• 検索結果がありません。

単独性を有する間柄

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 85-91)

3. 間柄の自律

3.1. 間柄の概念

3.1.4. 単独性を有する間柄

間柄がどのような主体によって形成され、どのような結びつきを持つかを確かめたとこ ろで、以降の項では間柄の性質を明らかにしたい。

和辻が言う家族の全体性とは、「家族の成員は他の者でもあることのできる人が...............

この特定 の資格に限定せられている」場合に成立する(和辻, 2007b, p. 138) (傍点は原著)。例えば、

80

父は、子、夫、会社員、等々であり得るが、これらの者として行為する時、彼は父として の振る舞いではなく、それぞれの役割に応じた振る舞いをする。母もまた、妻や会社員と して子に接することは間違いとされる。すなわち、家族の全体性は、家族という共同体が なすのではなく、「個別の人のさまざまの可能性を否定して一定のふるまい方に制限する力................................

」 が働いたときに初めて成立するのである(和辻, 2007b, p. 138)(傍点は原著)。コミュニティで あれ、和辻の言う二人共同体であれ、その成員は、成員同士の間においてそれぞれそこに おける資格に基づき振る舞う。そうした特定の振る舞いを決定するものが間柄であると和 辻は論じる。

こうした前提を以て和辻は、間柄を、父と子の間柄や教師と学生との間柄という例示に よって説明する。しかし、そこでは常に、父という資格、あるいは教師という資格という 一般性が論じられる。「任意に人々が集まっても、かかる間柄は成立しない」が、学校がそ れぞれの主体に特定の資格を定めることにより、「「学生」と「教師」とが相寄って一定の 間柄を作る」ことが可能となるのであり、学校は、学生が「入学すると否とを問わずすで に学生と教師との間柄」から成り立っている(和辻, 2007b, p. 82)。間柄はそれぞれの役割(資 格)を持つ主体間に存在するものであり、「間柄的資格をはぎ取った物体において」は、間 柄は求め得られぬのである(和辻, 2007b, p. 103)。こうした把握の仕方は、そこで生まれる個 別具体的な人格的関係ではなく、おしなべて一般に通用する特定の資格を持つ人々の役割 による関係性として間柄が説明される。

和辻は、個人主義的思想において、人間存在の単なる一契機である「個人」を「人間」

全体にとって代わらせたその抽象性があらゆる誤謬のもとであると言った。では、個別具 体的な間柄を人間一般の資格により規定することは、間柄の本質的性格を見過ごし、抽象 的関係に落とし込んではいないだろうか。

ここまで概ね和辻の「間柄」概念を支持してきたが、間柄の本質性においては異なる視 点を提示することとなる。和辻は、個々の人間の間柄における資格が間柄を間柄ならしめ るものであると説くが、はたしてそうであろうか。たとえば、自分の住むコミュニティに おいて、ある近隣家族と交流を持つようになる。その際の関係性は、近隣住民同士のそれ であるが、間柄の深まりとともに、たとえどちらかが引っ越して、近隣という契機を失っ たとしても、その間柄は継続されうる。その後も、共通の趣味を楽しむ仲間として、ある いは同じ学校に通う子どもを持つ保護者として様々なかかわりを持つことが想定できる。

こうした間柄において、一つ一つの関係性を示す資格(近隣住民、趣味仲間等)をはぎ取 ることで間柄自体が喪失されうるのであろうか。そうではなく、間柄というのは深まりと

81

ともにもっと本質的なつながりを持つようになるのではないか。それは、「単独性」という 言葉で説明されるつながりである。

「単独性(singularity)」とは、柄谷行人が、「特殊性(particularity)」と対比させて論じる、

「個」の代替不可能性である。個人が全体の機能維持のための一部または労働力として捉 えられる場合、その個人は一般的な主体(私)のひとつの特殊であり、どの主体(私)に も妥当する。特殊性が含有する代替可能な存在は、和辻の言う「資格」で言い表される。

たとえば機能的役割で分類可能な個人であり、集落の世話人である「私」であったり、農 繁期の働き手となる「私」であったり、もしくは統計的分類における70代男性である「私」、

ひとり親世帯の「私」を示す。こうした場合、「私」はコミュニティの構成員という類(一 般)のなかの特殊を意味する。

特殊性が一般性の中のいち個体性であるのに対して、単独性は一般性に所属しようのな い個体性、すなわち「この」性(this-ness)で示される。これは、ハンナ・アーレントが「現 われの空間」と呼ぶ、人を「何」(what)であるかではなく、「誰」(who)であるかによっ て見るということと類似する。齋藤による次の一節が簡潔にこの概念を説明しているため 以下に引用する。

「現われの空間」は、他者を有用かどうかで判断する空間ではない。それは、他者をど のような必要を抱えているかによって判断する空間でもない。「現われの空間」は、他者 を一つの「始まり」と見なす空間、他の一切の条件にかかわりなく、他者を自由な存在 者として処遇する空間である。他者を自由な存在者として処遇するということは、他者 を非-決定の位相におくという態度、予期せぬことを待つという態度を要求する(齋藤, 2000, p. 43)。

予期せぬことを待つ、というのは、表象=「何」から我々が抱くイメージ(例えば、母 親が子供の面倒をみるなど)からの解放を意味する。他者を「何」で判断するのではなく、

非対称的(誰も他者の位置を占めることができない)に認識することが求められる。しか し、アーレントの「現われの空間」が、柄谷の「単独性」と相違する点は、その空間を美 的な空間、傑出した空間と同一視しがちな点である(齋藤, 2000, p. 44)。アーレントは、他者 の「現われ」を、行動とは区別された行為(パフォーマンス)によって判断する。そして その行為を判断するのは、偉大さという〔美的〕基準であり、「偉大さ、すなわちそれぞれ の行いの固有の意味は、ただパフォーマンスそのもののうちにのみ存在しうる」(Arendt &

82

志水, 1994, p. 330)。これに対し、単独性で表される「この私」、「この猫」という場合、ここ

で指し示される「私」や「猫」は、美や偉大さで評価されるような特殊な個体を意味する のではない。どこにでも存在しうるそれらの個体は、その凡庸であるにもかかわらず他の 何とも代替のきかない「この」私であり、「この」猫なのである。

また、「この私」という場合、単独性でいう「この」と、特殊性でいう「この」があり、

両者はしっかりと区別されねばならない。「この私」が、私という一般者を特殊化(限定)、

または私がいかに他者とちがうか、特殊であるかを主張する場合、これは特殊性において 何かを指示する「この」を意味する。例えば、スポーツにおいて厳しい練習を積み重ねた

「この私」を見てほしい、という場合、この私の技術や正確さを見てほしいということで あり、「この」は、その特性部分にかかる。何かを指示する「この」には、いかに私が他者 と異なるかを主張しようとも、他者も同じく一般的な「私」を前提にしており、年齢や職 業や能力などの特殊性でもって類別しようとする意味合いがもたれる。柄谷は、近代小説 が「この私」や「この物」をめざし、個物をとらえようとするも、けっして単独性として の個物に向かいえないと言う(柄谷, 1992, pp. 19–23)。「この私」を表現しようといくら努力し ても結局は、特殊なものを通して一般的なものを象徴させるのであり、それにより読者は、

小説の主人公に共感し、自分を代弁しているとの感覚を得る。恋愛感情を歌うポピュラー 音楽もしかり、シンガーソングライターが自分の恋愛経験(「この」性でとらえうる)をも とに作詞した曲は特殊経験として具現化され、多くのファンが自分の経験を重ね合わせ、

その特殊性に感情移入するのである。近代小説や歌詞において、単独性は表現されえず、「こ の経験」をどう説明しようとしても特殊性の積み重ねとなるのである。

それに対し、単独性における「この」は、何も指示しない。特殊性で示されるようなも の(この偉大な歴史家、この記録的な大雨等)が、「この」によって指示しうるのとは異な り、単独性における差異は「非対称性」としての差異を指示することであり、「この差異が 他者を他者として、私を私としてあらしめる」(柄谷, 1992, p. 21)。この差異は、特殊性でい う差異ではなく、言葉や形で表現のしようがない。しようとすれば、特殊性の羅列となり 一般化してしまうのである。単独性としての「この」は、「他なるもの」を根本的に前提し ているのである。というのも、「この」が「他ならぬこの」を指し示すためであり、単独性 は、「他なるものを根本的に前提し、他なるものとの関係において見出される」(柄谷, 1992, p.

22)。

コミュニティにおける「単独性」の喪失は現代においてますます加速しているように感 じられる。近代以前には、共同体の成員は同質的であり、そうした共同体の中では、「個人

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 85-91)