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間柄の倫理

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 94-100)

3. 間柄の自律

3.2. 間柄の充実

3.2.1. 間柄の倫理

近代的自我から間柄への転換は、自律の主体が自己(我)から間柄へ転換することを意 味する。間柄の自律は、自己の確立を目指してきた過去1世紀以上にわたる啓蒙からの脱却 であり、思想を根底から覆す必要に迫られる。しかし、ここまでの作業は、過去から現在 まで貫通して存在するもの、しかし近代に覆われて否定されたり見えなくなったりしてい たものを掘り起こし、光を当てることであり、近代を受け入れた明治初期ほどの大転換を 促しているわけではない。現代社会に「自然状態」としてあるものを見つめ直すところが スタート地点なのである。すなわち、まずは間柄を再認識し、そして契約や役割、利害関 係のみで結ばれたつながりに間柄を育むのである。その上で間柄をより豊かなものにする ことが望まれる。こうした一連の流れを「間柄」の自律と捉える。

しかし、間柄の自律の難しさは、それを達成するための価値観の形成である。かつては、

共同体的理念あるいは伝統的観念が個人の価値形成軸として機能した。日本においては、

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共同体的規範が判断を正当化する基軸となり、共同体的理念が宗教にも勝って存在感を示 していた。それゆえ、近代化に際し、共同体の喪失は規範の喪失を意味し、ヨーロッパの ような宗教を軸とする個の自律が果たせなかった(宇野, 2010; 竹井, 2007, pp. 60–64)。

それでは、共同体的規範でもなく、個人の価値の源泉の追求でもない、「間柄」はどこに 自律の倫理を求めうるのだろうか。「間柄」の自律を考えるうえで、アレクシ・ド・トクヴ

ィル(1805-1859)が記したフランス革命前後の人々に関する考察から考えてみたい。

団体の成員は、まず団体固有の問題をともに解決したあと、すべての住民と力を合わせ て、市の一般的利益のために尽力するのをつねとした。ところが一八世紀になると、彼 らはほとんど完全に自分のなかに閉じこもってしまった。なぜなら、都市生活に関わる 活動は少なくなり、すべてが受任者に委ねられたからである。それゆえ、これら小社会 は、ただただ自分のためにのみ生を全うし、自分のことにしか関心をよせず、自分の問 題以外には関与しない。

われわれが現代の用語として作り出した個人主義....

という言葉は、先祖の時代には存在 しなかった。なぜなら、その時代には、集団に帰属せず、もっぱら自分のことだけを考 えてよしとする個人など、実際に存在しなかったからである(Tocqueville & 小山, 1998, pp.

241–242)。

トクヴィルは、今日言われる真の個人主義へと人々を方向づけたものが、小団体がつね に異成分を排除しようと単一要素への還元を目指し細分化してゆくフランスの民衆に見ら れた気質から来たものであり、一種の集団的個人主義であると論じる。これは裏返せば、

団体に属する個人が細分化の際にいずれの団体に属すべきかの意思決定を行うことを意味 する。そして細分化した団体はそれぞれにたとえ小さなものでも特権を求めて自他を区別 しようとする働きを持つことから、小団体間に闘争関係が生じる。

これに対して、内部分裂を恐れるゆえに判断をあえて曖昧に留め、関係性を維持するこ とを優先するのが日本の共同体であり、フランスの小団体とは社会的組織の成り立ちが大 きく異なる。日本においても、他者に関心を持たない個人主義が顕著であるが、フランス の個人主義が集団的個人主義であるとすれば、日本のそれは集団主義..

的個人主義であると 言える。近代日本に見られた垂直的集団主義・水平的集団主義(2.1参照)は、個々人の意 見の同異によって作られた集団意識ではなく、集団に属すること、あるいは他者とつなが っていることを重んじる風潮によって作られた集団意識である。個人化の進む現代におい

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ても、他者と比べることにより自分の位置づけを確認し、他者からどう見られるかを憂慮 するというのは、常に意識の内において他者とつながっていることを意味し、自分を測る 物差しが他者との関係性の中に存在することが示唆されるのである。

こうした考察から、人間が倫理規範と仰ぐものがどこにあるかと言えば、その関係性、

すなわち「間柄」のなかに存在するのではないだろうか。古代から近代初期まで、日本の 共同体は集団的規範を有し、各集落の氏神信仰と相まって人々の思想、行動を制御し導い てきた。近代以降、個人の解放が叫ばれ、名実ともに個人化するにつれ、人々はよって立 つ信条や指針を失った。そうした中で人々が物差しとしてきたものは、間柄に成立する一 種の好ましい、好ましくないの判断だったのではないだろうか。意を汲む、斟酌する、と いう相手に踏み込む態度もあれば、手心を加えず、情けは無用など、あえて距離をとる態 度もあり、特定の間柄にのみ通じるルールは、ある間柄において相応しい態度、服装、言 葉遣いなどを使い分けてきた日本文化の気質に根付いていると考えられる。ただし、相手 によって剛柔使い分けるこのような態度が疑似共同態(1.3参照)の様態で現れる場合、そ れは間柄ではなく単なる利害関係にあると考えられる。

共同体規範への恭順のように、無批判的に従うべきものとして受け入れるのではなく、

それぞれの間柄において、その時代や場所を反映する倫理が存在してきた。これは、同じ 価値観を共有する仲間のみで集団を形成する、フランスの民衆が形成した小団体の倫理と も異なる。間柄は、特性や属性によって縛られず、価値観の異なる相手とも形成される。

だからこそ、宗教や価値観を超えた相手との関係を築くための個別の倫理が必要となる。

これは、共同体的規範や集団的個人主義における価値観との決定的な違いである。その違 いは、例えば、人々の倫理がどこにあるか、すなわち正当性をどこに求めるかに注目する ことで見えてくる(図 9)。集団内の個人が共有意識・関心によって結ばれるフランスの小 集団は、その集団を他と差別化する特権等が意思決定の基準となり、他者への態度はその 基準を通して決まる(c)。これは宗教的教えが生活態度の指針として根付いた社会において も同様に見られると考えられる。他方、共同体では、その集団にいきわたった規範が個人 の行動を規定する(b)。そして間柄においては、個別具体的な他者との間柄において適切 な態度・行動が定まる(a)。

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図 9 倫理の位置づけ

これは、ディープ・エコロジー運動の提唱者であり哲学者のアルネ・ネスが、「関係の場」

と呼ぶ理論に通じる。関係の場とは、プロタゴラス33の双方肯定理論(both-and theory)の改 良として提示されたもので、「「その物について」の言明は、すべて関係的な言明である」

という言葉に示される通り、「物AはBである」ではなく、「物AはCに関してBである」

あるいは「関係的な物ACは性質Bをもつ」という言明を支持する(Næss et al., 1997, p. 89)。 プロタゴラスの双方肯定理論は、知覚する全てのものの元は、物体(例えば水)のなかに あるとして、水自体が、主観(人間)が知覚する性質(温かい・冷たい)を全て持ってい るという理論であり、これによると水は温かいと同時に冷たいということが言える(Næss et

al., 1997, p. 89)。プロタゴラスは、「万物の尺度は人間である。あるものについては、あると

いうことの。あらぬものについては、あらぬということの」に表される人間尺度説を唱え る。しかし、この説は「同じ物は同じ関係において、同じ性質をもつと同時にもたないと いうことはできない」というアリストテレスの無矛盾律を否定するとして、後にプラトン によってプロタゴラスは真理を否定する相対主義者という批判を受ける。他方で、プラト ン説に依拠せず再解釈を試みる場合、当時の新しい啓蒙主義的人間観としてとらえること が可能で、世界を認識し、価値を創り出していく主題が人間にほかならないことを提言し ていると言える(中澤, 2017)。ネスもまた、こうした解釈を与えた一人であり、同じ水に手を 入れて温かいと感じるか冷たいと感じるかは、水・手・冷たさ(温かさ)の要素の関係性 から決まると捉えた。ネスによって「AはBの関係において冷たく、Cの関係では温かい」

と再構築された双方肯定理論では無矛盾律に矛盾しない。ネスにおいて「双方肯定理論

(both-and theory)は、真正な存在論的地位をもつ感覚的な実在性を承認する」。つまり、海

33 紀元前5世紀の古代ギリシアのソフィスト(啓蒙思想家)。 共同体規範

共有意識・関心 宗教的教え (c) 個人の倫理 (b) 集団的倫理

(a) 間柄を尊重する倫理

倫理の位置づけ

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