1. 社会集団
1.2. コミュニティの概念
1.2.3. コミュニティ
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れるべきであり、ヴェーバーの指摘する、自然的であるからこその対立が生じると考えら れる。
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ティの代表格である町内会あるいは自治会を統合的で共同的なコミュニティであるととら えるならば、アソシエーションは、コミュニティの内部において特定の目的を共有し活動 を行う子供会やその他サークルなどである。
マッキーヴァーは、コミュニティとアソシエーションは、テンニースによるゲマインシ
ャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)にそれぞれ対応すると言う。実在
的で有機的な生命体である<言語の、慣習の、信仰の>ゲマインシャフトと、観念的で機 械的な形成体である<営利の、旅行の、学問の>ゲゼルシャフトは、種類による区別では なく程度による区別として捉えられる(MacIver et al., 1975)。すなわち、一方にゲマインシャ フトが、もう一方にゲゼルシャフトが置かれた軸の上で、実在的・有機的存在と観念的・
機械的存在の濃淡が測られるのである(図 1)。それに対し、マッキーヴァーのいうコミュ ニティとアソシエーションはそうした濃淡ではなく、明確な目的を持つ社会的組織体(ア ソシエーション)と複数のそれら、ならびに、それらアソシエーションに属さない個や活 動をも包含する形成体としてコミュニティを位置づける。町内会で言えば、環境美化にも 防犯など既存の議題に集約されない課題や老人会にも青年部にも属さない個人が零れ落ち ることなく包摂される主体としてコミュニティが位置づけられるのである。
コミュニティとアソシエーション、社会はこの二つの全く異なる原理、すなわち「一人 一人がかけがえのない仲間」と捉えるか「君の替わりはいくらでもいる」と捉えるかとい う原理に基づく人間集団によって形作られる。産業革命を経て近代化・産業化へと向かう 過程でコミュニティは後退し、社会の支配機構として組織(アソシエーション)が台頭し た。すなわち、ヴェーバーのいう官僚制の支配が社会の隅々にまで及ぶ現象が進展したの である。この体制の中で人間の価値は、合理性や生産性という特性を基準に評価され、そ れによる序列化の中に押し込められてきた(三本松, 北島, & 坂田, 2014)。
歴史的な経緯と合わせて社会集団を見ると、同質性のもとに個の存在しない一体的結合 体であった共同体から、近代において個は解放され、自己の属するコミュニティを自由に 選択できるようになった。居住地域であれ、職場であれ、個別の関心に基づき選択し、自 由に入会・脱退が可能である。こうした意味において、地縁的コミュニティも、職場コミ ュニティや血縁的コミュニティ(家族・親類)、その他文化的コミュニティも、内部に共同 の関心を追求する組織体という意味においてはすべてアソシエーションであるという見方
がある(内山, 2010, pp. 80–82)。いずれのコミュニティも基本的にはアソシエーションが多様
に存在するものにすぎない。しかし、そうした「人間たちの協力関係をつくりだすという 関心にもとづいて進めようとしている活動(=アソシエーション)」が当初の目的を超えて、
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「共有された結合体」を、理由を問わず守ろうとする意志が働くとき、コミュニティとし て存在するようになる(内山, 2010, pp. 80–82)。アソシエーションとして明確に区切られた境 界線(特定の関心や目的)が次第に融解し、それを超えた活動や個人・その他の結合体を 包摂的に抱えるようになることで、その結合体がコミュニティと化すという、アソシエー ションからコミュニティへの転換が示唆されるのである。
また、コミュニティは共同体と異なり、個人の存在が前提される。マッキーヴァーは、
「個々人をその相互の関係が彼らのパーソナリティを形成する要因であるところの具体的 な存在として理解」する必要があり、「個々人は、抽象的な、関係を持たぬ、社会化されえ ない存在として考えてはいけない」と主張する(MacIver et al., 1975, p. 115)。また、個人から コミュニティに視点を移してみても、この特性は確立されるとマッキーヴァーは言う。コ ミュニティは社会的諸関係を結ぶ複数の心の連合であり、それ自体一個の心であることは
ない(MacIver et al., 1975, p. 101)。コミュニティは有機的統一体ではなく、よって巨大な魂と
して単一の心を持ちえない。いずれも多民族国家であるアメリカとカナダが比喩されると き、前者はメルティングポット(人種のるつぼ)、後者はモザイクと呼ばれる。人種のるつ ぼが多様な個人の特性を混ぜ合わせて統一体を形成するのに対し、モザイクは個人がその まま残された状態で統一体を形作るという意味で使われる。マッキーヴァーは後者の意味 でコミュニティを捉えているのである。
マッキーヴァーは、コミュニティの成立を認めるにあたり、客観的条件として「社会的 共同関心」が、主観的条件として「コミュニティ感情」が不可欠であるという。そして、
その存続に関心が移るとき、「コミュニティ感情」が一層重視される。さらに非合理的・情 緒的性質において規定される段階になると、コミュニティのゲマインシャフト概念として の位置づけが確立されるようになる(MacIver et al., 1975, p. 48)。アソシエーションからコミュ ニティ、コミュニティからゲマインシャフトへと、機械的連携から人格的つながりへの度 合いが増すにつれ、集団形態はより実在的有機的な生命体と規定された社会集団のより原 初的なものに近づくと考えられる。
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図 1 ゲマインシャフトとコミュニティの概念比較