2. 個人の自律
2.4. 個人化の再考
2.4.3. 個の責任
個人の自律には、権利や自由だけではなく責任が伴う。しかし、責任とは誰が誰に負う ものなのか。
27 見田(1996)の社会集団を説明する象限軸の一つ(1.3.1集団のかたち参照)
28 バウマンの訳書では、「自立」が使われているが、本稿では、精神的な自立の意味を強く 持たせるため「自律」を用いる。
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ドイツの哲学者ハンス・ヨナスは、責任が向けられる存在を次のように説明する。「第一 に、責任が向けられるのは私以外の存在である。第二に、その存在は時間とともに消滅し かねない、うつろいやすいものである。第三に、その存在が存続するか消滅するかは私の 力にかかっている」という三つの条件を満たす存在である(品川, 1999)。また、責任は力の不 均衡から生じるため、正義や権利とは異なり、責任の向けられる他者との関係は対等でも 互酬的でもない。ヨナスは、責任の原型として乳児の世話を挙げる。なぜ世話をするのか という責任の理由は、乳児を愛しているから、乳児が人格となる潜在能力があるから、乳 児の生存権を認めるから、ではなく、世話をしなければ何が起こりうるかを知っているか らであるという(品川, 1999)。しかし、世話をしないこともできる、ということには異論を挟 めない。ただ、ここに責任を感じると言う時点で、人間の倫理性が認められる。「人間はい つの時代でも責任をひきうける存在ですでにある」が、それとともに、「実際に責任をひき うけるかどうかはつねにまだ決まっていない」のである(品川, 1999)。
この論理を、自然主義的な主張に重ねると、人間は「自己認識が可能になった生命の末 裔」であるがゆえに自然に対する責任を持つということになる(Jonas & 加藤, 2000, p. 129)。 さらにヨナスは、科学技術力の向上により、人間が地球全体に不可逆的な影響を及ぼしう る主体となったことによる人間の責任の「空間的」拡大を主張する。また、人間の活動は 遠い未来や地球環境への不可逆的な影響を及ぼす力も持っている。すなわち、人間の責任 対象は地球全体であり、人間は自然を保護する義務を有すると同時に(山内, 2007, p. 111)、そ の責任は過去だけではなく未来にも向けられる(品川, 1999)。こうした責任の理解は、対自然 のみならず、グローバル化した現代社会において、個人の行動が地球の裏側の誰かに影響 するという関係にも見ることが出来る。例えば、われわれの食卓には、常に他国で生産や 加工がなされたものが少なからず並び、それを消費することは、グローバルな市場経済活 動の一端を担うことを意味する。食材の選択一つにも、広範に広がる他者に向けられる空 間的責任と同時に、影響が次世代へと続くような時間的な影響も含まれうる。
ヨナスの言う責任は、認知することから発生する。すなわち、生命中心主義が、「人間以 外の生きものを人間と等しく倫理的に配慮すべき対象とみなす」が、それと同時に、「道徳 的主体としての人間の特殊性」(=認知し、それに責任を感じる特性)を指し示していると 言える(品川, 1999)。
しかし、責任には、認知のさらに詳細な説明が可能であり、また必要ではないだろうか。
責任が生じる場合、それは、(1)構造的なもの、(2)行為的なもの、(3)能力的なもの、に 類別することが可能である。構造的なものとは、親と子や生存する上で依存関係にある生
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物間など、責任が生じる立場が構造的に規定されていることを意味する。行為的なものは、
自分の行為が環境に悪影響を及ぼすことによって自分にも被害が及ぶことや、影響を抑制 する保全の措置を取るなど、因果関係によって生じる責任である。能力的なものとは、人 間は環境を管理する能力があるというような技術的可能性を意味し、環境倫理において、
スチュワードシップを主張する論者らは、対象を征服・管理可能であると判断したことで 得る人間の優位性から来る責任を指示していると言える。
(1)と(2)に関しては、より本能的なものであり、(1)動物が子を育てる行為や、(2) 動物が一定の地域で食料を食べつくすことで個体数を減らすことなどに現れる。ただし、(2) については、因果が直接的でない事象や複雑な場合には、人間に固有の知的な認知能力を 必要とする。(3)については、自分の能力を理解して初めて認知するものであり、この能力 的責任をいかに持つかが問題となる。すなわち、この能力的責任は、常に弱きものは強き ものの庇護下にあり、守られるべき存在としてあることを示唆する。このことは、自然を 征服することにより、それから受ける畏怖を取り除き、所有、管理できるものとして人間 社会のうちに取り込む人間の習性であるともいえる。
グレゴリー・ガリー(Gregory Golley)は、宮沢賢治の『狼森と笊森、盗森』の中に、こ うした人間の習性を見いだす。ある時、村の子どもたちがさらわれ、村人たちは、森の中 に探しに行き、オオカミに子らを返してくれと訴える。それに対し、オオカミは、村の子 どもたちにキノコや栗を振舞っていたのであり、何も悪いことはしていないよと言い訳を
する(宮沢 & 太田, 2009)。その様子をとらえ、ガリーは、たとえオオカミが子供たちをもて
なし世話しようとも、それは「子どもたちを誘拐できる力を示した後」での出来事である ことを指摘する(Golley & 佐復, 2014, p. 167)。ここに、人間の自然に対する超越の歴史の上に、
自然の権利を認めるという上位思想が示されている。
しかし、(3)能力的責任は、物語のオオカミのように、能力・力のあるものの優位性を顕 示する方向がある一方で、土地倫理やディープ・エコロジーが訴えるように、人間と自然 の対等性を唱え、山や動植物と目線の高さを同じくする方向に向けることも可能である。
ヨナスの言う責任に再度立ち戻れば、「責任が向けられるのは私以外の存在」なのであり、
責任をいかに持つかという問題は、私ではなく、「私以外の存在」=他者がいかにその影響 を受けとめるかということを意味する。人間を地球の管理者として見ることは、人間と自 然の上位下位構造はそのままに、人間の立場を加害者から庇護者へすげ替えていることを 意味し、責任として認められない。私の責任は、決して「私」のみで完結し得ず、他者か らのフィードバックを必要とする(図 6)。換言すれば、個人で責任を全うするという「個
65 の責任」という観念自体が斥けられるのである。
図 6 責任の方向