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個人主義

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 59-62)

2. 個人の自律

2.2. 個人主義

2.2.1. 個人主義のもたらす悲劇

個人主義は、無責任や思いやりの欠如として社会に対する否定的要素を持ちうるのみで なく、個々人に対しても否定的な見返りを与えている。政治学者の宇野重規は、現代の個

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人主義により個が失ったものを次のように考察する。伝統的な共同体からの解放により、

個人の自由、独立、自律という輝かしい理念を冠し歓迎された個人化は、現代においては、

仕事であれ、安全であれ、関係であれ、いずれにおいても「脆弱である」こと、「欠けてい る」ものとして認識される(宇野, 2010, p. 46)。宇野は、フランスの政治学者ピエール・ロザ ンヴァロン(『連帯の新たなる哲学-福祉国家再考』)の失業に関する考察を例にとって脆 弱性を説明する。これまで失業状態を分析するには、地域、年齢、性別、学歴と言った客 観的なデータの集積により、具体的な集団や社会階層を持って説明を行うことが可能であ った。しかし、状況が複雑化した現代においては、これまでの職歴、家族構造の変化、心 理面での個人史を考慮することが必然となり、「集団・階層」から「個別の状況や人生の軌 跡」へと変化したという。これにより、失業者は「階級」から説明されない代わりに、個々 人のパーソナルな出来事、例えば、進学の失敗、離婚など人生の問題が失業へとつながり、

本来システムの問題であったものが個人の問題に転化するという現象が起きている(宇野,

2010, pp. 51–53)。内面的自律を伴わない個人化に加え、社会的問題の個人化は、個々人に心

理的負担を与え、個人をさらに身動きがとれない状態に追いやる。

小さな社会集団においても、個人化による脆弱性は看過できるものではない。かつては 直系家族と呼ばれる三世代同居家族が望ましいとされ(鳥越, 1996)、家族の中で世代交代を繰 り返しながら同形態が存続した。1980年に家族形態の半数を占めていた三世代世帯は、2016 年には 13%まで減少し、代わりに単独世帯、夫婦のみの世帯、親と未婚の子のみの世帯が 3/4を占めるようになった(内閣府, 2016)。加えてコミュニティ内における人間関係の希薄化 などにより、家族内あるいは近所づきあいで吸収されていた高齢者の世話や子どもの世話 が一世帯内あるいは離れて住む家族間でなされるようになり、個人への負担が増加したの である。

2.2.2. 個人が寄って立つもの

山崎は、『日本文化と個人主義』において、他者に固定的なイメージを持つことと同様、

自分自身についても固定観念を持ち、自分の属する国民や民族に文化的レッテルを張りた がるという人間の性僻を指摘する。そうすることでわれわれは頭のなかが明快になり、心 が楽になるというのである(山崎, 1990, p. 5)。そうした心情は、自分がよって立つものを求め る人間の自然形の消極的一面と言える。

現代においては、共同体的規範は喪失し、また、かつて価値の源泉として存在した「伝

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統」も確固たる一信念ではなく、個々人の解釈により多様化してきている(宇野, 2010, p. 68)。 こうした状況を宇野は「意味供給源の枯渇」と表現する。集団的信仰の枯渇により、結果 的にすべての意思決定作業が個人に委ねられる現代は、「聖なるもの」から個人を解放する というある意味で近代化が目指したゴールに到達したともとれる。しかし、その副次的産 物として、個々人が明確な意味供給源を見失うと言う事態を招いたのである。

さらには、近代の教育や社会保障制度は、個人を伝統的な階級、近隣関係、階級などか ら切り離し、自由な労働者として自己決定可能な「解放された」人間の創出を手助けした(宇

野, 2010, p. 54)。「自分たちの社会は、自分たちの意志でつくりだしたものであり、その出発

点も、価値の源泉も、自分たち自身のうちにある」ということが近代の信念として表出し たのである(宇野, 2010, p. 70)。

一方、近代初期の個人主義は、自由を手に入れたように見えた個人が、「個人であること」

を求められると同時に「およそ、個人とはかくあらねばならない」というモデルも存在し た。「個」にどうあるべきかを考えさせるかわりに、「規律的」、「普遍主義的」、「厳格主義 的」、あるいは「強制的」な道徳的命題を強調し、それをモデルとして自由な個人を振舞う ことを要求したのである。要するに、「伝統的な共同体から解放された個人は、近代の新た な秩序のなかに秩序付けられ」、個人の自由の拡大とともに、個人を規律化する社会秩序が 必要とされたのである(宇野, 2010, p. 61)。

それに対し、第二の個人主義時代に入った現代における個人主義は、社会秩序に示され る普遍性の追求ではなく、アイデンティティの探求が個人の意思決定の動機付けとなった。

では、伝統や宗教に裏付けされる確固たる指針を失った現代の人々がよって立つものは何 か。それが自分自身なのである(宇野, 2010, p. 70)。かつて、神や偉大なものを「より高次な 価値」として追求してきた時代とは異なり、民主的革命の結果、人々の平等意識は高揚し、

自分を他者との関係性(平等・不平等性)において判断することが必然としてもたらされ た。それにより、最も基本的な個の判断基準が自己利益に関するものとなったのである。

近代において、自身のうちにあるものに頼ることは、高らかに掲げられた権利であった。

しかし、現代においては、その権利ばかりが主張され、同時に発生する義務に対する意識 が低いことは指摘されるとおりである(小林, 2003)。伝統的社会から解放された個人は、自分 とその周りの狭い世界へ閉じこもり、他者から影響を受けやすい一方で、社会的政治的に 無関心な状態にある。自らをオンリーワンであると鼓舞しながらも、同類である他者に対 して優位性を示せず、その結果として絶えず他者に影響され続けなければならないのであ る(宇野, 2010, p. 154)。

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トクヴィルによると、自己利益あるいは自己犠牲の回避という人間の本性からわれわれ は逃れることはできず、「正しく理解された自己利益」という形でのみ社会やモラルの構築 が可能であるという(宇野, 2010, pp. 152–153)。正しく理解された自己利益とは、自己犠牲に よる奉仕ではなく、日常的に行われるささやかな協力関係の構築が、個人の弱さを共同で 克服することであり、長期的に見て自己の利益を求めるところにある(佐々木, 2009, p. 187)。 コミュニティにおいて、隣人との挨拶が地域の安全すなわち自己の安全につながり、地域 の清掃活動への協力が自己の周囲の環境美化につながるように、無理のない協同の態度の うちに自己利益を包含する価値意識が形成されうるという主張である。

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