第四章 ベトナムにおける土公信仰――土公と竈神の歴史関係を中心として
第二節 歴史における土公信仰の展開
1 ベトナムの土地信仰と土公
土地信仰は普遍的な宗教行為であるが、ベトナムの土地信仰は古来より中国から深く影 響を受けてきたものである。土公信仰も早くから中国の土地信仰や神仙思想などと共にベ トナムに伝えられたと推測される。
周知のように、紀元前 111年から紀元後 938年まで、ベトナムの北部と中部北境は中国 領土の一部分であり、その時期の歴史はベトナムで北属時期と呼ばれている。そして、9世 紀から近代まで、ベトナムは中国の冊封体系における藩国であった。後漢時代に、中国の 社会では土公あるいは土神の信仰が盛んになり、犯土すれば祟りによって災難をもたらさ れるという観念が広がっていた。『大越史記全書』によると、秦始皇17年(AD210)に秦の 将軍任囂・趙佗がベトナムに出兵して失敗したが、「時囂将舟師在小江、犯土神、染病帰」14
霊帝崩後、天下擾乱、独交州差安、北方異人咸来在焉、多為神仙辟穀長生之術
で、囂は遂に病死した。つまり、将軍任囂は土神を犯して死んだとされる。『大越史記全書』
は後世に編纂されたもので、また外記の部分はほとんど中国の史書を参照したものである。
ただし、中国側の資料及びベトナムの最古の史書とされる『大越史略』には任囂が土神を 犯したために死んだという記録はないので、おそらく後世の作者が当時の観念で加筆した ものであろう。しかし、当時、中国の民俗信仰が方士等によってベトナムに伝わった可能 性は考慮にいれてよい。『牟子理惑論・序』に
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と記し、後漢末期に多くの方士らが交州に来て神仙術を修業したという。また『歴世真仙 體道通鑑』巻十七には後漢時代に桃俊が道術を学んで仙人になったという記載がある16
14『大越史記全書』、東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献センター刊行委員会、1984、102頁。
15『和刻本諸子大成』第十二輯、汲古書院、1976年、535頁。
。桃
16「桃俊、字翁仲、系銭塘人。少爲郡幹佐、末負笈到大学受業、明経術 灾異。晩爲交趾太守。漢 末棄世入增城山中学道、遇東郭幼平、幼平秦時人、久隠增城得道者也。幼平教俊服九精、煉氣、
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俊は交趾太守を終えてから、東郭幼平(延年)に道術を学んだが、「明経術灾異」であり、
讖緯思想に詳しかった。後漢時代に犯土思想が盛んで、官吏もよく百姓のために解土を行 うなどの事情を考えると、桃俊はその慣習を交趾にもたらしたことも考えられる。そして、
交趾は、道教にとって仙薬や呪符を作るに重要な材料である丹砂の産地で、東晋の道士葛 洪がそこに行って採ったことがよく知られている。そして、道教を尊ぶ唐王朝の時代にお いては、道教のベトナムへの影響がますます強くなった。『安南志原』巻二、寺観祠廟の条 が引用する『交州八県記』に、総計二十一の著名道観が存在することが記されている。そ れについて、大西和彦が、
その分布地域が北属期ベトナムの土着勢力の集住地とほぼ重なることから見て、
道教が比較的早期に同地域に展開していったと推察される。これらの道観には、
開元観分置など唐の崇道政策に起因すると思われる情勢によって、高駢のような 官僚によりくわえられたものもあったに違いない。17
一方、中国民間の土地信仰としての后土信仰や城隍信仰もベトナムに伝わった。城隍信 仰はベトナム民間において広く知られ、ふつうは村の亭という特別の宗教建築に祀られて いる。ただし、「ベトナムの城隍神という語は、通常村の守護神をさし、中国のように、市 鎮にあって、集落などにある下位の<土地神>を城隍神がまとめて上位の神に取り次ぐと いった性格を持っていない。(中略)しかも<土地神>としての系統につながっていない」
と論じた。したがって、土公信仰は道教経典を通して、また道士やこれらの道観によって ベトナムで受容されたことが考えられるであろう。
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と指摘されたように、現在の城隍神はただ村における通常の守護神とされている。ところ が、羅長山によると、城隍神亭における近禁宮に、城隍の職位が書かれ、両側に「静粛」
と「回避」の漢字を書いた札が立てられており、中国の土地神を管理する城隍廟とよく似 ている。そして、近禁宮の両側に小屋があり、通常土公や城隍の配下神あるいは后神が祀 られている19
輔星、在心之術。俊修之、道成。今在洞中、兼北河司命主水官之考罰。此位雖隸定録、其實受事 於東宫中節度。」
17 大西和彦「ベトナムの道観・道士と唐宋道教」(遊左昇・野崎充彦・増尾伸一郎、『アジア諸
地域と道教』、雄山閣、2001年)123頁。
18 末成道男「北部ベトナムの<土地神>―華南漢族との比較」(前掲)69頁。
19 羅長山「越南人的城隍崇拝与土公信仰」(前掲)、162頁。
。したがって、現在の城隍信仰は古くから伝来した中国の信仰とベトナム伝統
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の信仰とが習合したものだといえよう。また、后土信仰も早くから伝来して朝廷によって 祀られた。『大越略史』によると、1171年の孟夏に「詔修文宣王廟及后土祠」と記されたよ うに、后土祠が朝廷に重視されて修繕が行われた。后土は、天帝に対して大地の神で、古 来から朝廷祭祀の対象である。ただし、ベトナムの后土祠は別の由緒があるようである。『嶺 南摭怪列伝』の「応天化育后土神伝」によると、李聖宗が占城を征伐するときに后土の助 力を受けて勝利を収めたので、安朗郷で祠を立てて祀られ、陳英宗の時に祈雨の霊験があ るので、「后土大夫人」と勅封され、その後さらに「応天后土神祗元君」と封ぜられ、今で も習俗として立春の時にその祠に土牛が供えているという20
以上のように、土公と深く関わる道教文化や媒介としての道士及び土地信仰は早くから ベトナムに伝わった
。ただし、后土が尊敬されない と「立見凶妖」とするイメージからみると、ベトナムの后土は大地の守護神というより祟 りやすい神であり、日本の荒神に近い。それはともかく、中国の土地信仰は朝廷の后土祠 から民間の城隍信仰まで早くからベトナムに伝わったのは事実である。
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土公は民間の、特に家レベルで信仰されている神なので、正統の史書などの文献に記さ れにくかったと考えられる。ところが、ベトナムは中国と同じように家族の系統を重視す
。それだけによって土公がベトナムに伝わったとはいえない面もある が、少なくともベトナムにおける土公信仰を受容する素地としての条件を完成させたと言 えよう。
2 五方土公とその神格――『范族家譜』と『秋祭吉忌儀』を中心として
20 原文は「南国大地之神。聖宗伐占城、至環海門、暴風大雨、波濤洶湧、遙望如山、御船戰艦
不能渡、乃泊於沙岸。夜夢女人素服紅裙、淡粧婉娩、登御舟、言曰、妾是本国大地之精、樓神於 木久矣。今遇明君出征、願效従戎以立功。言訖、不見。上遂驚司、有左右耆宿与語。有僧統恵生 対曰、神言托棲於木、宜求而得。於是遣親人遍求岸上群峯、偶得木頭似人形、如夢所見。命置御 船、焚香致祷、号后土夫人。頃刻、風晴俍帖、行師利 涉。已而、平占師還、遇旧処、勅立祠。頃 之、風波再動、飄蕩如故。恵生奏、神意不欲居邊岸、欲便回京。環 珓得便、海浪帖然。上至京、
作祠宇於安朗郷。有褻嫚者、立見凶妖。
迨陳英宗時、旱熯、築壇以祈、神托夢於上曰、本祠有勾芒君、能行法雨。命有司享之、果得大雨。
勅封后土大夫人。歴代加封、以其有功於民。陳朝封応天后土神祗元君。凡立春、土牛皆納祠下、
至今成俗焉。」と書いている。(『嶺南 摭怪列伝』(乙本)、142頁、『域外漢文小說大系越南漢文小 說集成』巻一、孫遜、鄭克孟、陳益源主編、上海古籍出版社,2010年)
21 大西和彦の「ベトナム道教研究史小論」(『ベトナムの社会と文化』4号、風響社、2003年3 月、14頁)によると、「フイン・ゴク・チャン他の『オンディア 信仰と画像・神像』[Huỳnh Ngọc Trang,others1993b]は、南部の土地神オンディア(Ông Địa)信仰を論じたものであるが、先行 研究への言及・分析、他の地域や信仰との比較にも相当注意をはらっている。そして、土地神信 仰が道教から受けた影響にさまざまに言及している。特に土地神に多く見られる虎騎像が、正一 教教祖の張天師または道教神趙公明の虎騎像との相似への言及は興味深い」という先行研究があ る。オンディア土地神は土公と異なるはずだが、同じくベトナム土地信仰における道教からの影 響を示しているだろう
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る伝統があり、族譜・家譜や儀礼規範書のようなものが民間に散在している。次は、関西 大学グローバルCOE 東アジア文化交渉学拠点が2008 年から2010 年をかけてベトナムのフ エで調査した資料を利用して、特に土公のことを記した『范族家譜』と『秋祭吉忌儀』を 中心としてベトナムにおける土公の神格や機能を考察していく。
范族家譜 秋祭吉忌
『范族家譜』は 2009 年にフエ市内の范氏宅で撮影した文書で、137 頁がある。范族の由 来経緯について、
順化省肇豊府富栄県茂材総褒社前世(定省義興府懿安県褒栄社)五
洪徳元年、我始祖奉旨扈随聖宗駕御南辺伐占城、闢広南地。四年往巴州処逐蛮夷、
占荒地、元和六年(莫登贏称大正莫福海称広和)奉太祖過横山人入富春登光建耕 地簿設立村舎著舎褒栄社(後略)
と記載し、范家の始祖は洪徳元年(1470)に聖宗に従って占城を征伐して領地を開拓し、
その後、後黎朝後期の元和六年(1537)に富春登光に入って耕地を拓いて、村舎を建てた という。ただし、この家譜は紹治(1841)甲辰年の春に該族の范有莊・克賢・克和・文比 等によって始めて編修されたものであり、先祖についてどの程度真実を反映したのかはわ からない。本家譜はおおむね族の由来・祭文・家譜の三部分からなる。土公についての内 容は主に祭文の部分で記されている。たとえば、七月十四日正忌に次のような祭文がある。
維国号歳次某府県総社范族之長仝(本族)敢告于、神位如前、云云。五方土公尊 神。曰惟岳降神。先祖是皇。克昌厥後……毎臨忌日。載設秋嘗。三杯淡酒。八拝 天香。献之。……第五世范家公妃男女列位……歴代有名無位、有位無名范家先霊,