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中世初期の土公信仰

ドキュメント内 東アジアにおける土公信仰と文化交渉 (ページ 142-147)

第七章 日本における土公信仰の変容と展開――土公祭を中心として

第二節 中世初期の土公信仰

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日ずつを抜き出した七十二日の土用日と、中央の支配をゆだねられるという筋」8で、日本 の土公神祭文と基本的に一致している。さらに、雲南省の白族にも似ている民間物語があ り、ただ四季の上に節気をも分けただけの違いである9。そして、興味深いのは、雲南省の 白族にも土公を祭る習俗があり、五人が土公・土母を扮装して踊って一家の福を祈るもの である10

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平安時代における犯土造作の禁忌を中心とすると土公信仰は院政期に入ると「妊婦の家 を造作しない禁忌が始め」11た。承徳二年(1098)には女御藤原苡子の懐妊により、内裏の 造作を停止されたことがあり、それは貴族社会における土公信仰の深化を示したものとも いえよう12。12世紀から13世紀中葉までの公家古記録における土公関係の記載を抜き刷り にして次の通りである13

西暦

旧暦 内容 典拠 作者

1107

嘉承25 25

庚戌。天陰、午後雨降、寅剋許自内人告云、主上 自去夕御気云々、仍辰剋許 忩参、猶不快御、申時 許余参院、依召参御前、余[申云]主上御心地御占 於院被行能候歟、仰有何事哉、仍為隆並陰陽師泰 長等遺召、於院行御卜、土公御邪気等云々、其由 還参奏事由、頃之退出、女房不例、仍以良祐阿闍 梨令読之、布施、

『殿暦』 藤原忠実

1180 治承42 12

在門、百日犯之凶、夏三月之間土公在門、犯之凶,

仍件月坏立門

『山槐 記』

中山忠親

1188 文治412 4

於六条…被始御祈,大土公御祭二座,大舎人頭業

『仙洞 御移徙 部類記』

宮内庁書陵 部編

1188 文治412 10

大膳権大夫季弘朝臣勤之,大土公御祭<御所南壺

>,縫殿頭宣平

『仙洞 御移徙 部類記』

同上

1205 元久28

13 男著簿色奴袴也,兼日御祈<大土公火災>

『仙洞 御移徙 部類記』

同上

1209 承元37 16

此夜行幸於七条院(藤原殖子)三条第,依御方違 也,朱雀門自当時皇居依当正方西,来廿一日棟上 料被違土公遊行方也,

『猪隈

関白記』 近衛家実

11 村山修一『日本陰陽道史総説』(塙書房刊、1981年)254頁。

12 詫間直樹「平安後期の犯土造作について」(『建築史学』25、1995年)18頁。ただし、詫間氏 が「白河天皇が始めた犯土造作の新たな禁忌は、『群忌隆集』にしるされた本来の禁忌内容を踏 まえながらも、それを拡大した形で取り入れることにより成立したもの」と論じただけで、土公 信仰に直接に触れていない。しかし、『群忌隆集』の本文は「家有妊身婦、不治門・戸・井等、

皆禁之」と書いたように、ここで指摘したいのは門・戸・井のいずれも土公の居場所であり、そ もそも土公禁忌に由来したものである。

13 東京大学史料編纂所の古記録データベースを利用した。

137 西暦

旧暦 内容 典拠 作者

1213 建保12 27

今度御祈去十九日被行謝土公祭<在宣朝臣勤之,>

自昨日

『仙洞 御移徙 部類記』

宮内庁書陵 部編

1213 建保13 2

人無沙汰,犯土御祈事,建仁有謝土公御祭,又有仁 王講一座,今度

『仙洞 御移徙 部類記』

同上

1214 建保212 7

賀茂朝臣同御祭<南方>,大土公御祭,井霊御祭,国 道(安倍)

『仙洞 御移徙 部類記』

同上

1228 安貞211

18 夜以陰陽頭泰忠(安倍)朝臣行土公祭,以主計 『猪隈

関白記』 近衛家実

1228 安貞211 20

臣令行鬼気祭,以宣俊朝臣令行土公祭也,以覚朝 僧正令姶行不動供

『猪隈

関白記』 同上

1228 安貞211 22

人,諸大夫等也今夜泰忠朝臣行土公祭,宣俊朝臣 行鬼気祭

『猪隈

関白記』 同上

1231 寛喜33 候…今日御奏聞可…謝土公祭被遂行之由承候事

事期見参候

『民経

記』 広橋経光

1231 寛喜33 祈事,三鎮,防解火災,大謝土公,井霊等御祭可令 勤行之由

『民経

記』 同上

1243 寛元1年月

日未詳

道御祈,御産御祈事,寛元元年大土公御祭一座,御 産所御渡時被行之

『御産 部類記』

宮内庁書陵 部編

1244 寛元42 18

神頗違乱,今日於堀河新所,祭土公火災祭,在清 (賀茂)朝臣行之

『岡屋

関白記』 藤原兼経

1253 建長512 18

申之,依無煩所宿寺邊也,今日在潮朝臣奉仕土公 火災祭,一座分用途造国司沙汰

『経俊

卿記』 藤原経俊

1254 建長67 7

一字金輪法,泰山府君祭三座/土公祭等被行之,御 灸之後猶無御減

『経俊

卿記』 藤原経俊

1255 建長710

27 択申之,内内儀也,定御祈日土公御祭,河臨御祓,

『仙洞 御移徙 部類記』

宮内庁書陵 部編

1261 弘長110

1 十月小建(土府在辰土公在庭)亥月徳在甲

『深心 院関白 記』

藤原基平

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鎌倉末期までも宮廷の公家たちは依然として従来の土公禁忌に注意しており、宮廷の陰 陽師たちによって祓いを行っていたと考えられる。

一方、東国における鎌倉幕府の創立をきっかけとして、本来京都で仕えた宮廷の陰陽師 は分流して鎌倉に赴いた人が多かった。そのため宮廷の土公禁忌も幕府にもたらされ、将 軍のために土公祭を行われた。たとえば、『吾妻鏡』の建暦2年(1212)4月18日に次の記 録がある。

為将軍家御願。大倉郷卜一勝地。令経始一寺給。今日午尅立柱上棟也。是為被報 君恩父徳云云。……戌尅於此所被行水神并七座土公祭、橘三蔵人奉行之14

犯土、造作、病事、産事時祭之

将軍は寺を建て立柱上棟したので、陰陽師に土公祭を行わせた。それは平安時代からの旧 例を踏襲したものであろう。実は、『吾妻鏡』における祭祀関係記事を検索すれば、最も頻 繁に行われた陰陽道祭は泰山府君祭であったが、土公祭も四十回以上の記録が見られ、土 公信仰の盛行が窺える。

ところが、鎌倉における土公祭の特徴も看過できない。前掲の例で、土公祭は七座があ る。また土公祭はよく夜間で行われ、七日間で七人の陰陽師が相替って勤めるのである。『延 喜式』の鎮土公祭は木綿や麻などを供えて行われたものだが、それは神祇官の卜部が務め たものである。陰陽道において土公を祭る記録は早くも 990 年にすでに見られたが、土公 祭の祭儀が記録されていないので、具体的にどのような作法であったかは明らかでない。

ところが、京都府立総合資料館に所蔵の旧若杉家史料の『文肝抄』には陰陽道における大 土公祭と小土公祭の祭儀が記されている。

大土公(牛一頭、然者造作、移徙、病事、産事時祭之)

魚味 撫物(元)

神座五座

小土公(一名)謝土公 魚味 撫物

神座五座

15

14 黒板勝美編『吾妻鏡』前篇、吉川弘文館、2000年、663頁。

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土公祭は主に規模によって大土公祭と小土公祭に分けられるが、神座は共に五座である。

ただし、移徙の時は大土公祭が行われ、また牛一頭が使われるのに対して、犯土の時は小 土公祭が行われる。造作、病事、産事時の場合だけは両方とも使われる。それらは『吾妻 鏡』の記録からほぼ裏付けられる。牛一頭を使うのは、元慶元年(877)に陽成天皇が転居 の時に行われた陰陽家の鎮新居法にも見られ、おそらくその伝統を踏まえたものであろう。

正嘉元年(1257)9月18日に勝長寿院を建てた時も、大土公祭が行われ、牛一頭を引いた16

『文肝抄』は鎌倉後期に官人陰陽師の賀茂在材が編纂したとされる賀茂家陰陽道祭祀の次 第書である17。この資料によって、鎌倉時代における土公祭の祭事目的と供え物が大体判明 する。ところが、『吾妻鏡』の記録と比較すると、大きな違いとしては、『文肝抄』では土 公祭の神座を五座としたが、『吾妻鏡』によれば七座で行われたとすることが多い。平安時 代の安倍晴明と賀茂保憲が陰陽道の天文と暦法を掌ってから日本の陰陽道は概ね賀茂・安 倍両家によって独占されており、競争関係を有している。そして、鎌倉時代になると、安 倍家は東国の鎌倉に行って活躍したが、賀茂家は京都に残っていた 18

実は、平安末期から鎌倉初期にかけて陰陽道の祭祀は泰山府君をはじめとして、呪詛祭・

天地災変祭・属星祭などの祭儀が多く案出された。同時に、密教に由来する宿曜道には、

北斗護摩・十壇閻魔天供・尊星供などの修法も現れてきた。それで、鎌倉の将軍が不例・

。したがって、『吾妻 鏡』と『文肝抄』における土公祭の違いは、安倍家と賀茂家の土公祭儀の違いに由来する とも推測できる。ところが、その違いはより深層の原因が潜んでおり、すなわち密教の祭 儀と深く関わると思われる。

陰陽師の所業は本来卜占のことが中心で、偶に呪術的な行為として呪詛なども行うが、

基本として祭祀や祈祷などの宗教行為に参与しない。貴族が病気になった時、医師の治療 が主であるが、そのほかにまた陰陽師に病因を占わせ、僧侶に加持や調伏させるように、

医師・陰陽道・僧侶のそれぞれの役割は基本的に分けられている。平安時代中期から、陰 陽師は神祇官の分野に進出し、祭祀活動をも行うようになったが、その祭祀祭儀はまだ初 期なので整っていなかっただろう。

15 村山修一『陰陽道基礎史料集成』、東京美術、1987年。

16『吾妻鏡』(黒板勝美編『吾妻鏡』後篇、吉川弘文館、2000年、649頁)正嘉元年正嘉元年九 月十八日条に「勝長寿院造営事始。……戌剋。於勝長寿院行大土公祭。〈被引牛一頭。如例〉晴 茂朝臣奉仕之」と記されている。

17 室田辰雄「『文肝抄』所収荒神祓についての一考察」(『仏教大学大学院紀要』35、2007年)。

18 赤澤春彦『鎌倉官人陰陽師の研究』(吉川弘文館、2011年)を参考。

ドキュメント内 東アジアにおける土公信仰と文化交渉 (ページ 142-147)