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個人の自律による共同

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 71-75)

2. 個人の自律

2.4. 個人化の再考

2.4.4. 個人の自律による共同

65 の責任」という観念自体が斥けられるのである。

6 責任の方向

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るという筋道には、崇高な意識と精神的自律を達成したもののみに開かれる共同が示唆さ れる(図7(a))。これに対し、バウマンは、「自律した諸個人」を共同行為を生み出す主体 であると想定しつつも、その諸個人は常に自問を繰り返す<弱い個人>であるとする。そ うであるならば、<弱い個人>は制約に抗わず、他者の意見を咀嚼し内面化しつつ自律の 道を模索するのではないか。あらゆる制約を遮断したうえで普遍性を追求し達成される自 律から、多様な制約や関係性を取り入れる応酬の中で生まれる自律のプロセスにこそ共同 性が生まれると考えられるのである。言い換えれば、つながりを基底とし、共に自律に向 かう共同の形が提示されるのである(図7(b))。

7 個の自律による共同とつながりによる共同

普遍性の追求とは異なるアプローチとして、個人の自律が可能かという大命題を、小田 中(2006)は次のような論理に基づいて結論を導く。自己の利益の最大化という動機のもと

「<自律による経済主義>を進める個人主義者」、いわゆるネオ・リベラリズムの立場をと る人は、社会的関心を持たない。これを批判するネオリベ批判派は、ネオリベが推進する

「個人の自律」というものが抵抗と連帯をもたらさないことから、「個人の自律」が社会的 関心へと導かないという論理を立て、個人の自律自体を否定的に評価する。こうした人々 が行き着く先として選ぶのが、「個人はだれでもなんらかのコミュニティの構成員であり、

自分が所属するコミュニティがもつ価値観や伝統の影響のもとに行動している」とするサ ンデルのコミュニタリズムである(小田中, 2006)。しかしこれを採用する場合、共通善はコミ ュニティにおいて外的に与えられる<べき論>となり、社会的関心もまた一種の<べき論

>とならざるを得ない(小田中, 2006, p. 162)。

そこで小田中は、アダム・スミスの提示する「利己心」と「共感」を持って、自律した 個人が社会的関心へと向かうメカニズムを説明しようとする(小田中, 2006, pp. 172–174)。ス ミスによると、人間は、自分の利益が最大限になるように行動する「利己心」と、他者の 境遇を想像する「共感」という二つの属性を本性として持つ。『国富論』の基本原理である

(b) つながりを基底とする共同 (a) 個の自律の先に見る共同

他律 自律

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「利己心」と、『道徳感情論』の基本原理である「共感」は対立的であり、両概念には矛盾 が存在するという論争が繰り返し展開されてきた。そして、この矛盾に対して、『道徳感情 論』の「共感」は、「利他心」ではなく道徳判断の能力であり、利己心とは矛盾しない」と いう見解が広く支持されてきた(新村聡, 2009)。つまり、土台に利己心があり、他者の境遇 を公平な観察者はどう感じるかと考え、その境遇に対する道徳的判断を通して共感を持つ という見解である。こうした、自己の利益を賢く追及する「合理的選択理論」をスミスは 支持したと考える経済学者は多いが、アマルティア・センは、スミスの自己利益の追求に ついての考えは、きわめて限られた問題、すなわち分配や生産ではなく交換に限られるも のであり、実際は、その他の動機(憐憫や同情等の「共感」)が人間の行動や振る舞いに影 響を及ぼすことが広く論じられていると主張する(Smith, 村井, & 北川, 2014)29

こうした異なる見解は、スミスの共感が、純粋な利他的感情と取れる他人の幸福を必要 とする同胞感情=【共感】と、行為者の利己心に対して公平な観察者が共感し、それを是 認するという道徳判断の能力としての共感=【是認】とに分けられ、スミスがそれらを共 存させて論じていることから起こる(新村聡, 2009)。利他的感情を含む【共感】は、観察者 と当事者の境遇が異なっており、想像上の境遇の交換によって両者の感情の比較と一致が 行われる。これに対し、道徳的判断としての【是認】は、観察者と当事者の境遇が一致し ていることによって、共感せずとも感情の一致が起こる(新村聡, 2009)。

センが前者をスミスの本質であるととらえるのに対し、小田中は、後者の【是認】をも って自律を導こうとする。つまり観察者は、行為者が遭遇した境遇に自己を置き、自分で あればその境遇においてどのような感情を持つかと考える。そのうえで、「自分もそうして ほしくない、だから、いつの日か復習として同じことをされたら困る」という考えを導き、

自己の行為を決定する(小田中, 2006)。ここで注意を向けるべきは、思考プロセスではなく、

その志向の対象である。【是認】によって得られる認識はあくまでも、その境遇とその境遇 における観察者の感情が問題とされるのであり、当事者の感情は含まれていない。実際の 当事者がその境遇にいかなる感情を持ちうるかではなく、その境遇において公平な観察者 として自己がどのような感情を持ちうるかが問われるのである。そのため、社会的関心は、

強制や利他心を持ち込まずとも、自分の利己心の延長として持ちうる(小田中, 2006)。つまり、

是認による自律は、境遇に対する観察であり、その境遇と当事者の関係性が捨象される。

では、センの考える利他的共感は個人の自律を達成するのであろうか。人は、「われわれ の共感に喜び、その欠如によって傷つくのと同様に、われわれもまた、自分もかれと共感

29 『道徳感情論』は、スミスの最初の著作(1759年初版)であるとともに、大幅に加筆さ れた第六版(1790年)が最後の著作となった。

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できれば喜び、共感できなければ傷つく」(Smith et al., 2014)のであり、その共感には公平な 観察者が必要とされる。スミスは、友人よりも知人、知人よりも見知らぬ人が持つ冷静さ が公平な観察者にとって必要であるという。「観察者の情動は、当事者の情動のはげしさに は及ばない」ため、当事者が感じたままに激しくふるまえば、観察者がそれを「行き過ぎ だ」と感じる。そうすると共感が成立しないため、当事者は、観察者から共感を得られる 程度に自身の情動を抑えて振る舞う、そうした冷静さが求められるのである(浜林 & 鈴木,

2014)。しかし、ここには二つの疑問が生じる。一つは、西洋的思考と日本的思考の違いに

ある。西洋的な教育では、いかに自分を表現するか、どのように他者に自分の意思を伝え るかという当事者側の表現方法に焦点があてられることに対し、日本では行間を読む、他 者の立場に立って考える等、いわば観察者側の能力をより重視する。近年、日本において も、プレゼンテーションやディベートなどの他者を説得させる当事者の能力・スキルの習 得が求められるが、観察者側の視点に立てば、先のスミスの主張は、当事者の情動がなぜ そこまで激しいのかというその背景にあるものを読み取ろうとする観察者側の冷静さが求 められる。いずれへの偏りも看過すべきではなく、その両方向的な感情が動いて初めて共 感といえるのではないだろうか。

二つ目に、スミスは、公平な観察者を置き、誰もが共感しうる一般的諸規則を形成する ことが必要であるという。この場合、当事者を固有の環境にある固有の存在として見るこ とを斥け、共感を平準化することが示唆される。ここでいう共感は、目の前の他者ではな く、公平な目を通した世間の一般解を求める、あるいは自分の内側に存在する良心に指針 を求めるのであり、当事者の固有性が考慮されない。つまり、一つには、西洋的思考に基 づき当事者側の冷静さを求める「共感」の単方向性についての、二つ目に、公平な目を通 して得た一般解において境遇を判断することにより当事者の固有性が考慮されないことへ の懸念が生じる。

自律は、近代的な価値として、他律的規範への迎合や傾向性に流される自己から解放さ れるものとして描かれたが、現実には常に他者からの作用を遮断できない不自由さが付き まとう。普遍性の追求による自律には弧人化を助長する危険性が潜む。是認による自律は、

当事者の自律への偏重から観察者の自律に乏しく、境遇と当事者の関係性を捨象する傾向 性をはらむ。共感は当事者の固有性ではなく公平な観察者が導く一般解を重んじ、固有な 他者との関係性における自律とはなりえない。

自由、責任、自律において論じられた指摘はいずれも、個人というものは、不完全であ り、常に自己の行為に対する反作用を甘受しつつ自己を確立していくという相互連関のう

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ちに生きているということを決定づける。こうした人々の相互的関係性を実体としてとら え、また、その相互連関を基底に自律を図ることが、現代的課題に正対する一歩ではなか ろうか。

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