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2. 閉鎖音の調音点の有標性とその音声学的基盤

2.5. 先行研究における Jun (2004)のスケールの検証

2.5.1. Kochetov and So (2007)による知覚実験

Junのスケールを検証するためには、「...VC1C2V...」という音環境にある刺激を用いた知覚実験が求 められる。また、調音点同化を全く起こさない言語の音声か、充分にコントロールされた合成音など を用いなければ結果の妥当性に疑問が投げかれられることになる。このような条件をクリアした上で 行われた研究として、Kochetov and So (2007)を挙げることができる。

Kochetov and So (2007)は、Junのスケールを検証するために、ロシア語話者、英語(カナダ)話者、

韓国語話者、中国語話者(それぞれ14名ずつ)を対象とする知覚実験を行った。英語話者以外はカナ ダに移住してきた人で、移住してきた時期はそれぞれ異なるが、それぞれの言語と英語のバイリンガ ルであった。実験では 4つの系列の刺激が使われており、これらの刺激は、2 名のロシア語話者がキ ャリア文に入れて発音した[taC1 # C2ap](Cにはそれぞれp, t, kが入る)という語をキャリア文から切 り出したものに、以下の手順で操作を加えて作成された。

①:手を加えない(C1 release有、後部要素有) e.g. [taptap]

②:C1のreleaseのみ削除 e.g. [ta_tap]

③:後部要素のみ削除 e.g. [tap ]

④:C1のreleaseおよび後部要素を削除 e.g. [ta_ ]

刺激は先行母音の中央部を基準にして強さが同じになるように調整された。被験者らのタスクは C1 を同定することであった。p, t, kは音韻論的にはいずれも無声閉鎖音であり、調音点以外の点では等 しいものであるため、以上の方法によって音の知覚しやすさに関する調音点の影響を推定し、Jun の 仮説の妥当性を検証することができる。

Kochetovらが立てた予測は、(12)のとおりである。

(12) Kochetov and So (2007)による実験結果の予測 a. releaseの有無による正答率:released > unreleased b. C1の調音点ごとの正答率:dorsal > labial > coronal

c. C2による正答率:C2 = coronalのときのC1正答率 > C2 = labial/dorsalのときのC1正答率

d. 言語による差:ない(「dorsal > labial > coronal」や「released > unreleased」は言語によらず 成立する

(12a)はC1にreleaseがある場合にはない場合よりも正答率が高くなるというもので、releaseが調音点

の情報を持つという複数の先行研究に基づいてKochetovらが導き出した予測である。この予測は、Jun のスケールがunreleasedなものしか対象としないということを問題視したKochetovらによって、検証 対象として加えられたものである。(12b)は Jun の(10b)のスケールから予測されたものである。(10b) のスケールが実際の知覚しやすさを反映しているのであれば、実験の結果(正答率)は(12b)のように

「dorsal > labial > coronal」となるはずである。(12c)はJunの(10c)のスケールからの予測である。(10c) のスケールが妥当であれば、実験結果は(12c)のようになるはずである。(12d)は、(10)のスケールが普 遍的に共有されたものであるというJunの想定から導き出されたもので、絶対的な正答率は被験者の 母語によって異なる(例:子音連続を許容する言語の話者は許容しない言語の話者よりも正答率が高 い)としても、相対的な調音点の知覚しやすさ(「dorsal > labial > coronal」や「released > unreleased」)

は被験者の母語に関わらず共通であるという予測である。(12d)の予測は、統計検定の観点からは被験 者の母語とC1調音点との交互作用の有無を調べることで検証可能である(交互作用がなければ、調音 点による知覚しやすさの度合いが母語によって異なるとは言えないことになり、予測は支持される)。 以下に挙げたように、被験者の母語は、codaの子音を許容するか、許容する場合には、子音連続にお けるC1の同化の有無、C1のreleaseの有無という3つの観点についてそれぞれ異なる制約を持ってい る。このような言語間の違いに関わらず(12d)の予測を支持する結果が得られたならば、それはJunの スケールが普遍性を持つことが示唆される。

表 11. Kochetov and So (2007)が対象とした4言語の特徴

Codaの閉鎖音 C1C2におけるC1の同化 C1のrelease

ロシア語 可 しない する

英語 可 coronalで同化する する(optionally)

韓国語 可 coronal, labialで同化する しない

中国語 不可 ―

結果

KochetovらはC2をプールしたときのC1ごとの平均正答率を明らかにしていないので、Kochetov and

So (2007: 410, 419)の表に記載されているデータから筆者がC1の平均正答率を求めたところ、表 12の

とおりとなった。

表 12. Kochetov and So (2007)の実験結果(p, t, kの正答率)

p t k

条件① 75.3% 67.3% 88.3%

条件② 66.9% 50.6% 40.1%

条件③ 76.5% 67.3% 91.6%

条件④ 70.3% 67.1% 42.2%

Kochetovらの実験結果と(12)の予測との関係は以下のとおりであった。

releaseの有無による正答率

Kochetovらは、被験者の母語においてC1がreleaseされるか否かに関わらず、いずれの言語の話者

についてもreleaseがあるときのほうがないときよりも正答率が高く、(12a)の予測は指示されたと報告 している35。Kochetov らが報告しているデータよると、releaseがある場合(条件①、条件③)の正答 率はそれぞれ77.0%、78.5%であったのに対し、releaseがない場合(条件②、条件④)の正答率はそれ

ぞれ56.0%、62.5%であった。統計的検定は行われていないが、releaseがある場合にはない場合よりも

一貫して正答率が高いこと、また、release の有無に関する知覚実験を行った先行研究(Wang 1959, Lehiste and Shockey 1972, Lisker 1999)の結果とも矛盾していないことから、Kochetovらの報告は妥当 であると解釈できる。

C1の調音点ごとの正答率と、言語による差

Kochetov らによると、C1の正答率は C1の調音点ごとに異なっており、その序列は表 13 のように

releaseの有無によっても異なっていたと報告している(「>」は有意な差が報告されたことを示してい

る)。Kochetovらは、releaseがある条件での正答率は(12)の予測を支持する結果が得られたが、release がない条件では予測を支持する結果は得られなかったことを指摘し、Jun の(10b)のスケールは完全に は支持されなかったとしている。また、KochetovらはJunの(10b)のスケールは閉鎖音がunreleasedで ある場合を想定したものであることから、releaseがない条件でスケールを支持する結果が得られなか ったことは問題であると指摘している。

一方、被験者の母語による正答率に関しては、条件によっては平均の正答率には被験者の母語によ る違い(母語の主効果)が見られたが、調音点×被験者の母語の交互作用は観察されなかった36、すな わち調音点による相対的な知覚しやすさの程度(releaseがある場合:「k > p > t」;releaseがない場合:

「p, t > k」)については母語による違いが見られなかったことが報告されており、Kochetovらはこのこ とから(12d)の予測を支持する結果が得られたと述べている。

表 13. Kochetov and So (2007)の実験結果:C1調音点によるC1正答率 後部要素\release release有 releaseなし

C2有 条件① k > p > t 条件② p > t > k

C2なし 条件③ k > p ≧ t 条件④ p, t > k

C2によるC1正答率

Kochetov らは、C2によって C1の正答率が異なるという結果は観察されず(差は最大でも平均でわ

ずか3%程度)、また、被験者が回答に要した反応時間の点から見ても、Junの(10c)のスケールは支持

されなかったと述べている。ただし、Kochetov らは C2の影響に関して統計的検定はしておらず、被

35 ただし、Kochetovらはreleaseの有無による正答率の差の度合いは調音点や言語によっても異なって

いたことも同時に報告している(Kochetov and So 2007:413))。いずれについても統計的な検定は行わ れていない。

36 条件③においては調音点×被験者の母語の交互作用が有意であり、これはロシア語話者が他の言語の 話者と異なる傾向を示していた(ロシア語話者ではpとtの間に差がなく、「k > p, t」であった)と報 告されているが、これは予測に矛盾するものではないと判断可能である。

験者の母語によってC2の影響が異なるか否かなども分析していない。

2.5.2. Kochetovらの実験の問題点と、残された問題点

Kochetovらの実験は、子音連続において調音点同化を起こさないロシア語の音声で、かつ調音的に

同化が起こっていないことがmagnetic articulometerによって確認されたもののみを刺激とすることに よって、Jun のスケールを直接的に検証したという点、また、背景の異なる言語の話者を被験者とす ることで、スケールが普遍的であるというJunの想定を検証し、そうした言語的背景の違いにも関わ らず相対的な調音点の知覚しやすさの度合いは言語間で差がなかったことを示すことによって、スケ ールの普遍性を明らかにしたという点において画期的なものであった。

しかしながら、Kochetovらの実験では実験で設定された要因が3つ(C1調音点、C2調音点、被験者 の母語)あり、(12)の予測のもとで結果を分析するに当たっては 3 つの要因のいずれもが分析に組み 込まれること(例:3 要因の ANOVA)が必要であるにも関わらず、Kochetov らの分析に組み込まれ たのはC1調音点と被験者の母語の2つのみであり、C2は組み込まれていない。KochetovらはC2の影 響はなかったと報告しているが、これはC2がそれぞれp, t, kであるときのC1平均正答率を主観的に 比較することでなされたものであり、本当に差がなかったのかどうかは不明である。さらに、C2を分 析に組み込まなかったことで C2×C1または C2×被験者の母語といった交互作用の有無についても検討 がされないまま放置されてしまっている。このような状況では、本当は C1×被験者の母語の交互作用 が存在している(有意である)のにも関わらず、それが見逃されてしまう危険性がある37。Kochetov らの実験は、の予測にあるようにC1×被験者の母語の交互作用がないときに予測(= (12d))が支持さ れるというデザインとなっているため、この点は重大な問題となりうる。

先行母音がaに限られている点も、スケールの普遍性を検討する上では問題となる可能性がある。

VCフォルマント遷移のみまたはVCフォルマント遷移とreleaseが存在する刺激を用いて知覚実験を 行った先行研究(Halle et al. 1957, Lehiste and Shockey 1972, Lisker 1999)では、先行母音によっても調 音点の正答率が異なることが指摘されている(= (11b))。どの母音のときにどのような傾向があるのか については必ずしも先行研究間で同一の結果が得られていないが、尐なくとも先行母音によって調音 点の知覚しやすさは異なる可能性があるということを考えると、Junのスケールを先行母音が a 以外 の母音である刺激を用いて検証することは有意義である38

Kochetov らの実験結果からは、Jun のスケールは完全には支持されなかった。このことから、Jun

のスケールは修正される必要があるように思われる。ただし、Kochetovらの実験には上で挙げたよう な問題点も存在することから、本来はJunのスケールが妥当であるのにも関わらず、Kochetovらの実 験の側に問題があったために誤った結論が導き出された可能性も否定はできない。Kochetovらの実験

37 KochetovらがC2の影響を述べる際に行ったような、C2がそれぞれp, t, kであるときのC1平均正答

率の比較(C2の主効果)によって結果をまとめて一般化する方法は、C2とその他の交互作用が有意で ある場合には、常にとは言えないが、適切ではない。

KochetovらはC2の違いによって生じるC1正答率変化は平均で3%程度であったと述べているが、

Kochetov and So (2007: 410)に記載されているデータを見る限りでは、特定の条件でのC1とC2の組み合

わせにおいて、C2の違いによりC1正答率が10%以上異なる場合もある。もちろん、データは回答のば らつきとの相対的な関係において議論されなければならないため、見かけ上の正答率の異なりの大き さだけでC2の影響があったかどうかを判断することはできないが、尐なくともC2の影響が全く無かっ たとは断言できない可能性がある。

38 この点については、Kochetovら自身も様々な音韻環境のもとで更なる検証を行う必要があることを 述べている。