3. 間柄の自律
3.2. 間柄の充実
3.2.6. 間柄における他者性
106
れるのである。間柄は、世界のあらゆるものとの関係を常に創造し、拡大するのではなく、
極端に言えば一人の相手との間柄をより深めることによっても間柄の拡張が可能なのであ る。
図 12 間柄を自己実現の関係性構築イメージ
間柄の拡張は、自分に全く関わりのない相手と突如関係性を結ぶのではない。まず、自 分が有する関係性を認め、それを間柄へと転化させてゆく過程、更にはその間柄を深めて ゆく過程が間柄を拡張させる。他者を想い、その他者が想う相手を想い、その過程を経る ことで、それぞれの間柄性を尊重することへとつながるのである。自分が持つ間柄がより 深くなればなるほど、そこで生まれる感情や認識を他の間柄に投影しやすくなる。すなわ ち、ニュースや新聞記事を通して知りえた地球の裏側にいる見ず知らずの人間に降りかか る災害にも思いを馳せることができるようになる。直接的な互いの間柄を超えた連鎖的つ ながりによって、他者の喜びや苦しみを共感できるようになるのである。
107
想として提唱された(Fox & 星川, 1994)。個人的同一視とは、最も一般的な個人のかかわりあ いである、他の存在物との共有経験を言う。人は、家族、友人、ペット、家、お気に入り のぬいぐるみ、といった具体的存在物から、趣味のサークルや熱狂するスポーツ、母国な ど抽象的でありながら、自分のアイデンティティの一部と感じられる存在物などを、自分 と同一視する傾向にある。これらの存在物に対する中傷は自分に対する中傷として受け取 られる。
存在論的同一視は、あらゆる物事が存在すると言う事実を鋭敏に感じるということと通 じる。無ではなく、そこに何かが存在するということ、そしてそれらを人間自身と同様の 存在感を持って認識することである。フォックスによると、それらと論理的な結びつきを 想像、分析するのではなく、存在するという神秘性に意識を向けるということである。
宇宙論的同一視は、「人間やその他のすべての存在物は一つの発展過程にある現実の構成 要素である」と認識することから生じる存在物との共有経験を言う。その一つとして「系 統樹」を用いた宇宙論がある。「葉(個人的で伝記的な自分)、若枝についた葉(自分の家 族)、すぐ近くの他の若枝についた葉(友人たち)、小枝についた葉(地域社会)、一回り大 きい枝についた葉(文化による、またはエスニシティによる集団)、更に一回り大きい枝に ついた葉(人類)」といった系統で同一視を図る。しかしそうした一つ一つよりもむしろ、
系統樹全体を自分とより同一視するようになり、あらゆるもの(系統樹のそれぞれの葉))
をわけ隔てなく自分と同一視するようになるということである。
しかしフォックスは、存在論や特に宇宙論のような観念的な思考のプロセスは、意識修
行(consciousness disciplines)や科学への深い理解が必要であると言い、彼の言葉でいう「ほ
とんどの人」には距離があると考える。そこで、より一般的な適合性を得るため、個人的 同一視に立ち戻り、そこからのプロセスを検討する。ネスは、自己実現を個の皮膚を超え た他者へ拡大すると表現した。そしてその対象は、人だけではなく動物や植物、自然その ものへと拡大することが可能であると説いた。これに対し、フォックスの対象は、人(人 類)、動植物というくくりよりも、ぬいぐるみ、趣味のサークルなど自己とのつながりの近 さ、深さが先行していることがわかる。ネスの人間非中心的な思想は、人間蔑視であると の批判を受けるが、フォックスが示す人間や動植物という種族によらない自分との近接性 として捉え直すと、我々が持つ現実的なつながりにより寄り添う形となり、また人間蔑視 と言う誹りを免れることにもつながる。例えば、登山家としても名高いネスは、ノルウェ ー山中に山小屋「トヴァルガステイン(Tvergastein)」を建て、そこで毎冬を過ごした。彼
108
自身のエコソフィ37の体系として提示する「エコソフィT」は、この山小屋の名前の頭文字 が当てられている。ネスにとってトヴァルガステインとの共有経験は、何ものにも代えが たい存在であることは想像に難くない。そうしたつながりは、対象が山小屋であっても、
見ず知らずの人間よりも同一視が起こりやすいと考えることは自然である。これは人間と 人間以外を区別するのではなく、対象を、自己を形成する(自己に影響を及ぼす)他者と して位置づけられるかどうかということを示す。したがって、同一視される他者は、人間 であるかどうかや主体意識を持つか持たないかに限定されない。
間柄は、ネスの「自己実現」やフォックスの言う「個人的同一視」同様、人間を含め自 然や動物、ぬいぐるみなど多様な事象を対象としうる。また、その親密度を高めるという 仕方においても同様の過程を想定できる。間柄は主体の認識によって決定されるため(3.1.5 参照)、故人や動物、物とも形成しうる。しかし、間柄の拡張の論理、すなわち間柄の仲に ある他者が持つその他の間柄に対しても配慮するということが、主体性を持たない物・自 然などに対して言えるのかどうか。例えば、ぬいぐるみを同一視するとき、そのぬいぐる みは私的な所有物であり、第三者が触れたり所有したりすることに対して否定的な感情が 生じる。フォックスの言う個人的同一視は、自分のお気に入りのものを他者と共有したく ないという所有欲や独占欲が生じる可能性を排除しない。これに対して、間柄においては、
他者の他者性を尊重することが間柄を深めることであり、拡張することを意味する。ただ 愛着を持ち、自分と同一視するのではなく、相互性と他者性の尊重が間柄形成の軸となる のである。
『無法松の一生』という映画がある。作家岩下俊作の小説『富島松五郎伝』を映画化し たものであるが、ここには、所有欲や独占欲に回収されない、間柄の観念が美しく描き出 されている。あらすじはこうである。主人公は、荒くれもので有名な車引きの松五郎であ る。ある日、子息を助けた縁で大尉と懇意になるも、大尉は急逝してしまう。その後も残 された未亡人と子どもと交際を続け、事あるごとに二人を助けるが、松五郎は自分の未亡 人への恋慕の想いに気づき、それを恥じ戒めるかのように未亡人の前から姿を消す。つい に松五郎は、酒に酔ったまま雪に倒れ命を落とす。その後、松五郎の遺品の中から、未亡 人とその息子の名前で貯めた預金通帳が見つかる(伊丹, 1973)。松五郎は、未亡人やその息子 と間柄を築き、深めてきたが、自分の親子への働きや恋慕の情に見返りを求めるどころか、
未亡人に迷惑がかからないように、影から奉仕し続ける姿勢を全うした。間柄を充実させ るということは、他者の他者性を尊び、時には自己の欲求を犠牲にすることさえ生じる。
37 ネスは、生態圏内の生命の状況に啓発された哲学的世界観あるいは体系を「エコソフィ」
と呼び、各人が独自のエコソフィを立てることを想定する(Næss et al., 1997, p. 63)。
109
しかし、そうした他者への配慮が相互的に積み重ねられることを通じて間柄が充実に向か うのである。