第六章 奈良・平安時代の土公信仰とその由来
第三節 土公信仰の伝来と受容
平安時代に、土公信仰は陰陽師によって社会に広げられたし、土公関係の書物もほとん ど陰陽道書である。ところが、密教の鎮祭や神祇官の御体御卜にも土公の存在が確認でき た。そのためか土公が本来神祇官が司った宗教体系における鬼神だと主張した説もある。
ところが、朝鮮半島での事例を参考とするならば、土公が仏教と深い関係を有していたこ とが判明する。そして、日本の陰陽道の知識は、最も早くは推古天皇 10 年(602)に百済 の僧侶観勒によって伝来されたもの44
冬十二月晦、於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃二千七百余灯 於朝庭内、使読安宅・土側等経。於是、天皇従於大郡、遷居新宮。号曰難波長柄 豊碕宮
であり、土公信仰の受容の時点ですでに仏教と密接な 関係をもつと考えられる。特に仏教における『安宅神呪経』は、遅くても六朝時代にすで に中国で現れており、土公などの宅神信仰と関係が深く、早くから日本に伝えられた。次 に、『安宅神呪経』の伝来と受容及び土公と神祇官との関係を検討してみる。
1『安宅神呪経』の伝来と受容
六世紀ごろ、仏教は朝鮮半島を経由して日本に伝わり、記録によればその受け入れを巡 っては当初蘇我氏と物部氏の争いなどがあったが、時代を経るにつれて受容されていった。
それにつれて仏教における数多くの宗教儀礼も日本にもたらされた。地鎮の観念もその一 つである。日本の地鎮に関する最も古い記録は、『日本書紀』孝徳天皇白雉二年(651)十 二月の記事が挙げられる。それは、難波で築かれた新宮が竣工する前のことである。
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この新宮(難波長柄豊碕宮)に遷居する前に、天皇は僧尼を請じて一切経を読ませ、また 二千七百余燈の灯をともして朝廷内において安宅・土側などの経を読ませたという。これ は明らかに遷居のために行われた行事で、安宅・土側などの経を読ませるのは宅神や土神 を鎮めるためである。この新宮記事の続きとして同三年九月に、「造宮已に訖」り、十二月
。
44『日本書紀』によれば「百濟の僧観勒来けり。仍りて暦の本及び天文地理の書、併せて遁甲方 術の書を貢る。是の時に、書生三四人を選びて、觀勒に学び習はしむ。陽胡史の祖玉陳、暦法を 習ふ。大友村主高聡、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ」である。
45 坂本太郎・家永三郎ら校注、『日本書紀』岩波書店、1965年、317頁。
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晦に「天下の僧尼を内裏に請いて、斎を設けて燃灯を大捨す」ることにした。とすると、
孝徳天皇は宮がまだ完成していないうちに、すでに入居した。水野正好は両年続き十二月 晦に燃灯したという後世にない法式に注意して、
燃灯・読経のみといった鎮具をもたない法式、あるいは鎮め物を散華するといっ た法式の存在も、より古い段階だけに考えておかればならないのかもしれない。
(中略)安宅の日が、孝徳天皇の最も勢いを得た平安の時、輝く光に包まれた日 であったことはいうまでもないであろう。この安宅の呪儀が、単なる安宅ではな く、孝徳朝そのもの、難波の地にはじめて都する者の記念すべき安宅鎮祭の日で もあり、まさに政治の一駒を示す呪儀であったことを語っているのである。46
安宅・土側とは『安宅神呪経』と『土側経』を指すであろう。それ以後、これらの経典 を読む記録があまり見られないが、『大日本古文書』に幾つかの記録を残っている。『安宅 神呪経』は後漢時代の訳経とされたが、実に中国の地鎮祭や土公信仰と深く関わっている と述べた。つまり、燃灯・読経という法式は古い段階の鎮祭の一種であり、また政治の誇 りとして行われたものだと主張する。確かに、孝徳天皇が二千一百余僧尼を請じて味経宮 で一切経を読ませるのは、味経宮が外交的な宮なので、「政治の一駒を示す呪儀」であると も考えられる。ところが、十二月晦とは一年の最後の日であり、その日に行事を行うのは 新年に対しての祈願が含まれているので、それを直接地鎮に結びつけるのは難しい。ちな みに、燃灯は仏教の儀礼としてよく行われ、敦煌文献にも燃灯行事関係の文書がある。た だ天皇の遷居新宮に直接に関係するのは安宅・土側等の経を読むのみことだけであると思 われる。つまり、入居する前に、土地や宅の鬼神を解謝して安穏に居住できるように安宅・
土側等の経を読んだのである。だから同三年に宮が完成された時には、すでに入居したの で、改めて安宅・土側等の経を読む必要がない。そういう意味から見れば、安宅・土側等 を読む行為は孝徳天皇の時代に地鎮・鎮宅の観念がすでに存在しただけでなく、ある程度 その内容が理解されていたことを示すものであろう。
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46 水野正好「難波長柄豐碕宮前後の呪的環境」(『難波宮址の研究』第7、大阪市文化財協会、
1981年)74頁。
47 第二章を参考。
。 したがって、日本における『安宅神呪経』の受容は、少なくとも土公信仰を受容する土台 を築くことができるだろう。つぎに、『大日本古文書』における『安宅神呪経』の関係記録
123 を以下の表に示す48
年代
。
内容 出典
天平三(731)年八月十日 土側経一、合廿六、紙一百廿八 用紙 一 安宅用妙神呪経 用二
写経目録、大日本古文書 七
天平八(736)年九月二十九日 安宅神呪経一巻、僧伽宅経四巻、仏説 八陽経一巻
写経請本帳
天平十一(739)年七月十二日 安宅神呪経 経師手実帳
天平十一(739)年七月十七日 〈送〉安宅神呪経一巻 続々修 十四帙七 天平十三(741)年閏三月廿一日 安宅墓土側経、八楊経 経巻勘注解
宝亀二年(771)潤三月八日 仏説八陽経 三枚 大日本古文書 十八
宝亀二(771)年五月十四日 仏説安宅経〈四枚〉 大日本古文書 十八
この表から、奈良時代における『安宅神呪経』や『土側経』の経典の変遷を窺うことが できる。この経の写経はさほど頻繁に行われていないようであるが、必要な時期にやはり 写されていた。その時期に地鎮観念はすでにある程度公認されていた。はやくも、『日本書 紀』持統天皇五(691)年十月甲子に「使者を遣り、新益京を祭り鎮づめる」とあり、また 同六年五月に「浄広肆難波王等を遣り、藤原宮の地を祭り鎮づめらしむ」と、宮地のため に地鎮が行われたことが記されている。さらに有名であるのは和銅元(708)年二月元明天 皇が遷都の詔を頒布し、「宮室之基を起こし、世を卜し土を相し…方に今、平城の地、四禽 図に叶い、三山鎮を作し、亀筮並び従い、宜しく都邑を建つべし」と宣言したものである。
卜世相土などの中国風水関係の技術を積極的に受容するだけでなく、実際の遷都に応用さ れていたことがわかる。また、『安宅神呪経』と同じく犯土の禁忌を説く『天地八陽神呪経』
は最も早くは『続々修正倉院文書』第三帙第四巻の天平宝字五年(761)二月十五日付の「請 経文案」に見られ、広く流通していたようである49
48 増尾伸一郎「日本古代における『天地八陽神呪経』の受容」(道教文化研究会編『道教文化へ
の展望』、1994年.平河出版社)と村山修一「わが国における地鎮及び宅鎮の儀礼・作法につい て」(『修験・陰陽道と社寺史料』法蔵館、1997年)をも参考。
49 増尾伸一郎「日本古代における『天地八陽神呪経』の受容」(前掲注)に詳しい。その他に、
同氏の「朝鮮本『天地八陽神呪経』とその流転」、小田寿典「偽経本「天地八陽神呪経」の伝播 とテキスト」(『Bulletin of Toyohashi Junior College』1986年、61~74頁)がある。
。八世紀に地鎮の観念が徐々に認識され てきたことが推測できるであろう。
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従って、孝徳天皇白雉二年(651)に読まれた『安宅神呪経』や『土側経』は、土公信仰 の受容を考える上で大変重要なものと思われる。少なくとも、それは早くから陰陽師によ る中国の呪術宗教や犯土観念の導入の他に、仏教の雑密という伝来の経路の可能性をも提 示した。そして、さらにいうと、それは後に盛んになった土公信仰を受容する考え方の下 地を築いたのでないかとも思われる。
2 鎮土公祭と土公
土公は最初に仏教に伴って日本に伝えられたのか、それについては史料の欠如によって 断言できない。ところが、前述の神祇官の御体御卜における土公と呼応するように、日本 古代社会における土公信仰の最古の記録は実に『延喜式』臨時祭に記された鎮土公祭であ る。
絹一丈。五色薄絁各四尺。倭文四尺。木綿一斤。麻一斤。鍬二口。布一端。庸布 二段。米五升。酒五升。鰒。堅魚各三斤。海藻三斤。腊二斤。鹽二升。瓮一口。
坏四口。匏一柄。槲十把。食薦一枚。50
また、同じく『延喜式』臨時祭には鎮竈鳴祭・鎮水神祭・御竈祭・鎮新宮地祭などもあ る。鎮新宮地祭の起源は前述した難波長柄豊碕宮の遷都の時に僧侶に『安宅神呪経』を読 ませることに遡ることができあるだろう。村山修一は『延喜式』における鎮新宮地祭につ いて「陰陽道的色彩が看取される」ものと、またそれは鎮土公祭とともに「奈良朝以来の 伝統的な行事と解せられる」と論述し51
天皇遷自東宮。御仁寿殿。童女四人。一人秉燎火。一人持盥手器。二人牽黄牛二 頭。在御輿前。用陰陽家鎮新居之法也。
、神祇官の祭祀か陰陽道の祭祀かを明言していない。
ところが、地鎮祭が陰陽道と関係が深いことは明らかである。実は、元慶元年(877)正月 29 日に、陽成天皇が東宮より仁寿殿に移った時の記録に、すでに土公関係の信仰が見られ る。
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50『弘仁式延喜式交替式』(黒板勝美『國史大系』第二十六巻、吉川弘文館、1972年)、51頁。
51 村山修一「わが国における地鎮及び宅鎮の儀礼・作法について」(『修験・陰陽道と社寺史料』
法蔵館、1997年)110頁。
52『日本紀略・百錬抄』(国史大系刊行会、1929年)479頁。