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(9)病理学第1講座史

ドキュメント内 医 学 部 (ページ 47-50)

現状と将来の課題

これまで、エイコサノイドと総称される生理活性物質の生合成にかかわるリポキシゲナー ゼの構造と機能に関する酵素学・分子生物学的研究を行ってきたが、今後はこれを更に発 展させ、これらの物質が細胞に働いて生理活性を発現するメカニズムに関する研究や、そ の臨床的病態に関する研究が必要であると考えられる。また大学院医学研究科においては、

将来基礎医学としての薬理学の教育と研究を担う人材の養成が重要であると考えている。

として、当時本学寄生虫学講座の主任であった渡辺四郎教授が第1病理学教室主任に選ば れて就任したが、1968年7月28日胃癌のため逝去した。

1969年1月渡辺教授の後任として、助教授の梶川欽一郎が教授に昇任した。梶川教授 は、1983年4月停年退職した。同年4月助教授の中西功夫が教授に昇任、現在に至って いる。

教育と研究

中村八太郎教授時代(1916〜1943年) 中村教授の研究の主なるものは、日本住血吸虫 症、内分泌及び結核症の病理解剖学的研究で、これらの研究を通じて、体質の病理学の解 明が終生の研究課題であった。主な学会発表としては、1911(明治44)年の第1回日本 病理学会総会における日本住血虫症に関する宿題報告、1916(大正5)年4月の第6回 日本病理学会総会の「内分泌の病理学的方面」の宿題報告、及び1939(昭和14)年の第 17回日本結核病学会総会における「日本人結核症の病理解剖学」の発表などが挙げられる。

著書としては、速水教授と共著の『病理学総論 上下二巻』(1919年)がある。1935

(昭和10)年4月に金沢で開催された第25回日本病理学会の会長も務めた。

宮田栄教授時代(1943〜1955年) 宮田教授ははじめ、中村教授指導の下に結核症の病 理解剖学及び実験的結核症の研究に従事したが、ドイツ留学より帰朝後は、次第に結合組 織の研究に移り、その成果は1953年4月6日仙台における第42回日本病理学会総会の宿 題報告「結合織の病理形態学的研究」と題して発表された。

宮田教授時代の教室業績は人体病理解剖学に加えて、次第に実験病理学の分野が前景に 立ち、特に戦後、電子顕微鏡的研究の導入とともに新しい研究の時期に入り、研究課題は 結合組織の病理形態学に移り、小皮標本及び電子顕微鏡を駆使しての画期的な研究業績が 発表された。当時は、本邦において結合組織の研究者は甚だ少なかったのであるが、宮田 教授はドイツ留学後いち早く結合組織の重要性に着目し、広範な結合組織の研究を展開し、

本邦における結合組織研究の先駆者となった。

宮田教授は、絵画、音楽、映画、写真などに造詣が深く、また文筆に優れ、しばしば新 聞や雑誌に随筆、論説を寄稿し、地方文化の向上啓蒙に努力した。また、十全同窓会副会 長として同窓会の発展にも尽力した。

渡辺四郎教授時代(1956〜1968年) 渡辺四郎教授は、1929(昭和4)年3月金沢医 科大学卒業後、直ちに母校の第2病理学教室杉山繁輝教授の門下に入り、超生体染色、超 生体墨粒貧食試験など、当時最も斬新にして進歩的な実験病理学の分野において研鑽を積 み、1933年5月助教授に昇進した。1940年4月からは金沢医大臨時附属医専講師を兼任 した。1943年より金沢医科大学学生主事も兼任し、戦後、1946年3月より1949年6月 30日まで、金沢医科大学厚生課長として学生の補導に当たった。1949年6月30日金沢医 大教授となり、同時に初代の金沢大学学生部長に就任。1950年6月15日、元医専生徒控 室を改造して新教室を設けたが、これは渡辺病理学教室と仮称され、研究の主体を実験病

理学においた。1956年12月、宮田教授急逝の後を受けて第1病理学教室主任に転じ、血 液細胞学的研究とともに間葉組織の病理形態学的研究を遂行した。

梶川欽一郎教授時代(1969〜1983年) 梶川教授は就任後、1969(昭和44)年8月に 東大医学部より北川正信(現富山医科薬科大学医学部教授)を助教授に迎えて、人体病理 学の充実を図るとともに、自らも病理解剖、外科病理組織診断を指導して、教室員のレベ ル向上に努めた。研究面では、宮田栄教授の下で始められた結合組織病理学の研究を一貫 して押し進め、電子顕微鏡の導入とともに結合組織の構造及び組織反応の微細構造の解析 に努めた。これらの一連の研究の功績により、1969年5月、日本電子顕微鏡学会寺田賞、

1976年11月、北國文化賞を受賞した。病理学会においては、研究業績のまとめを1975年 4月、第64回日本病理学会総会において「細胞間マトリックスの病理」と題して報告し、

高い評価を受けた。さらに40余年の研究の集大成を著書『結合組織』(金原出版:1984年)

に盛り込んで出版した。本書は、現代の結合組織研究の標準的学術書として用いられてい る。

梶川教授は電子顕微鏡資料作成法にも留意し、このうち、弾性線維研究のために開発し たタンニン酸電子染色法は、梶川法として世界で広く用いられている。多忙な研究活動の 中で、第10回日本結合組織学会会頭となった。1976年4月より1980年3月まで、医学部 長を2期併任し、1983年4月停年退職した。

梶川教授は、研究面のみならず教育行政にも精通し、卓越した人格識見を有し、十全同 窓会長を1983年6月から1991年6月まで務め、その重責を果たした。

この間、松原藤継十全同窓会理事長とともに、金沢大学医学部学術振興募金会に尽力し、

それを成功に導いた。1990(平成2)年4月、勲二等旭日重光章を授与されている。

中西功夫教授時代(1983年〜現在) 中西教授は、前任の梶川教授の結合組織の形態学 的研究を発展させるとともに、生化学的、細胞生物学的手技を導入して研究を進め、特に 型別コラーゲンの役割、結合組織と上皮細胞との接着、結合組織の崩壊に働く分解酵素な どの課題について、それぞれ研究チームを作り、勝田省吾、岡田保典、河原栄、大井章史、

岡田仁克、小田惠夫らのスタッフを重用して人材の育成に力を注いだ。

その結果、1994年勝田助教授が金沢医大病理学教授に迎えられ、同年岡田保典博士は 金沢大学がん研分子免疫学教授に、さらに1997年10月に慶應義塾大学医学部病理学教授 に転出した。河原栄講師は、新設の保健学科検査技術科学専攻の教授に昇任、また、岡田 仁克博士は大阪医大病理学助教授に転出した。人材の流動化とともに大学院重点化を目指 して研究内容が変動した。結合組織の質的変化を基盤にヒトがんの新しい診断法、神経疾 患における伝達物質障害の解析、細胞接着能とがんの浸潤に関する研究を、分子レベルで 発展させている。

一方、中西教授は1996年6月には、第28回日本結合組織学会会頭、1996年8月からは 医学部長を務め、医学部の管理運営面に携わっている。また、医療における人体病理学の 重要性に鑑み、1989年に北陸病理集談会を発足させ、代表幹事として活躍するなど地域

医療に寄与している。

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