などの暦注書によって広げられた。造暦は本来賀茂家の特権であ ったが、宮廷陰陽道の没落によって民間で暦を造る風潮が起こり、江戸時代に土御門家が 不法の造暦を取り締まろうと思ったが、効果があまりなかった。それは、民間における暦 書の需要性を示唆するものと思われる。そして、このような暦書には土公神の方位などが 詳しく書かれている。たとえば、『三世相安政雑書万暦大成』の土公神に

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51 京都大将軍八神社で撮影したもので、「黄裳天文図」と傍の名札で書かれたが由来は不明であ

る。

52 高見寛孝『荒神信仰と地神盲僧――柳田国男を超えてーー』岩田書院、2006年。

53 相模国千手院住職・川上修詮編『土公供私次第』(http://www.shusen.com/study/study008.p df)。

54 近代デジタルライブラリーで公開した写真資料(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/

760370)。また平田篤胤も『玉襷』八之巻(『新修平田篤胤全集』第6巻、1977年、440頁)にお いて暦における土公の記載について「其元は漢籍に出たる説には有れど。其理なき事に非ざれば。

此御教へに従ひて。随分に犯しなく。其屋地の御守りを。祈白すべき事にこそ」と述べ、土公禁 忌を守るべきの旨を示した。

ドキュメント内 東アジアにおける土公信仰と文化交渉 (ページ 155-162)