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3. 摩擦音・破擦音の有標性:言語間差異とその音声学的基盤

3.2. 言語間差異が生じる理由:先行研究における説明とその問題点

摩擦音と破擦音の獲得順序に見られる言語間差異の存在は、普遍的な有標性階層を想定する言語理 論の立場においては大きな問題であることから、先行研究においては言語間差異を説明しようとする 試みがなされてきた。

Beckman et al. (2003)は、音韻獲得において言語間差異が生じる理由は、個別言語における音素の使 用(出現)頻度にあると述べている。Beckman らの議論では、有標性は音声学的な複雑さ(産出の困 難さなど)、個別言語における音素頻度など複数の要因から成り立っており、音産出の難しさはどの言 語においても共通であるのに対し、個別言語における音素頻度は言語により異なっており、一般に有 標だとされる音であってもその言語での使用(出現)頻度が相対的に高い音は獲得が早くなりうると される。しかし、Beckman et al. (2003)では英語と日本語の閉鎖音と破擦音およびsと ʃ の獲得順序に見 られる言語間差異と個別言語の音素出現頻度の関係を議論したものであって、摩擦音と破擦音の言語 間差異と個別言語の出現頻度との関係については具体的に言及されていない。

摩擦音と破擦音の言語間差異について、Beckman et al. (2003)の仮説を検証した研究にTsurutani (2007) がある。Tsurutani (2007)は、日本語を母語とする1歳から1歳11ヶ月の子を持つ6名の母親の対乳児 発話に出現する音の出現頻度(トークン数)を調べたものである。Tsurutani は自身の調査結果(対乳 児発話中の音の頻度)と先行研究で報告されている成人のカジュアルスピーチ中の音素頻度のデータ を比較して、成人の発話ではtʃ の出現頻度はsや ʃ の出現頻度よりも低いが、対乳児発話においては sの出現頻度(806回)や ʃ の出現頻度(1069回)よりもtʃ の出現頻度(1253回)のほうが高かった ことを指摘し、日本語においてtʃ の獲得が早いのはこのような対乳児発話中の音の頻度が音の獲得に 影響を与えたためであると述べている。また、tʃ の出現頻度の高さは特定の表現(例:「~ちゃん」、「~

ちゃう」、「~ちゃった」など)によるものであり、これらの表現は別の音に置き換えることが可能で ある(「ちゃん/さん」「ちゃった/てしまった」)ことから、Tsurutaniはtʃ は頻度は高いが重要性は低 い音だと見なすことが可能であり、日本語でtʃ の獲得が早いのは日本語においてtʃ が重要な機能を果 たしているためではなく、純粋に頻度の高さによると議論している。

Tsurutani (2007)の研究は、乳幼児にとって特に重要な入力であると思われる対乳児発話中の音の頻度 に基づいて議論している点において非常に意義があり、摩擦音と破擦音の獲得順序に見られる言語間 差異は個別言語の音素頻度によって生じていることを強く示唆するものである。しかしながら、

Tsurutani (2007)では日本語の成人の発話と対乳児発話における音の頻度の比較はされているが、tʃ の獲

得が ʃ の獲得よりも相対的に遅い言語(英語など)における音素頻度との比較がなされていない点が 問題点として残されている。

そこで、本研究では ʃ の獲得に比べてtʃ の獲得が相対的に遅い英語と、ʃ の獲得に比べてtʃ の獲得 が相対的に早いとされる日本語におけるこれらの音の出現頻度について比較してみることとした。そ のための方法として、英語と日本語について摩擦音・破擦音の出現頻度に関する調査を行った先行研 究から摩擦音と破擦音(ʃ とtʃ)の出現頻度を抜き出し、摩擦の出現頻度を1としたときの破擦音の出 現頻度を筆者が計算して求めた。ある言語における ʃ とtʃ の相対的な獲得順序がその言語の音素頻度 と関係しているのであれば、ʃ の獲得が相対的に早い英語では ʃ の出現比率が高く、tʃ の獲得が相対的 に早い日本語ではtʃ の出現比率が高いことが予測される。結果は以下の表のとおりであった。

Denes (1963)はイギリスにおける英語学習者向けの会話テキストに出現する音素頻度を集計したも ので、Denes (1963)に記載されたデータに基づくと英語の ʃ とtʃ の出現頻度の比は1: 0.53であった。

Crystal and House (1988a)は、英語の2つの読み物の中に含まれる音素頻度を集計したもので、Crystal and

House (1988a)に記載されたデータに基づくと英語の ʃ とtʃ の比は1: 1.14であった。日本語については

複数の先行研究が利用可能であった。中西他(1970)は、日常の養育場面において幼児の周辺にいた 全ての人物が交わした会話(幼児に向けられたものも成人同士で話されたものも含む)に出現する音 素頻度を調べたもので、中西他(1970)に記載されたデータに基づくと ʃ とtʃ の比は1: 0.79であった。

Tsurutani (2007)は、1歳から1歳11ヶ月の子供に対する母親の対乳児発話中の音素頻度を調べた研究

で、Tsurutani (2007)に記載されたデータに基づくと ʃ とtʃ の比は1: 1.11(「し」と「ち」をそれぞれ/s/,

/t/に属する音だと見なしてカウントした場合には1: 2.27)であった。Takeyasu and Akita (2009)は音素の

獲得順序と個別言語の音素頻度の相関を分析した研究で、彼らが用いたのと同じデータベース(Kakehi

et al. (1996)のオノマトペの辞書)に基づくと、ʃ とtʃ の比は1: 1.37であった58。岡田(2008)は日本語

話し言葉コーパスに出現するモーラ頻度を調べたものであり、ここでの ʃ とtʃ の比は1: 041~1: 0.55 であった。以上の結果は、全体として、ʃ と tʃ の比は同じ言語内であっても研究(すなわち基づくコ ーパス)によって異なっており、一概に日本語において相対的な破擦音の頻度が高いとは言えないこ とを示すものであった。

以上のデータベースは、先行研究ですでに集計して整理されたデータに基づいて ʃ とtʃ の比を調べ たが、英語の対乳児発話に関するデータを集計して記載した研究が見当たらなかった。幼児の音韻獲 得における個別言語の音素頻度の影響を議論するのであれば、当然英語の対乳児発話またはそれに近 いのデータに基づいて議論すべきである。そこで、本研究ではCHILDES Parental Corpus (MacWhinney 2000, Li and Shirai 2000)に挙げられているデータを集計し、音素頻度を求めた。このコーパスには両親 などの養育者やその場に居合わせた観察者の発話に含まれる語のトークン数が記載されており、コー パス作成者によれば、全ての語が対乳幼児発話に含まれている語ではないが、これらの語は幼児が典 型的に耳にする発話を代表する標本だと見なすことが可能である。コーパスに含まれる語はタイプ数

で約 24000タイプ、トークン数ではおよそ260万トークンであるが、本研究では使用頻度が高い方か

ら上位 1000位までの入った1000語(タイプ数)について、その語に含まれる音素(今回の分析では 子音のみに限定した)の数にその語が出現したトークン頻度を掛け合わせたものの総和を求め、各音 素の出現頻度とした。例えば、rightという語のトークン頻度が16107トークンだとすると、この語に

表 31. CHILDES Parental Corpus (MacWhinney 2000, Li and Shirai 2000)のデータの再分析結果

順位 音素 出現頻度 順位 音素 出現頻度 順位 音素 出現頻度

1 t 429137 9 h 136450 17 r 58750

2 n 267352 10 z 132717 18 f 56347

3 ð 255011 11 s 131690 19 ŋ 52091

4 d 203320 12 w 116081 20 ʃ 33069

5 j 192935 13 g 96715 21 θ 30698

6 k 155991 14 b 92759 22 tʃ 16375

7 m 151602 15 v 74380 23 dʒ 14125

8 l 149256 16 p 60226 24 ʒ 251

58オノマトペは以下で議論するように幼児語と共通する特徴を持っているとされ、乳幼児の言語獲得と 密接な関係があると考えられるので、分析に加えることとした。

含まれる子音はrとtであるため、rightという語に関してはrとtはともに16107回ずつ出現したもの と見なした。同様に、putという語のトークン数が13432トークンであった場合、pとtがそれぞれ13432 回出現したものと見なした。集計の対象としたのは単子音のみで、子音連続59や成節子音、また、記述 上の誤りだと見なせるものなどは除外した。このようにして、上位1000語まで、その語に含まれる音 素とトークン数を掛け合わせて、最終的に各音素ごとにそれを集計して最終的な音素出現頻度とした。

CHILDES Parental Corpusの分析結果における ʃ とtʃ の比は1: 0.50であった。このコーパスの元となっ

た発話は養育場面で幼児の周辺で交わされる会話、すなわち対乳幼児発話と周囲の成人の発話をとも に含んだ会話であるから、上で挙げた日本語のコーパスで言えば中西他(1970)のものと近いと考 えられる。この 2つのコーパスを比較すれば、英語では日本語に比べて相対的に ʃ の出現頻度が高く tʃ の出現頻度は低いといえる。

ʃ と tʃ の相対的な出現頻度という観点からは英語と日本語の間には必ずしも顕著な差が見られなか

ったにもかかわらず、ʃ と tʃ の音韻獲得の順序は両言語間で異なっている。このことは、直ちに個別 言語の音素頻度説を否定するものではない。考えられるのは、「乳幼児にとっての音素頻度」は個別言 語における音素頻度から単純には計ることはできないという可能性である。例えば、コーパスの上で は同じ音素頻度の音であっても、幼児にとってなじみのある語や幼児語に比較的多く現れる音は、そ うでない音よりも幼児にとって心的な重みが大きい存在となる可能性がある。先ほど挙げた ʃ とtʃ の

表 32. 英語と日本語における ʃ とtʃ の出現頻度の比

言語 出典 データの概要 ʃ: tʃ の比

英語

Denes (1963)

英語学習者向けの会話のテキストに出現する音

素頻度(トークン数) 1: 0.53

Crystal and House (1988a) 2 つの読み物に出現する音素頻度(トークン数) 1: 1.14

CHILDES Parental Corpus (MacWhinney 2000, Li and

Shirai 2000)

幼児の周辺で交わされる会話に出現する音素頻

度(トークン数) 1: 0.50

日本語

中西他(1970) 日常の養育場面における幼児の周辺で交わされ

る会話に出現する音素頻度(トークン数) 1: 0.79

Tsurutani (2007) 対乳児発話に含まれる音素頻度(トークン数) 1: 1.11 (1: 2.27)

Takeyasu and Akita (2009)で 使用されたデータベース

Kakehi et al. (1996)に記載されているオノマトペ

に含まれる音素の頻度(タイプ数) 1: 1.37

岡田(2008)

日本語話し言葉コーパ スに含まれる音素頻度

(トークン数)

学会講演 1: 041 講義講演 1: 0.52 模擬講演 1: 0.55

対話 1: 0.53

59 今回の集計においては、fly, sky, sendにおける/fl/, /sk/, /nd/などは子音連続と見なして除外したが、

rememberのmbのように前の音節のcodaと続く音節のonsetに振り分けることができる場合には/m/と

/b/は連続とは見なさないこととした。また、破擦音は一つの音素としてカウントした(例えば、tʃ をt

と ʃ からなると見なすことはしなかった。また、it‟sなどの[ts]については子音連続だと見なして今回の 集計では除外した)。