• 検索結果がありません。

(6)小児科学講座史

ドキュメント内 医 学 部 (ページ 86-89)

さらには薬物療法の効果を含め、総合的に精神分裂病の本態に迫る研究を続けている。木 場助手の臨床心理グループは、MMPIの日本版の作成、精神分裂病や不安障害の心理テス トによる評価、臨床では行動療法を実践している。長年英国で精神分析を研究し帰国した 矢崎助手は、精神療法の実践と心気症についての研究をまとめている。1997(平成9)

年から着任した棟居助手が率いる児童青年精神医学グループは、自閉症に加えて登校拒否 及び摂食障害の医学的研究・治療を開始した。

現状と将来の課題

今なお精神疾患あるいは精神科に対する多くの人々の認識には自然さが乏しく、善くも 悪くも、特別視されがちである。「精神科は全然特別なところではない」ということの理解 を深め、精神科を広く開かれたものとすることは、精神科医に課せられた重要な課題であ る。そのために、我々は教室が主催した学会を活用し、市民を対象に公開フォーラムを同 時に開催するなど努力している。しかし、特別視される原因の一つに「精神障害は治らな い」という誤解があるのではないかと思う。現在我々精神科医は、多くの治療手段を活用 できるようになり、優れた治療効果が得られるようになった。治った人が増えることによ り、精神科が特別視されることも減ることが期待される。我々は病気を治すことを目標に、

治療上の様々な工夫を凝らし、臨床教育を行っている。また、脳の時代と言われて久しい。

しかし、多くの精神科疾患の原因はまだ謎に包まれたままであり、我々の挑戦を拒み続け ている。生物学的精神医学に基礎をおいて、精神疾患の病態解明への着実な研究を続けて いくことが本教室の使命である。

大学に行幸され、泉名誉教授が泉熱についてご説明申し上げた。翌1959年11月、泉名誉 教授に紫綬褒章が授与された。1963年3月には第2病棟が竣工し、小児科病棟が移転し た。翌1964年、新外来棟着工のため小児科外来は旧伝染病棟へ移転した。1966年に新外 来棟が竣工し、小児科外来が移転した。翌年11月、第5病棟の竣工とともに小児科病棟は その1階へ移転し、研究室、外来、病棟が現在の形に整えられた。

1971年3月、佐川教授は停年退官し、翌1972年に中島博徳教授が千葉大学より着任し た。しかし中島教授は、在職5年で元の千葉大学小児科教授として転出し、1978年谷口 昂助教授が教授に昇任した。翌年11月、佐川先生に勲三等旭日中綬章が授与された。また 1991(平成3)年11月には、谷口教授が北國文化賞を受賞した。1993(平成5)年、病 院に医療情報部が設置され、佐藤保助教授が教授として転出した。さらに1995年には、

宮脇利男講師が富山医科薬科大学小児科教授に就任した。翌1996年3月、谷口教授が停 年退官し、同年6月小泉晶一助教授が主任教授に昇任した。さらに医学部保健学科の新設 に伴い、1996年に関秀俊講師が看護学科教授に、谷内江昭宏講師が臨床検査学教授にそ れぞれ就任し、小児科学との境界域にも人材が広がり、新しい時代に対応しつつある。

診療と研究

泉教授時代(1924〜1958年) 金沢大学医学部以前の教室では、疫痢の発生機転とその 治療法の解明に総力が注がれていた。疫痢様症状の病因として、消化管感染に基づくヒス タミン中毒の立場から研究が進められていたが、1949(昭和24)年の新制大学発足以降 も、赤痢菌のヒスタミン産生能、疫痢症状における血清生化学的変化について研究が続け られた。戦後アメリカから疫痢調査団が来日し、疫痢症状の病因を低カルシウム血症によ るテタニーと結論付けたが、日本の学者はその説に必ずしも賛同しなかった。病因の解明 に先立って、教室では、昭和10年代から既に疫痢に対し静脈内持続輸液療法が開発され、

先駆的な研究として治療成果を挙げている。

一方、猩紅熱に類似した急性発疹性疾患を、泉教授が独立した疾患として報告し、以後

「泉熱」として知られるようになった。教室ではその病因究明に総力を挙げ、病原体の電顕 像、組織培養、血清診断法に取り組んだが、基本となる研究方法がいまだ整わず、泉熱自 身の流行も下火になって、病原ウイルスの同定には至らなかった。それ以外の研究として は、北陸地方の風土病であったクル病やアレルギー疾患、百日咳などのテーマが取り上げ られ、これらの研究を中心として34編の学位論文が発表された。

佐川教授時代(1958〜1972年) 佐川教授の着任によって、教室の研究は乳児栄養とウ イルスに二分された。乳児栄養班は蛋白代謝と脂質代謝班に分かれ、前者は乳児の蛋白所 要量とアミノ酸代謝、後者は必須脂肪酸代謝について研究を進めた。折から病院での出産 傾向が進み、未熟児、新生児の集中管理が時代の要請となった。それに伴って社会的に母 乳栄養から人工栄養への急速な変換が起こり、人工粉乳の組成をいかにして母乳に近づけ るかが学会の主要なテーマとなった。ラクトアルブミンやアミノ酸、不飽和脂肪酸の添加

粉乳、低電解質乳が次々に登場し、それらによる人工栄養が乳児の発育、体組成に及ぼす 影響が、アッオトメトリーを用いた窒素出納法やカラムクロマトグラフィーによる脂質、

アミノ酸分析法を駆使して検討された。

一方、ポリオや麻疹に対する弱毒生ワクチンが開発され、時代の脚光を浴びていたので、

ウイルス研究班は、その臨床的効果をフィールドワークにより検討した。乳幼児を対象と してソークワクチン投与後の血清中和抗体価の推移、弱毒麻疹生ワクチンの投与法の研究 が行われ、今日の予防接種の基盤となる知見が集積された。さらに新しい免疫学的方法が 開発され、液性免疫に関する知見が集積されたことも、この時代の大きな進歩であった。

血中の免疫グロブリン濃度や乳汁中の分泌型IgA濃度が測定され、その成績は34編の学位 論文として発表された。

中島教授時代(1972〜1977年) 中島教授の専門は小児内分泌学であり、特に小児の甲 状腺学では、我が国の草分け的な存在であった。教授は、全く基盤の無かった教室に内分 泌学の柱をうち立て、厚生省橋本病研究班に参加し、小児慢性甲状腺炎の病態の解明と疫 学調査を展開し、本邦小児における同疾患の実態を全国ではじめて明らかにした。折から 新生児マス・スクリーニングが全国的に展開される気運にあり、その方法論の開発のため、

クレチン症の新生児スクリーニング研究班にも参加し、その制度化に大きな役割を果たし た。中島教授は在籍5年で母校千葉大学へ移籍し、その間に発表された学位論文は5編に 止まった。しかしその在籍中は「大学紛争」の収拾期に当たり、多くの人材が入局して自 発的に免疫、細菌、アレルギー、血液、神経、循環器などの研究グループを組織して活動 を始め、教室は活況を呈した。次世代の小児科を担う人材が数多く育った点で、意義深い 時代であった。

谷口教授時代(1978〜1996年) 1978(昭和53)年、中島教授の後を受けて谷口助教 授が教授に就任した。就任以前の研究テーマは乳児栄養とムコ多糖代謝異常症であったが、

1959年京都大学から移籍して以来、長年にわたり病棟医長として小児科全医局員の臨床 修練を指導し、その的確な診断と寝食を忘れての診療態度は、臨床医のかがみとして医局 員から畏敬された。

教室を主宰してからは免疫学を研究の柱とし、液性免疫の伝統から細胞性免疫へと展開、

リンフオカイン、リンパ球表面抗原を標的とし、セルソーター、単クローン抗体を駆使し て新生児期から成人期へのリンパ球分化成熟過程を解明、その業績を基に厚生省免疫不全 症候群調査研究班の班長として全国レベルで研究活動を展開した。研究分野はさらにリン フオカインと様々な病態との関連性、腫瘍細胞における表面抗原の発現、感染細胞におけ るウイルスゲノムの解析へと発展した。一方、小泉講師の血液グループは小児白血病の治 療プロトコルを設定し、全国的規模で治療成績を検討して白血病の予後を大幅に改善した。

研究面では、腫瘍細胞の薬剤抵抗性獲得機序が追求された。佐藤助教授の内分泌グループ は成長ホルモンによる低身長児の治療、甲状腺疾患や若年性糖尿病の治療を中心とした診 療を行い、甲状腺ホルモン作用、成長ホルモンとインスリン様成長因子とその受容体の研

ドキュメント内 医 学 部 (ページ 86-89)