第六章 奈良・平安時代の土公信仰とその由来
第一節 貴族社会と土公信仰
。つまり、土公などの鬼神は中世以前に主に密教僧や陰陽師によ って祀られていた。ところが、土公は最初としてどのように日本で受容され、いかなる変 遷を経たのかは実にまだ明らかにされていない。したがって、本章は、平安時代の貴族社 会における土公信仰を考察し、その伝来や受容を考察してみたい。
1平安貴族と土公
周知のように、平安時代は絢爛たる「国風文化」が咲き乱れた文化的に華やかな時期で あった。奈良時代から始まった遣唐使を代表とする唐文化の直接移植によってもたらされ た仏教や公文を代表とする漢文化が依然として主流を占めていたにもかかわらず、894年に 菅原道真の遣唐使廃止提案を契機として、それまでの中華文化を鵜呑みにするのみの行動 を脱して、吸収された文化を消化して内面化する時期に入り、『源氏物語』や『枕草子』の ような日本独特の仮名文学が勢いよく成長してきた。一方、死刑さえほとんどない穏やか な平安京において高雅風流で華やかな文化にふけったためか、貴族たちは、気質的に弱く て盛んだった怨霊信仰に追いかけられるだけでなく、陰陽道を代表とする各種の繁雑な禁
1安江和宣「地鎮祭と地鎮法」(『神道祭祀論考』神道史学会、1979年)3~35頁。
2松尾恒一「建築儀礼をめぐる宗教者・職能者と宗教テクストの諸相」(『第4回国際研究集会報 告書』名古屋大学大学院、2008年)114頁。
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忌にも日常生活の行動を縛られていた3。藤原師輔が子孫たちへの遺誡の中で「先ず起きて 属星の名号を称ふること七遍。次に鏡を取りて面を見よ。次に暦を見て、日の吉凶を知れ」4
土忌とは建築活動や動土などの行為で土公の居場所を犯すと恐ろしい祟りを齎すという 観念である。そのため、貴族たちは陰陽師に日時勘申を依頼して方忌・方違えで凶方を避 けるように努力する
と述べ、陰陽道の信仰は平安貴族の日常生活の中に浸透していたことが窺える。土公もそ のような禁忌信仰における鬼神であり、土忌として平安貴族社会で広く忌避されていた。
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乙卯、召使両度来りて云く、今夕、皇太后宮に入るべき、御内裏に扈従ふべき者、
令故障を申さしみて了わる、てへり。是の先に、今日陣頭有可き。参可きの由を 定む。左府(源雅信)の命有り。早く障の由を了わらしむ。今夜陳泰朝臣を以て 土公を祭ら令む
。また、建築活動などの場合は、必ず土公祭を行って解謝する。土公 祭に関する最初の記録はおそらく『小右記』正暦1年(990)12月14日条の記事である。
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今夜、藤原陳泰朝臣が内裏の陣で土公祭を行うので、早く祭場の準備を整えさせるという。
それは、その前の11月27日から小野宮東家等が犯土して寝殿を造り、12月8日にすでに
「柱巳時立、未時上棟」したので、新居に移る前に土公祭を行ったものと見られる。また、
同書長和2年(1013)2月12日の記事に「土公に依りて出ず、深く掘らしめず」
。
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土忌は早い時代から女流日記にも記録が見られる。『蜻蛉日記』天禄3年(972)9月27 日に「土犯すとて、ほかなる夜しも、めづらしきことありけるを、人つげにきたるも、な にごともおぼえねば、「う」とてやみぬ」
と述べた ように、犯土による土公の祟る可能性があるので、外に出ずに籠っているという。
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3 これについて、家永三郎は『日本文化史』(岩波書店、2010年、84~85頁)において「この時 代の貴族が、一面きわめて傲慢でありながら、他面きわめて意気地のない無力感に満たされ、陰 陽道・宿曜道などの迷信的思想を奉じ、禁忌・方違え・物忌みなどの消極的な厄徐けに汲々とし てくらしているのは、芸術的才能の異常な成熟とはあまりにもくいちがった科学的地域の欠乏と、
またそのために原始社会以来の呪術への依存がいよいよ深まった結果でもあるが」と述べた。
4 『九条殿遺誡』『新校群書類従』(内外書籍、1940年)第二十一巻、4頁上段および序・2頁を 参考。
5 平安貴族の方忌などについて加納重文「方違考」(『中古文学』24号、1979年)。ベルナール・
フランク著・斎藤広信訳『方忌みと方違え』(岩波書店、1989年)などを参考。
6 藤原実資『小右記』巻一(大日本古記録・東京大学史料編纂所。岩波書店、1959年)242頁。
7 同上、巻三、82頁。
8 『日本古典文学大系』20、岩波書店、1976年、285頁。
と書いてあり、夫の藤原兼家が土忌のために来
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られないことを珍しく伝言してきたが、藤原道綱母がただ憂鬱に過ごしていたとある。『更 級日記』に「土忌にひとのもとに渡りたるに」という土忌関係の記載がある9
陰陽道では平安中期より犯土造作が方忌の一つとして忌まれるようになり、大将 軍・王相・金神などの方角神が所在する領域や八卦方忌の方角などにおいて犯土 造作を行うと害が生じると考えられていた
。ただし、土 忌は実際には土公のみに対しての禁忌に限らない。そもそも、犯土造作の禁忌について、
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とのべられたように、大将軍や王相などの神々も土忌を科す。しかし、これらの神々は太 歳と同じく年神であり、そもそも太歳信仰から敷衍された神煞と思われる。方忌は別とし て、犯土造作は土公と不可欠な関係を持ち、土地の霊を犯した観念に由来するだろう
。
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と記したように、祟りの主体を氏神か「土の気」とされた。気は「け」と読み、「ものの け」のように、中国陰陽五行説の抽象的な気の思想というよりは、むしろ何かの霊・精霊 に近いものであろう。その気は人の体に憑いたら病気を齎すので、平安中期から、「邪気」
は特に験者によって調伏される恐ろしいモノとして認識されているようである
。『栄 華物語』に
さて参りたれば、かうおはします由を問はせ給へば、「御氏神の崇にや、土の気」
など申せば、御前にて御祓仕うまつる。
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9 同上、494頁。
10 詫間直樹「平安後期の犯土造作について」(『建築史学』25、1995年)2頁。
11 第一章で考察したように、太歳信仰における犯土禁忌はそもそも民間の犯土信仰を吸収した
ものであった。大将軍などの神々は犯土禁忌を科すといっても、祟り神の主体はやはり土公など の土神であろう。
12 邪気について、繁田信一・山下克明らの論説があり、最近のものとしておそらく上野勝之の
「摂関期の王権と邪気・モノノケ観念――藤原道長を例として――」(『古代文化』59巻4号、
2008年)が挙げられる。ところが、邪気は、そもそも「邪霊の気」からきた語で、「気」はやは り医学的、陰陽的な意味であろう。
。藤原行成 が『権記』において「病者は甚覚えぬの中に邪霊の気があり、即ち左府に詣で、観修僧都 を奉迎し、身を護らしむと奉ってほしい」と書き、病気を患ったときに僧侶に身を守って くれるように頼むという。そして、その病因は「邪霊の気」とする。また、長徳4年(998)
2 月26 日に「属雖え平癒の聞があるといっても、余気が有って不出仕を称す間」と記し、
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病気が完全に治していないのは「余気」があるからである13という。したがって、「土の気」
は土の霊で、すなわち土公であろう14
また、貴族社会における土公信仰の盛行によって土公の恐ろしさを描いた文学作品 も出てきた。『狹衣物語』に「さらぬだに子を生むには、土公と言ふもの、必ず出でて、
かく、大塞がりの方にさへあるよ」といい、土公が孕んだ赤ちゃんを殺すものだと述 べた
。
15。さらに、『今昔物語』には「千万の人の足音して過ぐ。既に過て行ぬと聞つる、
者共即ち返来て物云ひ騒ぐなるを聞けば、人の音に似たりといえども、に人には非ぬ 音を以て云く」16というシーンが描かれ、陰陽師の慈岳川人が皇陵相地の時に犯土した ため、千万の地神に追い殺されるという17
とあり、土公は天皇健康検査のために行われた御体御卜における鬼神の一つである。
同じ御体御卜の記事として、承暦4年(1080)6月10日の「神祇官謹奏」にも「可有 土公之祟、気鬼祟」とある
。それは、あたかも『洞真太極北帝紫微神呪 妙経』に記された「天下に千万の土公鬼が有り(略)其の瘟毒を行し、悉く皆殺人す」
という場面に匹敵する恐ろしいものといえよう。
ただし、土公は陰陽道関係の記事にだけでなく、神祇官関係の記録にも見られた。
康和5年(1004)6月10日に中臣輔清が奏した「神祇官謹奏」に、
天皇我御体御卜ニ。率卜部 天。太兆仁卜供奉留狀奏…又至来冬季。可有土公祟。
逮季初。祭治大宮四隅。
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さらに、仏教関係の記事にも土公が登場する。『御堂関白記』長和 5(1016)年8 月 19 日の記事に造作が起こった時に、三僧が土公のために夜で金光明経を講読することが書い
。
13 藤原行成『権記』(臨川書店、昭和四十八年(1973)発行)。
14 増尾神一郎によると、室町時代書写の富岡家旧蔵の二本では、この部分は「御身の神たたり、
とくうのけにやと申て」とはっきり土公を書いている。「氏神・土の気・竈神とその鉱脈―陰陽 師の<占病祟法>と地霊への眼差し―」(『叢書 想像する平安文学』第7巻、勉誠出版、2001 年)、82頁。
15 ただし、深澤瞳の考察によれば、それは当時社会における土公信仰の事実でなく、物語の中
で主人公をだますために作られたことであるという「『狭衣物語』の土忌」(倉田実編『王朝人の 婚姻と信仰』、森話社、2010年)を参考のこと。
16 慈岳川人被追地神語第十三『今昔物語集』四(日本古典文学大系25、岩波書店、1975年)295 頁。
17 増尾伸一郎はここの地神が土公神であることを述べた。「鬼を見る者」(『ケガレの文化史』服
藤早苗 [ほか] 編、2005年)を参考。
18 新訂増補国史大系第29巻上『朝野群載』吉川弘文館、1999年、137~139頁。