1. 社会集団
1.1. 共同体の変遷
1.1.3. 共同体論争
近代以前から現代にいたる社会集団を語るには、共同体を巡る論考を避けて通ることは できない。戦後、封建制を激しく批判した近代主義者らは、日本の近代化において共同体 の解体は不可欠であると迫った。そうした立場から見て、共同体とそれが作り出す人々の 社会関係は、近代化と折り合わないものであった。しかし、共同体の位置づけは、共同体 を近代化を阻むたいしょうであると位置づける経済史的な考察と、主に日本の村落研究に おけるそれとで異なりを見せる。その違いは、鳥越の次の記述によって簡潔に言い表され ている。
実証的な農村研究をつうじて、社会学者は、ほどなく、その共同体性を、封建的(半封 建的も含めて)ととらえることをやめてしまう。社会学者が見た共同体(性)は、農地 改革以降も残存としてあるのではなく、生活の必然としてあるように考えられた。また、
それ以前の共同体も、なるほど封建制と適合的であったけれども、封建制成立以前も論 理的には存在しなくてはならなかったものと理解したからである。その結果、共同体を 基本的には資本制成立以前の現象と見なすとともに土地の共有に視点をおく農業経済学 者と、社会学者は論をまじえることとなった(鳥越, 1990, p. 211)。
マルクスらを源流とする西洋経済史的な視点で見ると、まずは土地の所有形態が問題と なる。共同体は生産組織であり、土地は共同体の物質的基礎として存在する(大塚, 2000, p. 12)、 生産手段(土地)と生活手段(自然生産物)は分かたれず、また生産者集団と生産手段も 分離されない。そうした形態の集団が共同体であると定義された(中村, 1977, p. 32)。
歴史的な流れで見ると、「共同体」(gemeinde)は、古代共同体に始まり、近代民主主義と ともに解体されるまでの間、個別具体的に発展・継起してきたゲマインシャフトの多様な 形態と置くことができる。すなわち、多様な共同体を本質的にささえる集団性の外枠とし てゲマインシャフト(共同態)があり(大塚, 2000, pp. 4–5)、その外枠を満たす限りにおいて、
それらの集団は共同体と位置付けられるのである。経済史的な共同体は、労働者と労働の 分離に相まって、アジア(インド)における共同体による土地共有性が「私的土地所有の
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欠如」と批判された。私的土地所有は、個=自我の確立に不可欠なものとされ、共同体的 土地所有が近代における発展阻害要因として確立されていくのである(小谷, 1982, pp. 11–16)。
しかし、守田によると、部落(共同体)の所有意識は、私的所有と共同的所有が相対し て存立するのではない。部落の人々が「部落の田んぼ」と表現するとき、土地を共同所有 しているというのではなく、個々人が私的に所有する土地をゆるやかに束ね、共同的所有 観を形成しているのである(守田, 1978)。内山節がいう『総有』の思想でも近いものが語られ る。私的土地所有が存在しないために自我が形成されないのではなく、私的に土地を所有 しながらもそれぞれが共有の意識を持つ、言わば自我の確立の先に目指されるものが共的 な生活の中で形成されてきていることがわかる。
マルクスらの認識は、近代化を歩み始めた日本においても、大塚久雄や丸山真男などを 通して一般に受け入れられることとなった。大塚は、マルクス、ヴェーバーに依拠する形 で、共同体的土地所有を封建的で克服すべきものと主張し、丸山もまた共同体を日本近代 の停滞の根源と見た(色川、1997、pp.311)。土地の所有形態に加えて議論の焦点となったの は、共同体の社会システムを構成する封建制度の存在である。大塚らの時代、日本の近代 の未熟さが共同体に見られる封建的要素(資本家による労働者の支配)の残存に所以する という批判から封建遺制という言葉を用いて、口々に共同体からの脱却が唱えられ(谷川 &
中村, 1977, p. 247)、これにより個人の解放を促した。こうした主張は、資本主義から社会主
義への憧憬、すなわちヨーロッパへの憧憬と封建的なものからの脱却を目指す潮流となり、
共同体は封建的で時代遅れの対象という価値づけがなされた(内山, 2010)。それゆえ経済史に おける共同体は、前近代社会の特徴的な人間結合の型とみなされ、その存在は、資本主義 以前に限定されるのである(鶴見 et al., 1974, pp. 2–26)。
他方で、村落史を中心とする研究者らは、封建制自体を悪とする見方に問題があるとし て意義を唱えた。中村吉治(1977)は、近代の初めに見られたのは、雇用者と労働者の非公 平性において封建的な感情や習俗が残存し、雇用者がそれを利用しているという実態であ ると説いた。資本主義における地主と小作は、封建制度の本家-分家の主従関係と異なる。
本分家関係は、無媒介(直接的)な身分関係であり、労働とその見返りという計算の枠に 収まらない服従義務も含め、本家の支配は徹底している。しかし、その反面、本家は分家 の生活を保障し、主従が一体として存在する(中村, 1977, p. 229)。非封建的な資本主義社会に おいて、「封建的な双務給付のない一方的な家長権が利用された」のであり、資本主義とい う前提のもとに立ち現れた問題なのである(中村, 1977, p. 241)。すなわち、工場と女工の関係
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において、工場主は女工を低賃金で雇用し、役割を果たせなくなった時には解雇する。あ るいは、高額な現物小作料を地主が小作人に要求し、その未払いが発生した際に土地を取 り上げる。こうした関係を根拠に封建制の残影が指摘され、近代以前の社会的組織である 共同体も封建制度の同罪として批判されたが、これは資本主義によって生じた労働者の実 態であったと言える(中村, 1977, p. 230)。尚、中村は、近代において共同体が崩壊したという 見解を次のような理由で支持する。明治以降の共同体は、生産の単位が共同体から各戸へ 分解され、生産を基盤としたかつての真の共同体ではないことから、擬似的な共同体であ ると指摘する(谷川 & 中村, 1977)。すなわち、「近隣的契機」による共同体を本来の共同体 とみるのは間違いであり、それは単に共同体「行事」の一部であるという認識である(中村,
1977, p. 170)。その一義的意義によるところから、「生産」体制としてのまとまりが喪失した
時点で、共同体は近代に入るとともに崩壊せざるを得なかった。
西尾(2007)もまた、封建思想そのものが悪とされる風潮に一石を投じた。
日本の封建思想と戦うために、西洋近代を看板にしたてた人々が明治以来久しく攻撃の 目標としてきたものは封建思想そのものではなかったはずである。なぜなら、封建時代 はそのときすでにことばの純粋な意味では終わりを告げている。彼らは封建的風習の残 り滓と戦ったわけでもない。西洋近代の導入によって歪みを生じたところの封建道徳、
いいかえれば近代化され、変質したために起こったところの封建道徳の堕落形態と戦っ ていたにすぎない。封建道徳そのものは悪であるとは必ずしもいえまい。この世に絶対 悪は存在しない。ただ、近代化され、軟弱化した結果としての封建道徳の変種が、あの 時代の社会に相対的に有害であったにすぎない。とすれば、敵はむしろ「近代」の側に あったとさえいえるのではないか(西尾, 2007, pp. 17–18)。
つまり、中村も西尾も封建制度そのものに問題があるのではなく、そうした制度の上に 近代化が持ち込まれたことによって、問題が生じたのであり、共同体=封建として共同体 自体を批判することは間違いであると結論づける。すなわち、縦のつながりを基調とした 連帯において、個人を一旦バラバラにすることを促し、それぞれに自律を求めるのである から無理が生じるのは当然のことと言える。
さらに、近代社会と共同体社会における対立は、共同体規範と普遍的規範との違いにも 見られる。“むら”論を展開した守田志郎は、日本の部落を否定的側面のみによって評価す る大塚の『共同体の基礎理論』の所説を批判し次のように述べる。「水利用における部落的
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な規則、その他の農業生産上の規制関係、集団栽培や協業経営などの新しい組織的方向へ の制約性、生活における部落的規則、あるいは村八分、あるいは合議制、こういった部落 のもっている特性をとりあげて重ねていくことによって、部落のもつ共同体的な性格が浮 き彫りにされるというわけで、その結果これらのすべてが農民の生産と生活にとっての阻 止要因であり、ひいては日本の社会発展にとって阻止的である」からして、こうした部落 は終局的な崩壊に導かれるべきだとされる(守田, 1978, p. 22)。これらの規則や規制、集団性 が農村生活の営みにどのような役割を果たしてきたかではなく、近代的生活にどれだけ阻 止要因となっているかというものの見方を問題視したのである。
自立的であるが故に見られる共同体の特性もまた近代思想と対立的であった。日本近代 史家の色川大吉は、丸山真男や竹内好らの、「国体」の最終細胞としての「共同体」が停滞 性の根源であるという認識20を非歴史的な捉え方であると評した。丸山による部落共同体理 解、すなわち(1)その内部で個人の析出を許さない、(2)決断主体の明確化や利害の露な 対決を回避する、(3)『固有信仰』の伝統の発現地である、(4)権力と温情の即時的統一で ある、とした理解が、その後の丸山学派の日本社会認識を誤らせ、多くの官学出身の官僚 エリートの政策決定を誤らせた責任は見逃すことが出来ない。日本の部落共同体は、それ ほど単純ではなく「数世紀にわたる底辺人民の叡智の結晶を宿し、おびただしい失敗の経 験や惨苦の犠牲を通して考え抜かれ、創りあげられてきた、きわめてダイナミズムに富む 結集の様式」なのであり、「非合理的で封建遺制的な(契約的、作為的要素をもたない)「情 緒的直接的=結合態である」と見るのは」、知識人の一側面的で傲慢な見解であると、色川 は酷評する(鶴見 et al., 1974, p. 240)。(1)および(2)の背景には、権力に対する能動的な自 衛の原理があり、共同体が最小限の自衛・生活単位である以上、共同体内の分裂は死活問 題となる。最小単位の集団内における人間生活の営みの中で、あえて決断主体を明確にせ ず、利害の露な対決を回避するという生活の知恵が存在するのである。
これらの考察から共同体に共通して言えることは、外的な制約以上に内的な生活の必然 から、その特性が形づけられているということである。日本の農村社会学をけん引した鈴 木栄太郎(1894-1966)によると、日本の農村は三層の重層的構造からなり、その真ん中に 位置する第2社会地区(村落・村・大字・部落)は、とくに結束が固く、自主性・自立性が 最も強いと言う。鈴木は、この第2社会地区を自然村と呼ぶ(鈴木榮太郎 & 湯沢, 1999)。自
然村は、20-30軒の家々が景観的にひとかたまりになった集落であり、家を単位に生活連関
を形成し、それを支える組織として機能した。これは、集落を形成した人々が自然発生的
20 丸山真男『日本の思想』岩波新書、1957年