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正義と善論争から見る間柄の倫理

ドキュメント内 間柄の自律 (ページ 100-104)

3. 間柄の自律

3.2. 間柄の充実

3.2.2. 正義と善論争から見る間柄の倫理

間柄の倫理に多様性があるということは、普遍的な倫理との間に差異が存在することを 意味するのだろうか。間柄の倫理と普遍的倫理の関係性をどう見るか。先に結論を言えば、

普遍的な倫理は、間柄の倫理に優位的に存在するのではなく、間柄の倫理が存在しない場 合の後ろ盾として存在する。間柄の倫理において、普遍的倫理(例えば平等や自由)は前. 提的ではない......

のである。この「普遍的倫理」と「間柄の倫理」の関係性を、リベラリズム とコミュニタリアニズムのあいだで展開されてきた「正義」と「善」の論争に依拠しつつ 考察する。

政治的決定の正当化根拠となるべき正義原理は、「善き生(the good life)」の特殊構想-人

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生の意味・目的や人間の人格的卓越性を規定する様々な特殊理想-から独立した理由に よって正当化されなければならず、またかく正当化された正義原理の要請が善の特殊構 想の要請と衝突する場合は前者が優越する。正義と善とのこの関係規定は、多様な善き 生の理想を追求する人々がともに公平として受容しうるような基本構造を持つ政治社会 を志向するもので、まさに価値対立的正統性危機の克服を念頭に置いたものである。そ れは善き生の追求よりも正義の実現の方が重要であるという思想ではなく、人々にとっ て善き生の追求があまりに重要な問題であるがゆえに、国家は善き生を志向する人々の 自律的探究を、従ってまた善き生の解釈の多元的文化を尊重し、多様な善き生の探求を 可能にする基盤的条件としての正義の実現を自己の任務とすべきであるという理念に立 脚するものと私は解釈している。かかる解釈の観点からは、「正義の善に対する優位」と いうロールズの表現は不適切なので、「正義の基底性」と呼ぶことにしたい。正義を「基 底」にしてこそ善は豊かに開花するという思想がこの表現には託されている(井上達夫,

2000, p. 12)。(下線は引用者による)

井上達夫のこの文章から、間柄の倫理の構造的位置づけを確認するための論点が導かれ る。正義の基底性である。リベラリズムの立場に立つ井上は、正義を「正しい善き生の構 想」ではなく、「善き生の構想の対象となる価値とはタイプを異にする価値」と位置づける。

公共的価値としての正義は、「他の善き生の構想と同一平面で対立競合する善き生の構想の 一つではなく、多様な善き生の構想に対する共通の制約として妥当する価値でなければな らない」。リベラリズムにおいて正義が公共性をもつのは、「対立競合するすべての善き生 の諸構想を等しく助成・促進したり、等しく許容するからでは」なく、「すべての善き生の 構想を等しく制約する」からである。そして、こうした制約性を満たすと同時に、「特定の 善き生の構想に依存することなく正当化でき」る独立性の要請が満たされなければならな

い(井上達夫, 2000, pp. 104–105)。こうした意味において、正義は善とは別の次元に置かれ、

善の構想を制約するとともに基底的に存在するのである。

しかし、正義を「多様な善き生の探求を可能にする基盤的条件として」置くことが、正 義があるからこそ「善は豊かに開花する」ことを意味するのであろうか。正義の優位性で はなく、基底性に再構築した試みは、個別具体的なコミュニティの本質を蔑ろにすること なく人々の公平性を謳う点で間柄においても有効である。しかし、「正義の基底性」が物事 の判断の始点に...

正義を置くことを意味するのであれば、疑問が生じる。例を挙げるならば、

非暴力を正義として置いた場合に生じる局面である。教師による体罰が糾弾されつつも、

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いまだに部活動の顧問による生徒への体罰はなくならず、反対に、生徒の教師への暴力や 暴言も問題化している。この問題は、暴力は絶対悪であるという普遍的倫理を下敷きに、

何があろうとも暴力を選択肢としてはならないという点が強調されるが、これは公害対策 で言う「エンド・オブ・パイプ」アプローチに他ならない。エンド・オブ・パイプとは、

環境問題において、有害物質の発生抑制ではなく、発生した有害物質を環境に放出する段 階で環境汚染因子を固定化したり中和化したりといった処理を施すことを言う。暴力が発 生する状況についての深い検討が与えられず、何らかの不和状態を通して最終的な帰結と して現れる暴力のみを阻止しようと言う偏りに注目が集まらなければならない。暴力は、

全くの平和状態に突如として現れるのではない。暴力は、教師と生徒の間に根を張る不信 感や、あるいは人格的関係性に依らない教師という役割と生徒という役割に徹した機械的 関係性から芽生えたものであり、そこ(暴力)に到達するまでに、他者を敬う態度や役割 的関係性を超越した人間対人間における態度等、間柄で形成されるべき善が求められてい ないからこそ生じるのである。幼い子供が、自分の思うようにいかない出来事に遭遇した 時(おもちゃの取り合いなど)、思わず手が出てしまう状況がある。これに対し、大人は、

暴力は絶対にだめだと教えるのであれば、子どもはそこから否定的感情(制約)しか見出 さない。そうではなく、自分のおもちゃを独占したいという感情、友達もまた自分と同様 おもちゃを使いたいということへの認識、共有することで同時に楽しむことができるとい う解決策、順番に遊ぶというルール、といった多面的な観察と方策(すなわち子供の世界 における善)を理解することで、ただ暴力を我慢するのではない、より根本的でポジティ ブな解決法が見いだされるはずである。これは、非暴力という正義を掲げたからこそ(正 義による抑制効果があったからこそ)得られる方策ではなく、まさに善き生のための方策 である。暴力という絶対悪を抑制することを始点..

に.

することは、暴力が起きうる状況まで の過程を重視せず、結果としてより凄惨な暴力に結びつくことも考えられる。

すなわち、非暴力は、暴力が生まれる環境を生みださない間柄のあらゆる倫理の結晶と してあるのであり、非暴力を入り口に暴力のない世界が形成されるわけではない。正義が、

平等、非暴力等の言明を掲げるのであればそれらは成し遂げられるべきである。しかし、

間柄における個別具体的な倫理を省みずして、普遍的基準にまず判断をゆだねることは、

多様な間柄に生まれるべき発想や結果の抑制をもたらすのではないだろうか。

「守らるべき価値はこれだけです。あとは趣味の問題ですからお好きなように」ではな く、「守らるべき様々な価値のうち、公共の力によって強行しうるのはこれだけです。あと はあなた自身の生き方と他者への説得や他者との自由な協力を通じて実現に努めて下さい」

97 というのが、公共的価値としての正義...........

によって規制された政治的決定が伝えるメッセージ

である(井上達夫, 2000, p. 106)。とすれば、公共の規制以外の領域はどのように位置づけられ

るのであろうか。例えば、少年の非行行為を例に規制領域を考えてみる。もし少年が、自 身に影響を及ぼす家族や会社、学校等に帰属している場合、そうした行為は帰属先の集団 に伝わり、叱責や減給、停学処分等の懲罰を受けるであろう。しかし、帰属先がない、あ るいは少年の帰属意識が薄い場合、そうした共の領域は拘束力を持たず、公による裁きを 受けることになる。この場合、本来、共の領域において未然に防ぎうる行為は、共の不在 により公の関与を余儀なくする。では、構造的な問題以前に、少年を規制しているものと は何であるか。学校であれば、単位の取得や卒業にかかる不利な条件、勤め先であれば減 給や解雇、家族であれば叱責や生活へのサポートが受けられなくなる、など、少年自身の 物理的な不利益というものがまず挙げられる。しかし、それと同時に、この人には知られ たくない、迷惑をかけたくない、がっかりさせたくない、という精神的な抑制領域も存在 する。それが「間柄」の領域であると考える。個人主義化の進む現代において、人々は、

共の領域への帰属が流動的、短期的、表面的であり、それゆえ帰属意識が低い。この共の 領域の復活が希求される一方で、個別に「人間」と「人間」を結ぶ「間柄」の領域が果た す役割は大きいと考えられる。集団への帰属意識が低い、あるいは、帰属集団が存在しな い場合においても、いつも心配してくれる祖母、親身になって相談に乗ってくれる先生な どの「間柄」関係にある他者の存在が、人々の行為の指針となり、共の領域や公の領域を 下支えするのである(図10)。

10 拘束の領域

学校 (b) 共の領域

会社

家族

(c) 個の領域 (a) 公の領域

(d) 間柄の領域

(太字線部分)

家族 家族

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