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関係論に基づく間柄

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 80-84)

3. 間柄の自律

3.1. 間柄の概念

3.1.2. 関係論に基づく間柄

間柄は、他者との関係から成り立つ「人間」を単位に構成される。自主体と客体との関 連性までを含む「関与的主体」として「人間」があるという認識に基づく。人間を構成す るものは、他の人間に限らず、他の生命や土地、文化、慣習とのつながりであり、決して 孤立的には存在し得ない。

こうした他者とのつながりを前提する関係論は、人間と自然との共生を訴えるディー プ・エコロジーにおいて発展を遂げてきた経緯がある。ノルウェーの哲学者アルネ・ネス によって提唱されたディープ・エコロジーは、生態学に依拠し、「すべてがつながりととも に共存する」ことを前提に、人間を世界の構成要素の一部と捉え、人間を含むあらゆる存 在が互いに依存、影響、関連し合っているということを主張する。この関係論を具体的に 検討する前に、関係論を擁するディープ・エコロジー31について概観し、関係論が思想の中 軸に置かれる背景を抑えておく。

アルネ・ネス(1912-2009)は、1972 年「世界未来研究会議」にて「シャロウ・エコロジ ー運動と長期的視野を持つディープ・エコロジー運動」というタイトルで基調講演を行い、

その時の要旨を翌年、雑誌「探求(Inquiry)」に発表した。ディープ・エコロジーは、現在 の社会システムと文明のあり方を前提とする浅い(シャロウ)考えに基づく環境保護運動 と対比して説明される。ネスは、エコロジー運動を「シャロウ・エコロジー運動」と「デ ィープ・エコロジー運動」に区別し、前者への批判と後者の重要性を説いた。現在の社会 システムと文明の変革を求めずして、現代の環境問題を根本的に解決することはできない。

31 ディープ・エコロジーは、「拡大自己実現論」を軸に展開される一つの哲学的思想(狭義 のディープ・エコロジー)と、8項目の原則に代表される社会運動としてのディープ・エコ ロジー(広義のディープ・エコロジー=ディープ・エコロジー運動)に分けて整理される(井 上有一, 2001, p. 9)。本稿においては、井上のこの定義に基づき、狭義のディープ・エコロ ジーを「拡大自己実現」あるいはディープ・エコロジー思想、広義のディープ・エコロジ ーをディープ・エコロジー運動あるいは単にディープ・エコロジーと表記する。

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そのためには、自己の「価値観」や意識の変革に切り込み、ライフスタイルの転換を実行 しなければならない。ディープな(深い)ものの捉え方、思考のレベルの深さが要求され、

長期的、大局的な視野のもとに全体としてものごとを捉えることが求められる。もちろん それが、眼前の損得や結果への偏重に左右されるシャロウな(浅い)判断から切り離され ていなければならない。シャロウ・エコロジーとは、「先進諸国に住む人々の健康と繁栄」

を主要な目的として、汚染と資源枯渇に反対するようなエコロジーのことである。これに 対し、ディープ・エコロジーは、次の7項目で説明される特徴を持つ。

(1) 本質的な結びつきに基づく関係論

(2) 生命すべてが等しく生き栄える権利

(3) 多様性と共生

(4) 階級社会への対抗

(5) 問題への倫理的責任の全う

(6) 複雑さではない複合性の尊重

(7) 地域の自律と分権化

(1)上下関係や支配関係にとらわれない本質的関係性に基づき、(2)そうした関係性で 結びつく生命は等しく尊重され、(3)その結果として多様性が支持される。これら3つの命 題は、人間を生態系ピラミッドの頂点に置く支配型から、人間を網の目の一部と見なす関 係論に基づくホリズムへの転換を促す。そしてこれらを志向の軸に、ディープ・エコロジ ーは、人間中心主義(Anthropocentric)から人間非中心主義(Non-anthropocentric)への思考 の転換を迫る。その実行過程において(4)から(7)の命題が人間社会に求められると理解 できる。ディープ・エコロジー思想においては、自然に対する人間の位置づけという環境 倫理の主要な課題の一つが議論の中心に据えられるが、本稿においては間柄理論の土台と なる「関係論」に係る所説が焦点となる。

関係論が支持するのは、世界は、相互連関的・トータルフィールド的に存在するという ことであり、世界のあらゆる存在は、原子論で語られうるものではなく、すべてが互いに 依存、影響しあい関連しあっているということである。これによれば、人間は独立して存 在せず、自然と不可分なものとして認識される。これは、原子論的理解に対する全体論的 理解という位置づけであり、ネスによると、「環境における人間」すなわち「人間が何かし ら外部に存在するものによって囲まれている」というイメージをしりぞけ、「関係的で全体

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的な場」というイメージを支持する。本質的な固有の関係が網状に絡まり広がったものが 生命圏であり、そこに存在する個々の生命はその関係網の結び目にあたるというイメージ を創造する(Naess, 1995, p. 465; Næss, 斎藤, & 開, 1997)。例えばAとBが存在した場合、それ ぞれが個々に独立自存するのではなく、両者の関係がそれらのあり方を規定するのであり、

その関係性がなければAとBは違ったものとして存在することを意味する(岡本, 2007, p. 25)。 後に論じる、柄谷行人の主張する「単独性」も関係性の上においてのみ成り立つとされる。

「この物やこの他者は、この私と切り離すことはできない。逆にいえば、この私は、この 物やこの他者との関係においてしかありえないのである」(柄谷, 1992, p. 19)。

関係論あるいは全体論とも呼ばれるその思想の源流は、17世紀の哲学者スピノザに遡る。

というのも、ネスが多大な影響を受けたスピノザ哲学を環境思想と関係づけたところに始 まる。スピノザが提示する見解全体が「ディープ・エコロジーの本質的な立場を引き出す」

と自認するネスは、スピノザを初めて環境思想に援用したとされる(尾崎, 2006, p. 177)。自然、

スピノザの一元論的な自然観には、ネスの全体論的な見方の源流がうかがえる。スピノザ は、「神あるいは自然(deus sive natura)」に示される一元論において、人間を特権視せず、

あくまでも自然全体の部分と見なした(松田, 2002)。デカルトが「自分へ収斂する精神(自我)」

と「空間的な広がりを持つ自然(延長)」という主客の実体を認めるのに対し、スピノザは、

神を唯一実体と置き、「延長」と「自我」は、その神の「属性」であるととらえ直した(長島,

2007, p. 78)。デカルトによって実体としてとらえられた「延長」と「自我」を「属性」に落

とすことで、「自我」-「延長」は神に根拠を持つこととなる。このことによって、「自我」

が「延長」である自然を認識することが神によって保障されるのである。すなわち、スピ ノザ哲学において、人間と自然は直接的な網の目のうちに結ばれるのではなく、神と言う 超越的存在のもと、その属性としての位置づけにおいて同列に配置され、いずれも世界を 形作る要素の一部と見なされるのである。

これに対し、ディープ・エコロジーの関係論は、神の属性としての「自我」と「延長」

から離れ、「人間」と「自然」を対置させる。その背景には、生態学的な個体同士の相互作 用の把握がある。そうした科学的な生態系理解に基づき現代の環境問題を見る時、人間の 諸能力、すなわち他生物種と比して優位性を持つ独自の能力の乱用を目撃することになる。

ネスは、生態学的な相互依存性を理解すると同時に、独自の能力を持つゆえの人間の責任 から、その優位性を自然の征服に用いるべきでないという立場を明確にしたのである。ネ スの言葉を用いれば、「人間は他の生物が有する自己実現への衝動を意識的に捉える(こと ができる)ゆえに、それ(他生物の自己実現)に対する自らの行動に責任を負う」のであ

77 る(Næss et al., 1997, p. 270)。

このように、関係論は、人間がその他のあらゆる存在との関係においてのみ存在しうる ということを明示するとともに、その関係性が優劣や上下によって関係づけられないこと を規定する。この根本的な理解が間柄の関係に適用されるのである。一方で、ディープ・

エコロジーが示す関係論が間柄と異なる点は、個々の生命が関係網の結び目と喩えられる ように、あくまでも主体は「個人」であるということにある。これに対し、間柄の主体は 客体との関係性も含めた「人間」であり、その意味において主体自身が他者とつながる動 的な性質を有する。

さらに、間柄は、個々の要素の集合体として全体があるのではなく、個々の要素の関係 性が全体を決定するという意味において関係論・全体論を支持するが、全体がそれ独自に 実在性を有するという立場を取らない。間柄における人間は、単なる網の目の結び目とし て一般化されず、社会に解消されない。社会という全体において、個々は役割によって認 識されるのではなく、差異ある個体として存在する。すなわち、網の目の一部である「人 間」は、その存在自体が固有であり一般化されない特性を持つ。これは「単独性」という 言葉で説明される。単独性は、個別の人間を、取り換えのきく単なる全体の一部として捉 えるのではなく、それぞれが固有の存在であることを前提する(単独性については、後の

項(3.1.4)で詳しく論じる)。外国人と接する機会を多く持つ若者が、宗教や人種にまつわ

る争いに胸を痛め、「1対1の人としてつき合えば、理解し合えるのに」と心中を吐露する

(三島, 2018)。こうした心情から読み取れるように、間柄は、キリスト教徒と仏教徒、日本人

とアメリカ人、あるいは人間とその他の生物など一般化して捉えられるものではなく、一 つ一つが固有で替わりのきかない関係性である。

この理解を前提すれば、「個」の持つ要素の集合として「全体」が表出するのではなく、

「個」と「個」の関係性の上に「全体」が現れるのである。ディープ・エコロジーの主張 は、「個」と「全体」の二元論の解消であり、「個」<「全体」(「全体」の「個」に対する 優位性)を主張するものではないが、原子論的見方への批判が強調されるあまり、個別具 体的な「個」が「全体」に吸収される印象を人々に与えた。例えば、個々の植物・動物が 全体としての生態系の維持に資するかどうかを問うことは、個を犠牲にして全体を優先す るとして、エコファシズムという批判を浴びる(岡本, 2002, p. 168)。一方で、全体論に対する 理論として取り上げられる原子論では、ある現象を把握する際に、構成要素を分解し、物 質の最小単位や成分などの要素を詳細に分析することで元の現象を理解する。そうした認 識には、「個体」を形成する要素間の関係..

に全体が結論付けられるという認識が欠如してい

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