第三章 明清時代の土公信仰及びその宗教儀礼
第一節 土公から土地神へ
と指摘されたように、現在の民間信仰もほとんど 元代以後に成立した六百年間に近い統一国家としての明清時代で形成したものである。呪 術や巫覡の文化に活躍した土公信仰もこの時期から新しい風貌が現れてきた。結論から言 うと、明清時代以来、土公信仰はさらに世俗化し、土地信仰と交渉しながら遂に土地神と 同一視されることとなった。
術数信仰を底流とする土公信仰は元代以降も依然として続いている。元代の『居家必用 事類全集』丁集・宅舎は造宅風水関係の択日や禁忌が記載されている。土公・太歳・伏龍 などは特に忌避される神煞であり、土公について
【動土起土凶方】春東方及竈、夏南方及門、秋西方及井、冬北方及庭(土公所在)2
と敦煌文書に見られた唐宋時代の土公遊行周期が記されている。また、元朝の司天監が元 統六年(1338)年に、「太陰犯土公」の天文現象を観察し得た 3
1 二階堂善弘『明清期における武神と神仙の発展』関西大学出版部、2009年、1頁。
2 『居家必用事類全集』北京図書館古籍珍本叢刊61、書目文献出版社、1988年、137頁。
3 宋濂『元史』、中華書局、1976年、1036頁。
。ただし、その天文異象に 対して解除・祓いなどの措置がなく、天文学において土公が重視されなかったことをも窺 える。また、地下世界の鬼神とする土公も呪符などの中で使われたようである。明代万暦 年間の柳洪泉の作とされた『三元総論』が記した葬礼によれば、呪符で墓の守護神を祀る
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ただし、注意すべきのは土公・土母が対として登場している。土公・土母の観念は、隋 唐時代からすでに現れたが、民俗信仰ではあまり盛行しなかったようである。呪符におけ る土公・土母は従来の観念を受け継いだところがあるが、また元明時代以来の土公信仰と 一致するものである。元代の『法海遺珠』に鎮宅安土の祭文があり、その初頭に「符命吿 下某家五方五土、土公土母、五方鎮宅龍王、四時司命」と鎮宅神霊の名前を並べていた。
土公土母は宅神における夫婦神として認められている。特に、明代万暦己酉年(1609)に 作られた「陽間太歳五龍土公土母竈神像」
。そして、その呪符には土公青龍、土母白虎、后土白帝、天皇守墓神君などの 文字が書かれている。
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陽間太歳五龍土公土母竈神像(明) 鎮墓土符(『三元総論』)
を題とする絵があり、「太歳、五龍、土公、土母、
竈神」などの神像が描かれている。
4『精校三元総論』上海広益書局印行、2000年。本書は、宅元・婚元と塋元の三巻からなり、民 間における風水や日時選択及び葬儀などに関する陰陽書である。本の初頭に「柳氏家蔵宅元蔵宅 元巻上 大梁陰陽柳洪泉名鉁」という題跋があり、柳洪泉が明代の人物と考えられ、ただし本文 に掲載されている祭文に全部「大清」と書かれているので、清代に加筆されたことがあるかもし れない。ところが、民間陰陽吉凶禁忌の書は一般的には師徒か父子の間で代々秘伝するのであり、
往々大変古い伝統を残っている。
5『仏造像巻』(韓永主編、北京出版社、2001年~2004年)の解題によれば、絹本で、縦が157 センチで横が92センチ、首都博物館に所蔵されている。神像の左上方に、「大明万暦己酉年慈聖 皇太后絵造」の落款がある。
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後ろの三人は、左が竈神で、真ん中は太歳、右は竈神夫人であろう。龍頭の五人は五方五 土龍神である。残る二人は土公・土母である。ここでの土公は、敦煌文書で描かれた官吏 のような中年男子と違い、長い髭を持つ翁であり、そしてそのそばに妻の土母が立ってい る。
一方、明清時代における鬼神信仰の世俗化や土地信仰の発展に伴い、土公は土地神と見 做されるようになった。朱彝尊が明代の詩歌を集めて編纂した『明詩綜』に、「郊社迎神曲」
という社神を迎える詩がある。
旦旭兮曈曚、神鴉起兮雲中。沐予髪於蘭湯兮、振予衣於蕙風。潔斎俟兮土公、土 公不来兮憂心忡忡。6
中国古代の土地信仰は概ね朝廷が主導とする社祭と民間の土地神信仰に大別することが できるが、明の時代から朝廷は民間の土地神信仰を統制しており
つまり、朝早く起きて、香りのお湯で髪の毛を洗ったり、清い風で衣を乾燥したりして、
潔斎をする。潔斎が終わってから、土公の来臨を待つ。ところが土公さんがなかなか来な いので、心配している。この場合、土公はすでに恐ろしい鬼神ではなく、待ち遠しく親し い土地神であった。
土公が土地公に取って代わられたのは明代以来の民間における土地信仰の変遷に求めら れる。
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6 朱彝尊『明詩綜』巻七十一、世界書局、1962年。
7 万暦の『明会典』に「凡各処郷村人民毎里一百戸内立壇一所、祀五土五谷之神、専為祈祷雨煬
時若、五谷豊登。毎歳一戸輪当会首、常川潔 凈壇場。遇春秋二社、預期率弁祭物、至日約聚祭祀……
読誓詞畢、長幼以次就坐、尽歓而退。務在恭敬神明、和睦郷里、以厚風俗」と記し、それはすな わち里甲制度とあわせて設立された里社制度である。朝廷は、この制度によって、地方の民間信 仰を管轄する。
、土地信仰は廟会(祭り)
を中心とする習俗になってきた。土地神は大体、墓地后土、土地公(里社)、城隍、后土地 祇という序列に展開され、墓地后土は墳墓の土地を管轄し、土地公は村の土地を管轄し、
城隍は村の土地公を管轄し、后土地祇は国土の土地を管轄するとされる。そして、少なく とも東晋時代の『捜神記』に蒋子文が死んで土地神と見做されてから、中国の土地神はほ とんど死んだ人によって担われてきた。ちなみに、土地公は、白髪の老翁と見做されてい たるところで祀られている。それで、明代から、社日を中心とする儒教的な行事が民間の
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土地廟を中心とする廟会と一緒に行われてきた。特に、春の社祭は旧暦の二月二日に行わ れることが多く、土地神の誕生日とされている。そこで、「(里社)は漸次土地神と合流し、
里社の「壇而不屋」が偶像崇拝に取って代われた」8
今凡社神俱呼土地、惟塋旁所祀称后土。(略)文公集有祀土地文、今擬改后土氏亦 為土地之神。
、社神と土地神は同一視されてきた。
清・翟灝『通俗編』には、
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とあり、墳墓の后土をおいて社神を全部「土地」と呼び、さらに后土をも「土地之神」と 呼ぶべきと述べた。さらに、清・顧禄『清嘉録』には「土地公公」の由来について「これ は天下の社神、宜しくすべてこれを公と谓う。後に土地公公と訛り為す」10
昔所云社公社母、即今土公土姥、公為后土、母曰富媪
と述べた。即ち、
明清時代から、一切の社神を「土地公公」と呼ばれるようになった。そこで、清・唐仲冕
『陶山文録』には太湖庁改建土地神祠碑の碑文が載せてあり、その中に
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とあり、土地神の社公・社母は今、土公・土姥と呼び、さらに土公は后土であり、土姥は 富媪であると述べた。社公・土公・后土はいずれも土地神に統括された。澤田瑞穂が民国 時代の「土公土母」の絵が所蔵し12
土公土母
、そこの土公・土母は老翁と老婆であり、既に民間信仰 における土地公と土地婆の形象と区別がない。
8 王健「明清以来江南民間信仰中的廟界――以蘇・松為中心」(『史林』、2008年6月)119頁。
9 翟灝『通俗編』巻十九、清乾隆十六年翟氏無不宜斎刻本。
10 顧禄撰、王邁校点『清嘉錄』江蘇古籍出版社、1999年、45頁。
11 唐仲冕『陶山文録』巻七碑記、清道光二年刻本。
12 現在早稲田大学風陵文庫に所蔵される。
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