第 6 章 無駄な工程・過剰機能・過剰品質と価値のダイナミック・モデル
6.2 設計開発工程の効率化に関する先行研究
6.2.1 二律背反のメカニズム
製品の設計開発を迅速に行うことは、企業が競争優位に立つ上で有効である。特に市場 競争が激しい領域においてかつプロダクト・イノベーション(Schumpeter, 1980)が要求される 製品を設計・開発しなければならない状況下では、企業は製品開発期間の時間を短縮させ るための努力を惜しまない。これは市場投入の遅れが売上げに影響を及ぼすからである。
しかし研究開発や製品設計のプロジェクトでは製品開発期間を短縮させようとすると、プ ロジェクト自身のコスト負担が加速する(Ahmadi et al., 2001; Graves, 1989)。このメカニズム は様々な方策から議論されてきた。
製品開発における納期を短縮させる方策として、まず人材を追加投入して速成をさせる リソース投入型開発(crash)がある。これは突貫作業である。Brooks (1975)は人材リソース を追加投入して速成させる突貫作業は結果として収穫逓減を招くとしている(Brooks, 1975)。
これは人材リソースが増えるに従って、人材間のコミュニケーションの量が増えるからで ある。一つのタスク(task)を n人の人材に分割して作業させると、人材間の一対のコミュニ ケーションの負荷はn (n−1)/2とnの二乗で逓増するので、一人当たりの生産性は逓減する。
従ってこのコミュニケーションの負荷を解決するために新たな人材やリソース投入が行わ れ、コスト負担が生じる。
もう一つの方策として、オーバーラップ型開発(overlap)がある(Clark & Fujimoto, 1989;
Roemer et al., 2000)。図6.1に示す。これは順序が決まっている逐次処理(sequential)型の作業 を部分的に重ね合わせることで同時並行的に進行させることである。つまりタスクが終了 すると次のタスクが開始する逐次処理型の作業を、タスクが終了する前に次のタスクを開 始させることである(Graves, 1989)。この方策によりタスクを前倒しできるので納期を短縮 できる。しかし各タスクは事前に終了しているタスクの情報全てを得ずに次のタスクを開 始しているので予期せぬ問題が各タスクで持ち上がってしまう。これが頻繁に手戻り修正 を引き起こし、追加のコスト負荷が生じる(Roemer et al., 2000)。研究開発の過程はオーバー ラップ型開発の一事例と言える。研究開発はそもそも不確実性の世界で取り囲まれており、
発見的教授法の過程をとらなければならない。研究開発の過程で成果物の期待を早めさせ ようとすると誤認と追加作業を招いてしまう(Graves, 1989)。つまりコスト負荷につながる。
リソース投入型開発とオーバーラップ型開発は共に製品開発における納期を短縮させる ことができる。しかし同時にコストの追加負担を生じさせてしまう。この二律背反問題が 設計のジレンマである。
6.2.2 トレードオフ検討に関する実証
リソース投入型開発とオーバーラップ型開発といった方策に見られるように、多様なタ スクを作り出すことで、設計開発工程の代替案が創出できる。そして幾多もの代替案の中 から最適解を求めようとする行為をトレードオフ検討と言う。
トレードオフ検討に関する実証的研究はネットワーク理論と確率統計理論を使って過去 に多く研究が重ねられてきた(Scherer, 1966; Mansfield, 1971; Putnum & Fitzsimmons, 1979;
Eastman, 1980; Boehm, 1981)。Scherer (1969)は確率的見地から理論的モデルを構築し、
Mansfield (1971)は化学系、電気系、機械系企業11社のイノベーション創出された29個のプロ ジェクトから所要時間と所要コストは傾きが負で下に凸の曲線になることを検証した (Scherer, 1969; Mansfield, 1971)。 Putnum & Fitzsimmons (1979)や Boehm (1981)はソフトウエ アに特化してMansfield(1971)同様の検証結果を得ており、そこからソフトウエアのプロジェ クトのコストを予測できる独自のモデルを構築している。そして Boehm (1981)は観測デー タから通常のソフトウエアの開発における所要時間はその75%が納期を短縮できる限界点 であると指摘している。
Ahmadi et al. (2001)は宇宙航空プロジェクトでオーバーラップ型の工程をモデル化し、所 要時間と所要コストのトレードオフから最適解を求めることを目的とした実証研究を行っ ている(Roemer et al., 2000)。前掲の図6.1はその実証結果である。本事例は宇宙航空エンジン
図6.1 逐次処理型とオーバーラップ型開発(Roemer et al., 2000)
用ターボポンプの設計開発である。逐次処理型をオーバーラップ型開発で置き換えた時の それぞれの納期の対比と、オーバーラップ型開発時に発生した各タスクの追加負荷量が示 されている。
二律背反の検証は半導体の製品開発でも行われている。昨今の半導体やハードウエアと いった製品設計・開発を取り巻く環境として、製品自身が受ける市場と技術の圧力の存在 がある。これは製品の大規模化と複雑化を要求し、同時に短納期で出荷を迫る圧力である。
実際のところ製品の大規模化と複雑化は製品設計開発工程におけるタスク数を増大させる。
そしてそれらタスク間で知識と技術情報の交換が大きくなることで製品開発の所要時間が 押し上げられている。これはタスク間の相互依存性の問題である。デザイン・ルール(Clark
& Baldwin, 2004)を規定し、外部の半導体IP (Intellectual Property)をモジュールとして利用す ることで、タスク間の相互依存性を減少させることが可能となる。これで所要時間は短縮 できるが、所要コストの負担は増大する。つまりハードウエア設計においてもトレードオ フの関係は存在する。このことは有機EL (Electronic luminescence)ディスプレイ・ドライバ ー半導体設計開発プロジェクトに対するシミュレーションで検証されている(山本, 2004)。
図6.2はこのシミュレーション結果であり、所要時間のリスク値RSと所要コストのリスク値 RC の関係を累乗近似曲線で示したグラフである。この近似曲線を経済学的視点で無差別曲 線ととらえ、受容リスク値制約線の設定を予め取り決めしておくことでトレードオフ上の 最適モデルの選択が可能となる。
0 20 40 60 80 100 120 140
0 50 100 150 200 250
所要時間Rs
所要コストRc
y = 117.38x-0.7324 R2 = 0.6157
(単位:100万円) (単位:100万円)
図6.2 半導体開発における時間とコストの無差別曲線
6.2.3 トレードオフ検討の限界
リソース投入型開発やオーバーラップ型開発の中で、製品開発工程の既存タスクを適用 し、代替案をトレードオフ検討することは、既存の設計開発工程の枠の中での議論である。
本来企業の製品開発における競争力を堅持させる有効な手段は、所要時間と所要コスト 双方の低減を実現できる製品設計開発工程のモデルを創造することであり、これが抜本的 な効率化につながる。つまりこれまでの議論は図6.3の無差別曲線上に留まるものであるが、
本研究の関心は設計開発工程を抜本的に効率化することで、無差別曲線を矢印の方向に押 し出すことである。
設計開発工程の創造とはイノベーションである。製品のアーキテクチャという概念を援 用して理解するならば、設計開発工程とはタスクの集合である。タスク自身は多様化でき、
タスクを要素として持つ構造モデル、つまり設計開発工程も多様な代替案が創造できる。
そして多様な設計開発工程が存在するならば、それぞれに従属した所要時間と所要コスト が多様に存在する。これは製品のアーキテクチャが多様化すればそのアーキテクチャに従 属した製品の性能や効用が多様化するのに似ている。
尚、ここでいうアーキテクチャとは、製品や設計開発工程の性質を理解するためのシス テム的な概念である。この性質のとらえ方は「分け方とつなぎ方」に着目する。つまり全 体をどの様に切り分け、部分をどの様に関係づけるかということである(Clark & Baldwin, 2004)。Ulrich (1995)や青島(1998)によれば、アーキテクチャを「構成要素間の相互依存関係 のパターンで記述されるシステムの性質」と定義している(Ulrich, 1995; 青島, 1998)。この システムの性質が製品の場合には製品の性能や効用であり、設計開発工程であれば所要時
所要時間
所要コスト
現在の実現可能領域
効率化 境界
図6.3 設計開発工程の効率化の方向
間と所要コストということになる。製品の多くはそのアーキテクチャのイノベーションな しには改善されないのであるから、製品の性能や効用を高めるには製品のアーキテクチャ のイノベーションを創造することにある。同様に、設計開発工程の所要時間と所要コスト の改善には設計開発工程というアーキテクチャのイノベーションを創造することである。
アーキテクチャの概念から設計開発工程が多様に存在しうるというのであれば、問題は どのような基軸でもってそれらの設計開発工程を比較し、最適解を得るかということであ る。トレードオフ検討は所要時間と所要コストの二つの基軸による設計開発工程の効率化 と言える。しかし、設計開発工程にはこの二つ以外に計るべき尺度、指標が多数存在する はずである。それならば、その中から指標を一つ選び、設計開発工程の効率化を検討する もう一つの基軸として追加すれば、トレードオフ検討では解析が困難な問題にも対応でき るはずである。
そこで、次節では設計開発工程のアーキテクチャを創造し、効率化を実現させた日本の 自動車メーカの成功事例を取り上げる。それは価値を基軸とするリーン思考を拠り所にし たものである。